ある日、大きな木の下にて
一番鳥さえまだなかない早朝のこと。
王の代理で朝参に訪れた楊彩花は、戸惑っていた。
南を王宮に、北を氷嶺山に挟まれた柱木の森は、はるか上空の御領へとのびる巨木を祀っている。
毎日この森へ足をはこび、柱木のかたわらにある社の神棚へ酒と神饌をそなえて、祈りをささげるのが王族の役目だ。
彩花は今日、いくつかの偶然によりこの場所に立っていた。
まず、本当ならここにいるはずの白崔国の王は、宰相に呼び出されて王宮の正殿へ出むいている。これはままあることなので、代理を務めるのは問題ない。
次に、社の主たる女巫の姿がないこと。彼女がきのうから御領の祭事で多忙なのは承知しており、これも自分で行う作業がいくつか増えるだけで、彩花としては「珍しいこともあるものだ」くらいの感覚だ。
王の来訪がなければ、出むかえる神官の姿はなく、女巫がいないのでおつきの侍女もいない。もとより静かな場所に彩花の靴音だけがひびき、森はいっそう神聖さと、わずかな不気味さを漂わせていた。
そしてめずらしいといえば、この霧である。
目を覚ましたじぶんには、初めて見るような濃霧が王宮をおおっていた。宮の下男にたずねると、街までずっとそんな状態らしい。視界がきかないから分からないが、もしかすると国全体が霧に飲みこまれているかもしれなかった。
おかげで、社に着くまでに水気を吸った服が腕や足にまとわりつき、ずいぶん不快な思いをした。
王と女巫の不在、息がつまりそうな濃霧。かといってそれらが、いまのこの状況を引きおこしたとは、さすがに考えられない。
彩花は目を閉じて深呼吸し、状況の整理を終えてふたたび「それ」を直視する。
彼の目線のすこし上、国民からは聖樹とも呼ばれ拝まれる柱木の枝に、子供がひとり、引っかかっていた。
誰だ。というか、なぜだ。
警備の穴をついて侵入したにしろ、なぜこんなところで行き倒れているのか。
ゆっくり上下する背中から見るに、生きてはいるようだが、長い髪が垂れて顔が見えない。
太い幹が二股に別れたところに、頭を枝先にむけて、ちょうど猫が縁の欄干に体を投げ出しているような格好だ。
彩花は腰に手をやり、そこに馴染んだ感触がないことで、この森が武器の持ち込みを禁止していることを思い出す。
ただ剣がなくても、相手は警戒に値しそうにない子供だ。
「おい、そこの……子供」
とりあえず、いちど呼びかけてみる。
神饌の盆で両手がふさがっていなければ、髷を結ったうしろ頭をかきたいところだ。
「おい」
「んん……」
何度か呼びかけていると、子供が目を覚ましたらしい。もぞもそと頭を動かしている。そして、思いのほか勢いよく起き上がろうとした。
「え……あ?」
「危ない動くな!」
自分の状況が分かっていなかったらしい子供は、それでもとっさに枝を掴もうと手をのばしたが間に合わない。
小さな体が落下する。
その刹那、広がった黒髪の間から、大きな緑の瞳が彩花を捉えた。
ぶるりと、恐れに似たなにかが彩花の背を駆け抜ける。
その瞬間、彩花の脳裏に浮かんだのは、この子供に怪我をさせてはいけないという、強迫的な命令だけ。
彩花は手にしていた神饌の盆を放り出し、地面との間にその身を滑り込ませた。
次話→落ちてきた子供は何者?