前夜、大きな木の上にて2
「よいしょ…あ」
洞のふちに手をかけた名無しが中をのぞきこむと、小さく光る目とぶつかりそうになった。
突然の侵入者に「キュッ」と不満の声を上げたのは、御領に放されている栗ねずみだ。
「あなたの家だったの、ごめんね」
せっかくの宿だが、名無しより先に住んでいたものを追い出すわけにはいかない。さてどうしようかと、腰かけた枝の上からあたりを見まわす。
目をこらすと、遠くに屋敷の灯りが見えた。
本当なら、いつもより豪華な食事をして、妹たちと札遊びでもしているころだ。
きっとみんな、名無しがすねて房に閉じこもっていると思っているはず。いま戻れば、誰にも気付かれずに房の寝台に潜り込めるだろう。
でもそのあとは、また同じ毎日のくり返しが待っている。
社へ出仕しない年の斎子は、屋敷で手習いをし、繕いものや掃除などの仕事をおぼえ、年下の子供たちの面倒を見るのが役目だ。
いったい名無しはいつまで、年端もいかない子供と同じ扱いをされるのだろうか。
ため息をついて、名無しは屋敷の灯りから目をそらす。さしあたっての問題は、どこで夜を明かすかだ。
御領は地上のように恐ろしい動物はいないから、ひと晩くらい木の下でもなんとかなる。しかし、万一、乳母が探しに来たらすぐに見つかってしまうだろう。そうなれば、屋敷に戻り乳母に叱られて終わりだ。
せめて、娘が一人いなくなったと父の耳に入ってほしい。どうせ叱られるなら、父から直接叱られたいというのはわがままだろうか。
「わあっ」
落ち込みかけた名無しの頭に、突然なにかが落ちてきて前につんのめった。
あやうく地面に落ちそうになるのを、枝に抱きついて何とか事なきを得る。
それなりの高さまで登ってきたので、落ちたら腕の一本も折りかねないところだ。
ほっと息を吐きながら起き上がると、頭の上に落ちてきた「なにか」が、数度はねて今度は枝を握った名無しの手元に降りてきた。
さきほどの栗ねずみだ。
「なに?」
ぴんと耳を立てた栗ねずみは、素早い動きて何度か首を傾げたあと、「チチッ」と鳴いてまた跳び上がった。
それを追って振り返ると、家である洞のふちに立って、また「チチッ」と鳴く。まるで「おいで」といっているようだ。
「もしかして、泊めてくれる?」
「チッ」
「ありがとう!」
名無しは顔を輝かせると、栗ねずみについて行った。
まねかれた洞の中は月明かりも届かず、さらに暗かった。けれど名無しが膝を抱えて座っても少し余裕があるくらいの広さで、底には栗ねずみが方々から集めたらしい、木の葉や枯れ草が積もっていて柔らかい。
「あなた、家を作るのが上手ね」
膝の上に乗ってきた栗ねずみにそういうと、鼻をひくひくさせて得意げな顔になる。
それを見ているうちに、この子に名前をつけてあげたらどうだろう、と名無しは思いついた。
せっかく家にまねいてくれたのだし、なにより名無しが大好きな白の木に住んでいるのだし、これからも仲良くしたい。友達になるのに、呼びかける名前がないのは不便だ。
恩のある栗ねずみを「名無し」なんて呼ぶわけにもいかない。
「お父さまは、どうやって名前を考えるのかな」
御領には乳母をつとめるほど年老いた者から、まだ指を吸っている幼子まで、両手では到底足りないくらいの斎子がいて、その名前は全て父神が決める。
指先で栗ねずみの頭をなでながら、名無しは枝の隙間から空を見上げた。
かすかに雲がかかる空には、輪郭の淡い月が柔らかな光を放っている。もうすぐ満月だ。
「小望……小望はどう?」
膝の友人に尋ねると、「チッ」と了承の声が返ってくる。
「決まり。あなたは小望ね」
「チチッ」
歌うように言えば、小望は楽しそうに跳ねた。それから、名無しの腹の上で丸くなり、ふわふわの尻尾に顔を埋める。
「名前くらい、こうやってくれればいいのに。お父さまなんて嫌い」
温かい生きものを撫でながら、名無しも目を閉じた。
明日、屋敷を抜け出したことを叱られたら、名無しにできることがなぜ父にできないのか、問いただしてやろうと思いながら。
次話→柱木の洞で眠りについた名無し。目が覚めると…。