謁見2
それからいくらも経たず、待ち人は到着した。
「国王陛下のお出まし!」
堂の外から槍の打音が響き、硬い声が告げると、武官たちは一斉にその場にひざまずいた。
彩花も同じく片膝をつき、すり減ってなめらかになった石の床を見つめる。
一足ごとに鳴る歩揺、袍が床に触れるさらりさらりとした衣擦れ。そのあとにしたがう宰相の靴音と、護衛の剣がゆれる金属音。それらがゆっくりと通路を進み、玉座へとむかって行く。
咳払いひとつ憚られる緊張が、王の歩みとともに堂を満たして行った。
やがて、深い沈香の匂いが彩花の前をとおりすぎた。王だけが身に纏うことを許される、白い布地に白い糸で刺しゅうを施した豪華な袍のすそも、先の尖った革靴のはしも彩花の視界には入らない。
玉座についた王が居住まいを正す間があって、わきに立つ宰相が竹簡を広げて口を開いた。
「先般、景長郡に接する城壁が黒府の不穏分子によって破られ、民家が略奪の被害にあった。即時派遣された領軍により侵略は防がれたが、いまだに城壁が一部破壊されたままであり、民の不安も大きくある」
数年前まで国境のあちこちで繰り返された戦いの影響で、新王が即位したあとも国を囲む城壁は完全に修復されていない。景長郡があるのも、応急処置として煉瓦を積んだだけの場所に近かった。
景長郡はさほど大きな町ではないため、略奪の被害も限定的だ。しかしいつまた城壁をこえて、隣国から武装した者たちが襲ってこないともかぎらない。民兵だけでは町を守るのがで精一杯で、それもいつまでもつか分からなかった。
過去にくらべ国内は確実に安定している。ただ、こういったところに代がわりの傷を残しているのも事実で、取り組むべき課題の大きな比重を占めていた。
「国王陛下より、宮軍東部大将へご下命である。景長郡の守護として、東部宿より中師を派遣する」
「謹んで拝命いたします」
頭を低くしたまま進み出て竹簡を受け取ったのは、狐顔の男だった。すると、この男が現在の東部大将なのだろう。
彩花は顔をふせたまま、男の顔を記憶にとどめた。
「陛下のご退出」
宰相が告げて、王が腰を上げる。現れたときとまったく同じ、乱れのない歩幅で通路を行き、残り香だけを土産に置いて堂から姿を消した。
わずか四半時にも満たない邂逅である。
両開きの扉が閉まったとたん、兵たちが深く息を吐き出す。その顔からは、彩花を迎えた横柄な態度は消え去っていた。宰相から辞令を受けた東部大将までも、その顔には放心したような表情が浮かんでいる。
彼らがよけいなことを思い出さないうちに、彩花はそっと堂を抜け出した。
「彩花」
同じくすぐに堂から出てきたのは、呂将監。
「温老師」
呂が追いつくのを待って、二人は肩をならべて歩き出す。
現在は将監という相談役のような地位にある呂温は、若いころ長く北方の前線部隊にいて、いくつもの戦果を挙げ大将まで上り詰めた叩き上げだ。そして、幼い彩花をあずかり武人に育てた師でもある。
初陣から領軍将を拝命するまで、彩花は呂の麾下にあった。
果果が養母だとすると、呂は養父といえる。
「老師もおいでになるとは、うかがっていませんでした」
「東部大将が新任での。兵部から立会い人として呼ばれた。老いぼれの飛び入りなど、知らせる必要もなかろう」
どうだろう、と彩花は苦笑する。たとえ謁見の場が別の堂へ変更になったとしても、彩花に知らせる伝令はこない気がした。
縁を行きかう官人たちが、あからさまに二人を避けて行くのを、彩花は目礼だけしてすれ違い、呂は官人が視界に入っていないように黙殺する。
「征大将はどうされたのですか」
「脚を悪くしての。すこし前に引退したわ」
「そうでしたか。ずいぶんと無沙汰をしております」
「忙しくしとるようだのう」
呂は目尻にしわを刻んで笑う。
「しかし、陛下はあいかわらずのお方だ。衣擦れで兵どもを圧倒し、かと思えば残り香で全員を籠絡なさる」
兵どもの呆けた顔を見たか、と愉快そうだ。
首脳陣が集まる毎朝の朝議でさえ、王がじきじきに発言することはない。大臣といえど直答は許されず、すべて宰相の司馬が取次ぎをするしきたりだ。それが兵卒の身分となれば、同じ場にいながら顔を上げてその姿を見ることすらかなわない。
兵たちにとって、王とは父神にも並ぶ尊い相手だった。
その王がほんの一時、玉座に腰掛けるのにわざわざ現れたのは、兵の鼓舞が目的だ。
地方への中師派遣程度ならば、宰相の室に東部大将を呼んで辞令を渡せばすむ。しかし王が臨席することで、任務の重さは何倍にもなるのだ。栄誉ある任に就く兵たちは、それだけで軍内部の評価を上げる。
「と、やつらは思うておろう。しかし、実際はどうであろうな」
「老師」
彩花は目で周囲をうかがう。
礼儀は知っているのに、怖いもの知らずの発言をするのが、この老将の悪いくせだ。
「主の率いる領軍の後釜となれば、不満を持つ者が多い。それを抑えるために、陛下はお出ましになったのだろう?」
景長郡で黒府の勢力と戦った将として、彩花はあの場に呼ばれた。形式上、任務を引き継ぐことになる宮軍は、派遣されたとしても、せいぜい城壁を越えてやって来る夜盗の追い出しと、工部が行う修復工事の見回りしかすることがない。呂がいうとおり、おもしろくないのだ。
佳了はなにもいわないが、謁見という体で宮軍に花を持たせたことは承知している。
「陛下には、過分なお気づかいをいただいております」
誰が聞いているかも分からないので、彩花は慎重に言葉を選んだ。
「ほっほ。勘繰るでない。仲よきことは美しきかな、といいたかっただけよ。では、主の宮まで気を抜くでないぞ」
六十近くとは思えない力で彩花の背を叩き、呂は去って行った。