前夜、大きな木の上にて
長いこと待ったのだ。
もう我慢できない。
◆
目的地に辿り着き、名無しは足をとめた。
夜も更けたころにひとりで屋敷を抜け出し、篠笛と琴の音から逃げるように歩きつづけて、ようやく柱木のざらざらした幹に手をついたときには、草を踏み分けた靴が湿って指先は冷たくなっていた。
名無しの背丈の何倍もある柱木は、ずっとずっと下の、人が住む地上から生えていて、名無しの暮らす神の御領をささえている。
御領にはほかにも赤や黄の柱木があるけれど、名無しは目の前にある白の木が一番好きだった。
いい匂いのする、爪の先ほどの小さな白い花をつけて、満開をすぎたころに風がふくと、まわりが見えなくなるほどに舞い踊る。名無しは春になると、きまって白の木のかたわらに座りこみ、乳母が迎えにくるまで一日中でも花の散るさまを眺めていた。
けれどいま、枝には緑の葉がしげるばかり。その葉も夜の暗がりに溶けてしまい、名無しのしずんだ気持ちをなぐさめてくれない。
名無しは鼻をすすりあげて、ぼうと橙に光る鬼灯をかかげた。
太い幹をまわりこみ、枝を何本か数えた先に、ぽっかりと空いた洞が見える。そう大きい洞ではないが、あそこなら夜風も急な雨も防いでくれるだろう。
あれを今日のねぐらと決めて、名無しは鬼灯を地面に立ててから一番近い枝に手をのばした。
◆
世界には天と地があり、父なる神が定めた理で命が廻っている。
地には王が治める六つの国で民が生活をいとなみ、父神がおさめる天の御領には、社で務めを手伝う斎子たちが暮らしていた。
斎子は父神と地上の民である母たちのあいだに生まれた娘で、生まれたときから御領の大きな屋敷で育つ。そして年ごろになると名をもらい、社で父のそばに仕えることができる。けれど名無しは、十四になってもまだ名を貰う祭に呼ばれなかった。
他の姉妹たちはすでに立派な名をもらって、父がいる社に奉仕しているというのに、この年まで「名無し」なのは己だけだ。
乳母の話しでは、今年は十を数えたばかりの妹まで社に呼ばれたらしい。
ことあるごとにお願いしても、いつも父は「次は必ず」と笑って名無しの頭をなでるだけ。実際に、その約束が守られたことはなかった。
名付けの祭のために地上からやってくる母たちや、たくさんいる姉妹たちは、そんな名無しを憐れんで優しくしてくれた。
祭の後には、「来年はきっと呼ばれるから」と、絹の帯や瑪瑙のかんざしが名無し宛に送られてくる。でも、そんなもの嬉しくもなんともない。
名無しがほしいのは、祭のための衣や髪飾りではなく、社に呼ばれて父から与えらえる名前だ。それは、名無しにも父の関心があるという証拠だから。
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