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三日間の掌編

前話「演技派のお姉ちゃん」の時のリネと葵の小話4つです。

前話を読んでもらった方が分かり良いです。

・・1


相手を説得するために正論など持ちだしてはいけない。

相手にどのような利益があるか、話すだけでいい。

             ―――ベンジャミン・フランクリン


「ほう」

「葵、何読んでるの」

「ベンジャミン・フランクリン」


 いつも可愛らしい小説などを呼んでいる葵が、珍しく小難しい本に顔を埋めていた。

 蔵書室の黒い主に短く答えると、勇ましげな顔で本を閉じ、小さな声で自分を鼓舞しながら大きな扉を潜っていった。


 ***


 良い姉を演じるにあたって気を付けたいことがいくつかあった。


 ひとつは、決して姉とは認めないこと。後から言質を取っただなんだと言われそうだ。

 ふたつは、言葉は選ぶこと。好きだなんだとは言えない。それで喜ばれでもしたら、さすがに罪悪感が増す。最終手段として取っておこう。

 そして最後に、べたべたさせないこと―――。


「姉さま! 読みたいと仰っていた本をお持ちしました!」

「ありがとう、リネ」

「あの、ぼ、僕もっ、一緒に読みたいのですが、あの、良ければ、長椅子で隣り合って…!」


 調子に乗るな、という言葉が喉元まで出かかった。

 笑顔の目尻がピクピクと小さく痙攣したが、リネは目を強く瞑って俯いていたので気付かなかったようだ。

 葵はリネから顔を逸らし、後ろ手にあったカーテンを掴んで気を落ち着かせた。


「いや、本を二人で読むのって……読みにくいし、ほら、読むのが早い方のストレスになるし……」

「姉さまのスピードに合わせます! 読みにくいなら、では……、あの、僭越ながら姉さまには俺の…僕の、ひ、ひ、ひ、膝に乗っていただいて………!」


 は―――――――、悪化した。

 葵は窓にうっすらと映る自分の顔の歪みっぷりにも驚いたが、それ以上に背後で初恋を知った女子高生のようにもじもじと手足をすり合わせる男への戦慄で忙しかった。

 仕草は可愛らしいのだろうが言っている内容は欲望にまみれすぎている。

 握られたカーテンがめりめりと不穏な音を立てた。引っ張られてカーテンレールも悲鳴を上げだした。


「別々で読んだほうがいいと思うわ」

「いえ、同時に読んだほうが時間がお得ですよ」

「えっと、そのー、あー、私が読んでいる間にリネが腕立て伏せやっててくれればな~、感心しちゃうのにな~」


 後先と細かいことを考えないようになってきた。


「うでたてふせ…?」

「うん、腕立て伏せをできる人って凄いよね。私、できないから、感心しちゃう」

「感心というのは、その、僕のことを凄いって思ってくれるってことですか?」

「もちろん! そういう意味よ」


 信じられないことに乗ってきたリネに、葵は自分の計画が波に乗ったことを確信し、仮面のない晴れやかな笑みでリネを振り返った。

 その顔を見て、疑問を浮かべていたリネの顔はたちまち紅潮した。


「し! します! 姉さまが本を読み終わるまで、腕立て伏せ、します!」

「わ~ほんと? すごい、できるの?」


 葵は胸の前で指を絡めた両手を右に左に振りながら、わざとらしい高い声を出した。


「できます! あの、できたら、褒めてくれますか?」

「当然よ! じゃあ、そこでしててね。読み終わったら出てくるから」


 本を抱えるとそそくさと奥の自室に引っ込んだ。

 扉の向こうから数をカウントする声が聞こえる。

 懸命な声に思うところがなかったわけではないが、読了したと申告するまでは、葵はしばし安寧の時を得た。




・・2


「よくできたね」と褒めるのではなく、

「ありがとう、助かったよ」と感謝を伝える。

             ―――アルフレート・アードラー


「腕立て伏せで助かることなんてないな…」

「葵? 何読んでるの…」

「エルロイ、腕立て伏せをしている人に、何か助けてもらったことある?」


 リネが借りていった本を葵が返しに来た。

 それだけなら幾分の不思議もないが、本を元の位置に返すやいなや、葵は啓発本のようなものを読み出した。

 質問に返ってきた質問は更に奇妙な疑問を呼ぶものだった。

 葵はため息をついて本を元に戻すと、「はあ、脚本を書くって難しい…」と呟きながら大きな扉を潜っていった。


 ***


「2,953、2,954、2,955、2,956、2,957、」

「…」


 部屋では黙々とリネが腕立て伏せをしていた。

 本を返却するまで続けていて、と言ったのを忠実に守っているらしい。手元には汗が水溜りになっていた。


(さ、さすがに数時間このままは悪かったかも…)


 葵が部屋に入ってきたのも気付いていなさそうだ。

 肩まで伸びた髪が顔を覆っていて、左右の視界は悪いせいもあるだろう。しかしそれ以上に、汗で目が開いていない可能性もある。


(良い姉なんだから、ちょっとは労うべきよね………)


 ほんのり浮かんだ罪悪感を取り払うように適当な言い訳をつけて、ポケットからハンカチを取り出した。


「…っ、姉さま…?」

「あー…、お疲れ様、終わり終わり」


 突如頬を拭われてリネは中途半端な位置で腕を止めた。

 見るからに辛そうな体制だったが、腕が震えることもなかった。膝をついて正座をすると、頬に置かれた葵の手に自分の手を重ねた。湿っていて熱い。


「あ、ありがとうございます…」


 疲れているのか、汗だくの顔は赤らんでいて目もうつろだ。

 ハンカチはみるみる内に水気を含んで元の役割を失っていく。

 別のタオルでも持ってきたほうが良いと葵は手を引こうとしたが、重ねていた手に力を込めてリネが引き留める。もう片方の手も葵の腕に置いて顔を擦り寄せた。

 一瞬だけ見開かれた目は、葵の手かハンカチか、さもなければ両方の香りを堪能するように閉じられた。


「ちゃんと拭かないと、風邪ひくわよ。タオル、あの、持ってくるから」

「………」


 反応がない。荒い呼吸がハンカチを通して手に伝わってくる。


「感心、しましたか?」

「へ」


 手を犠牲に諦めを覚えて部屋をぼんやりと眺めていたら、手元から声がかかった。

 うっすらと開いた青色の瞳がこちらをじっと見ている。


「………あー、あ、うん、すごいすごい。びっくりした」

「本当に? じゃあ何で褒めてくれないんですか」

「いや、すごい。すごいよ。うん、頑張ったね」

「……もっと…」


 床に手をついてリネが上体を葵に近付ける。

 もう前髪がしっとりと湿っている程度で、顔の汗は乾いたようだ。その中で瞳だけがいやに潤んできらきらと光を反射している。


「もっと、褒めてください。僕は…リネは、頑張りました」

「うん、……そうだね」

「僕…、俺、姉さまのために、姉さんが喜んでくれるから、何でもする。します。だから褒めて」

「ちょ、ちょっと」


 リネの腕が葵の腰の横を通って座り込む葵のお尻の横に置かれる。もう片方が太ももの上に置かれて、足をこじ開けて間に収まろうと体を滑り込ませてくる。葵はリネの肩を押して体を引いたがびくともしない。

 もう呼吸を整える時間も十分にとったはずなのに、忙しい深呼吸が耳のすぐ横で聞こえてくる。


 様子がおかしい。

 足の上の手に力が込められて少し痛む。スカート越しに震えているのが伝わってきた。


「えっと、いやあ! リネってすごい人ね! 誇らしいわ!」


 状況の打破が思い浮かばなかった葵はこの湿った空気を吹き飛ばそうと努めて明るく大きな声を上げた。


「………誇らしい?」

「ええ、なに、その、がん、頑張ってくれてありがとう! 皆に自慢するわ、リネってこんなにすごいのよって」

「自慢……」

「だから、ええっと、とにかく! あなたが頑張ってくれて嬉しいの。ありがとう!」


 もうやけくそだった。

 少しリネが体を引いて隙間ができたことによって、葵の本能が「このまま続けろ」と命じているのを感じた。


「俺、別に何も…姉さまの役に立ってない」

「いやいや、こんなになるまで頑張ってくれたじゃない。十分よ」


 葵は床の惨事を示した。

 フローリングに出来た汗溜まりはまだ乾いていない。リネが足で更に散らせたところもあって当初より広がっている。


「自慢…、自慢の弟、ですか? 俺が」

「え、自慢?の同居人?っていうか…、いやまあ、そんな感じかな…」


 肯定はできないが否定するのはもっとまずい。

 頭の中の警鐘が二つとも鳴り響いて葵を混乱させた。

 しかしそんな混乱はリネの目には映らなかった。


「嬉しい…! 嬉しいです! 俺、俺、姉さまのために頑張りました! 姉さまの自慢の弟なんだ! ははは、やったあ」


 リネが葵の胸めがけて飛び込んできた。

 衝撃に体全体が少し後ろに滑る。

 背中に回された腕は強く葵を締め付けたかと思うと、徐々にゆるみ、頭と共に下へ落ちていった。

 葵の太ももに着地した頭から寝息が聞こえてきた。


 葵は長い長い安堵のため息をつくと、目に入ったソファに手を伸ばし、クッションをとって慎重に頭と足の間に差し込んで抜け出た。


 こんなことでもなければ、人間の頭がこんなに重いなんて、葵は一生知らなかっただろう。




・・3


共感性は信頼と愛情の第一歩!

相手が食べるものを同時に食べると印象アップだゾ!


「よし!」

「いや"よし"じゃなくて。何から何を学んでいるの、葵は」

「"これであの人は君の思うまま~手玉に取るなら今だ!魅惑の小悪魔編~"」

「かにゃんの寄贈書…」


 エルロイは葵が手元に掲げた本を見て細い目をさらに細くした。

 つり上がった目に反して、普段は落ちている垂れた眉がしかめられる。


「何か企んでる」

「ちっ! ちがうよ~あはは~エルロイったら変なの~」


 葵は本を逆さまの状態で本棚に返すと、右手と右足を同時に前に出して歩き出し、めちゃくちゃな鼻歌を奏でながら大きな扉を潜っていった。


 ***


「姉さまもポタージュがお好きだったんですね! 僕も好きです。好みも似るんですね、お揃いですね!」

「そうね、ふふふ」


 笑顔も板についてきた。

 自分でも棒だと思っていた演技もなかなか様になっているではないか。

 葵は自分の演技力を心の中で自画自賛した。男を手玉に取る悪女になった気分だ。


(よし、リネの食べる順番に合わせて…)


 葵はまずは水を飲むふりをしながら、リネの動向を観察した。

 リネと同じ動きをすることで、相手に共感性とやらを感じさせる算段だ。


 しかし、リネはにこにことこちらを見つめながら水を飲み始めた。


(おっと、まずは水を飲むタイプだったか。まあ結果オーライね。じゃあ、適当に会話をして何から食べるか迷ったふりでも…)


 葵はフォークを手に取ると、並べられたサラダ、ハンバーグ、スープにライス、ピクルスを眺めて、「どれも美味しそうね」と実に適当に言った。


「そうでしょう! ここの料理はとっても美味しいんです! 食堂のおばちゃんは昔子供が20人いる大家族の使用人をしていた人で…」


 しまった。会話を始めたら食べないじゃないか。

 リネはフォークこそ手に持っているがその手が何処かを目指すことはない。


(食事を、とにかく食事を始めさせないと。もう会話よりも食事に気が向きました、と思わせればきっと食べ始めるわね)


 仕方なく葵はピクルスが入った小皿を持ち上げて、ぱりぱりと食べ始めた。

 リネが何かに手を付けたらすぐにそちらに移るつもりで。


 しかしリネはせわしなく美味しいかどうか聞いてくる。会話をやめるつもりはないらしい。食事中に会話が絶えない家で育ったタイプだ。葵もどちらかというとおしゃべりな家庭だったから、それに嫌悪感はない。しかし今は食べ始めてほしい。


「美味しいわ。リネも食べないと、冷めちゃうわよ」

「あ、そうですよね。いただきます」


 一緒に食べ始めるようになってから、気が付いたらリネは葵を真似て食前に「いただきます」を言うようになった。

 葵はリネを注意深く観察した。

 このままではリネがピクルスに手をかける頃にはこちらのピクルスが尽きてしまう。


 リネは小皿を持ちあげた。ピクルスが入った小皿だ。


(ああ、なんだ、アタリだわ)


 葵は安心してピクルスを食べ続けた。

 一品食べきってから次の品へ、という食べ方は普段はしないのだが、リネが食べ続ける限り食べていたら終わってしまった。

 しかし食べ終わるタイミングはほぼ同じだった。

 葵はまた次の手を見つめた。こちらに違和感を持たれないように、一度フォークを置いてスプーンに手をかけるふりをして、スープでもその他の品でもすぐに手を出せるように備えた。


 リネはフォークを置いて、スプーンを手に取った。


(スープだわ!)


 葵は確信して揚々とスープに口を付けた。

 一拍おいてリネも飲み始める。

 温かくてまろやかなコーンポタージュだ。子供のころに好きだった味。しばし観察を忘れてその味を楽しんだ。


 しかし二、三口を付けたら別の味を取り込みたくもなるものだ。

 葵はスープの皿にスプーンを置いたまま、サラダに手をかけた。

 無意識だった。

 ただこの日々の中での少ない楽しみたる食事というイベントを普通に楽しんでいた。


 ふと思い出してリネを見ると、リネもスープの途中でサラダに手をかけていた。

 葵は不意に何か…、何かに気付いた。

 なんとなく、スープに戻ってみた。


 リネも戻った。

 ハンバーグを一口切って口に入れてみた。

 リネもハンバーグを食べた。


(こ、小悪魔…!)


 計算された気品は、産まれ持ったそれには勝てない。

 人工物のダイヤよりも天然のダイヤの方が輝きは鋭いもの。

 葵は自分の敗北を確信し、早々に食事という楽しみに没頭することに決めた。




・・4


嘘つきは泥棒の始まり


 ***


「姉さま、あの…、僕のこと、好きですか?」


 演じる上で、決めた三原則。

 好意的な言葉はなるべく口にしたくない。


 自分のためだ。


「僕は大好きです。あなたは理想の姉さまです」

「あー、その、嬉しいわ」

「姉さまはどうですか? 僕は姉さまの理想の弟になれていますか?」

「ええ、そうね、いいんじゃない」

「足りないところがあれば言ってください。望み通りの弟になります」


 リネはいつになく真剣だ。

 いや、彼はいつも一生懸命なのだが、葵の笑顔がこちらに向いても、葵と目が合っても、逸らすことなく葵を見つめている。戸惑っているような、見定めるような、感情がたくさん渦巻いているような、しかしどこか虚ろのような、そんな顔だ。


「あの、そういうの、別にいらないと思うわよ」


 葵は自分にとってのいい姉は何かをこの三日間ずっと考えていた。

 物語に出てくるような、慕われる姉を想像し、見本としていた。

 好意的な言葉以外のありとあらゆる言葉を駆使してリネの信頼を得ようとしていたが、ここにきていかにそれが難しい課題かを思い知っていた。


「そのままで十分よ。変わる必要なんてないでしょう」

「じゃあ、今の僕は好きですか? 今のままであなたの弟って認めてくれますか?」


 どっちもノーだ。敢えて言うならいくら変わったって弟にはなりえない。


「嘘でもいいから、好きだって言ってください」


 一歩近付いて、手を伸ばせば届く距離だ。

 いい姉であれば、ここで頭でも撫でて、どんなに愛しているか説き始めるのだろうか。

 愛する弟の泣きそうな顔を見て、そうせずにはいられない姉はいないんだろうか。

 自分には本当の弟も、そこまで愛する兄弟もいないから分からないんだろうか。


 でも、葵は一つ、気付いてしまった。

 自分のやっていることは、彼らと同じだ。

 大義名分があれば、悪い人間が相手であれば、嘘をついて傷付けてもいい。

 彼が心から欲しているものを与えるふりをして奪い取っても、保身のためだと言い訳して、自分を許すつもりだ。

 彼と同じ土俵に()()()行いだ。


「……そういうのは、あまり軽々しく言うことではないから」

「嘘でもいいんです」

「嘘で言うのはもっといけないわ」


 葵に大きく一歩近付いたリネは、悲しげにその足を戻した。


「じゃあ、僕の誕生日、とか、そういう特別な日に、なったら、言ってくれますか」


 守れない約束はどうだろう。そこまでひどい行いではないだろうか。

 葵は頭の中でボーダーを決めかねていた。


「そうね、そういう日になったらね」

「! はい! その日まで、いえ、それ以降もずっといい弟でいますから! 約束ですよ、姉さま」


 リネは素早く葵に近付き、手を取って無理やり小指を絡めた。

 楽しそうに指切りげんまんを歌うと、「こんなに誕生日が楽しみなのは初めてです」と満面の笑みで葵の手を両手で握りしめた。


「その日に一緒に居なければ、守れなくても仕方ない、で済むわよね」


 卑怯な物言いなのは分かっていた。葵はリネに聞こえないように静かに自嘲した。

 こんな罪悪感も、無事に家に帰れたら吹き飛ぶに違いない。

 大好きな友達や家族に「それは仕方ないわよ」、「あなたは悪くない」と一言言ってもらえれば、何もかも忘れられる。


 いつも冷たい目で見ていたリネの笑顔を、今日ばかりは見えないように、葵は少し俯いた。

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