演技派のお姉ちゃん
船が地上に降りる時が来た。
来るべきは三日後という。
「目立たないところに泊めますけど、万が一見つかったら危険なので姉さまは部屋から出ないでくださいね」
どうにも葵が逃げるという考えはないらしい。彼にとっては拉致でも監禁でもなく、気まぐれに出て行ったものの帰るタイミングを逃して気不味い思いをしている姉を連れ戻してあげた、という体なのだ。葵にとっては理解しがたい思考回路だったが、実に好都合だった。
その日までの今しばらくの我慢だ。
この数日を従順に過ごせば、より脱出の成功率は上がりそうだ。
葵は今までチャレンジしたこともない演技の課題を自らに課し、プロの女優であると言い聞かせた。
「り、りぃねは、っその日、お仕事あるの?」
「! はい! あります! 重要な役目を仰せつかっています」
珍しく姉が自分に興味を持ってくれたことがリネには嬉しかった。
明らかに噛み噛みだったが気にならなかったようだ。
プロの女優でも台本のない演技は難しい。葵は自分を慰め、気を新たにした。
「そうなんだ、頑張ってね」
懇親の笑みは不器用に歪んだが、向けられたリネは胸を抑えて喜びに打ちひしがれた。初めてもらった激励に、リネはICレコーダーを持ち出してもう一度とねだった。
目は口ほどにものを言っていたが、葵は頭の中で自分が彼にとっていい姉であると洗脳した。
ねだるごとに言葉が返ってくるのが嬉しくて、とうとうマスターした素晴らしい笑顔で「しつこいわよ」と言われるまで、録音はしばらく続いた。
『姉さま、姉さま! 期待してるって言ってください!』
『あなたの働きに皆期待してると思うわ」
『そうではなく! 姉さまに期待されたいんです!』
『…………………私もとっても期待してるわ』
自分の声があまりにも邪魔だ。交互に喋ってるならまだしも、食い気味に重なったり、姉さまの笑みを見てしまう度――それはまばたきごとに訪れる――奇声を上げているので姉さまの声にがっつり被っている。
リーダやかにゃんや、他の団員たちから、遠回しに「彼女はお前の姉じゃないんじゃないか」と言われていたが、やっぱりそれは彼らの勘違いだ。
こんなに自分のために心を尽くしてくれる人が身内でないわけがない。それも特別、愛のこもった身内だ。
あまり人の立ち入らない、一階にやってきた。備蓄室や牢屋に連なり、整備室が入っている。その整備室の住人に用事があった。
「ヤットラー」
重たい扉の先は暗く薄ら寒い。シンとして人気のない廊下の空気とまるで違い、激しい機械の轟音とがやがやと騒がしい喋り声が聞こえる。
リネの声掛けに、白衣をまとった無数の小さな生き物たちが目を光らせてリネを見た。
「リネだ!」
「リネ」
「なんだい」
「誰だって?」
「リネが来た」
整備室を管理する、小さなモグラの一族だ。白衣を着て人間の言葉を解する以外、普通のもぐらと変わりない。他の難しいことは何もできないが、なぜか機械整備だけはお手の物。ずっと昔からこのドーラ号を守る小さな精鋭たちだ。
取りまとめるのはサイズの大きすぎる眼鏡を揺らしているモグラ。眼鏡のヤットラーだ。
「なんだ、リネ。俺たちは死ぬほど忙しい。歯車に挟まったヤットラーを回収する方法を探してもう三日だ」
「僕が出してあげるよ。お願いがあるんだ」
「あと油壺に落ちたヤットラーと梁に上がったまま降りれなくなったヤットラーがいる」
「任せて。助けてあげちゃう」
ヤットラーの小さな手ではできないことが少しばかりありすぎて、忙しさにかまけて放置されているヤットラーはたまにいる。そんな時、こんな風にたまの来訪者に助けてもらうのだ。
「大丈夫? ヤットラー」
歯車の間に挟まれていたヤットラーは、体を歯車の形に馴染ませながら煙草を吸っていた。
「なあに。仕事をサボってしけこめるいい言い訳を見つけたぜ」
おそらく明日には忘れているだろう。
「うーわ、べとべと」
「よーぉ、リネじゃねえか。おっ前お肌のお手入れはちゃんとした方がいいぜ。服まで脂ぎってら」
油壺の中のヤットラーは小さな手で何度も目をごしごしと擦っていた。
「俺ァ今世界で一番背が高い! 俺が天下だ!」
梁の上で手足を震えながら虚勢をはるヤットラーは、回収の際にはリネの胸に乙女のようにしがみついていた。
三匹を助け出したところで、眼鏡のヤットラーが「何を頼みに来たんだよ、へへへ。聞いてやるぜ。へへ。仕方ねえなあ」と小さく飛び跳ねながらリネを促した。
「この音声を女性の声だけ抽出してほしいんだ」
「はー、そんなこと、これをこうしてこうしてこうしてこうだ。これくらいできねえとな」
レコーダを真っ二つに分解したかと思うと、四匹ほどのヤットラーがやってきて、眼鏡のヤットラーと一緒になって目にも止まらぬスピードで何かをした。何分、小さな手がさらに小さな機具を分解し、部品を取り出し、お人形サイズのパソコンで何かを編集し、元通りに組み立てるまで、ものの一分も経たなかったため、リネには何が起こったかよくわからなかった。
しかし、渡されたレコーダーには確かに姉の声だけが残っていた。
「うわあ、ありがとう、ヤットラー!」
「へへ、まあな、これくらいできねえとな。へへへ」
携わったヤットラーたちはリネの喜びの声に、揃って指で鼻下を高速で擦った。
『頑張ってね』
雑音の消えた音は、より強い愛情を帯びているように、リネには聞こえた。
***
「葵がおかしい」
「わかる」
人気のない蔵書室の大きな窓の足下で、かにゃんが膝を抱えて座っていた。横に座るエルロイが間を置かずに同意する。
二人の後ろからティーセットを三人分用意したマーロがやってきた。
「おかしいって何が?」
慣れた手つきで二人にお茶を提供すると、机を挟んで向かいにマーロは腰を落ち着かせた。
ふかふかの絨毯に明るい空の景色。居心地のいい空間は、本来は蔵書室の主たるエルロイの定位置だが、今日ばかりは興味を引く話題を持ってきたかにゃんを受け入れたらしい。
数少ない女性団員であるかにゃんは、歳の近い葵の存在を喜び、最近ようやく雑談を交わせる仲になってきたところだ。
「にこにこしてる」
「いいことじゃない」
マーロはいつもどおりの仮面のような笑顔だ。
リーダに連れてこられたマーロは義賊の仕事に関与していない。詳細を知らない他の団員から見ると、葵とほとんど同じ立場の存在だ。望んでここにいる時点で、葵から見れば全く違っているのだが。
「おかしいじゃない! リネから逃れてここから出たいって気持ちありありで、警戒を怠らない傷だらけの狐みたいだったのに!」
「傷だらけなの? うそ、知らなかった。僕ちょっとお見舞いに行ってくる」
「例えだよ、マーロ」
腰を持ち上げたマーロをエルロイが目で制する。
「昨日なんか、リネが勧めた方の定食セットを頼んだのよ! 今までは三食頑なにリネと違う定食を頼んでたのに!」
「毎日三食、葵が何を食べてるか見てたの? かにゃん」
「お揃いですね、って笑うリネに、そうね。って! ふふふって! どうしちゃったのよ!」
「それはおかしい」
「うわあ、いいなあ。おそろい」
マーロはかにゃんに葵がご飯を食べる時間を聞いた。その時間に合わせて行こうという心積りのようだ。
浮き立つマーロに反して、かにゃんの顔はどんどんと膝の間に沈んでいった。
「団員を全員殺してこの船を乗っ取る算段が立ったんじゃないかしら…敵うはずないわ…葵が殺されちゃう…」
「違うと思うよ」
「じゃあ! エルロイはなんだと思うのよ!」
「脱出の算段が立ったんじゃない」
膝に埋もれていた顔が凄まじい形相でエルロイを見た。大きな瞳がこぼれ落ちてきそうだ。
「え~、葵、出て行ってしまうの? 僕はさみしい」
「さっ、さっ、さみしいなんて何を言っているの、マーロ!」
「もう一回くらい一緒に探検したかったなあ」
「あれは探検じゃなくて暴挙だとエルロイは思う」
「あ~、あああ~…、でも葵はここから出たがってるんだし、応援してあげるべき、あ~そうよね、あああ~」
かにゃんはまた膝の間に顔を埋め、額をぐりぐりと押し付けた。足を抱える腕に力がこもる。
「もしそうなったら、リネは泣くわね…」
しばらくしてリーダからの使いがマーロを呼び、三人は解散することとした。
「ところで、かにゃんはどうしてそんなに食堂で葵を観察してるの?」
エルロイが思い出したように、去ろうとして蔵書室の扉を開けたかにゃんを見上げた。
かにゃんは少し怯み、言いにくそうに目をあちこちに泳がせながら、それでもなんとか答えを出した。
「わ、私がね、食べていた時に、後から葵が入ってきてね、私を見つけて、あ、かにゃーんって、こっちに寄ってきて、前に座って、当たり前のように食べ始めるのがね、なんかね、そのね…」
「ああ、なるほど」
「違うからね! 別に嬉しかったとかじゃなくてね!」
「それでその後も自分から声をかけずに寄ってきてくれるのを待っていると」
「うわあああああ、違うんだからあああ」
実は、エルロイも何度か声をかけられて隣り合って食事を取った。リネとの二人きりを避けたいらしい。
食堂は広いし人も多い。場所取りが悪ければ見つけてはもらえないだろう。実はとっておきの場所があるのだが…、エルロイはそれ以上、かにゃんに話すことは何もなかったようだ。といっても、走り去っていったかにゃんの背中には、もうエルロイの声は届かなかっただろうが。
***
とうとう船が地に足を付ける日は明日に迫った。
葵は明日のため、早めに休もうと立ち上がった。
リネの信頼を得るために良い姉を演じていると、自然とリネと物理的に離れにくくなる。寝る前のしばらくはリネの部屋で言葉を交わすのがこの三日間、欠かさずにやっている演目の一つだった。
「あ、もうお休みになりますか」
「うん、今日はちょっと疲れちゃったみたい」
リネも慌てて立ち上がる。葵の前に回り込み、部屋の扉に手をかけた。
「?」
この三日間の常ならば、葵が扉の前に立つとリネがドアマンよろしく扉を押し開けて中へ誘導してくれるのだが、今日はその扉が開かない。
見上げたリネの横顔は逡巡しているように見えた。
「あ、あの、姉さま」
リネは心を決めて葵に向き合った。
ドアノブにかけていた手も、もう片方の手も、両方を扉に押し付けて、腕の間に姉を閉じ込めた。
「あの、きょうだいというのは、お、おお、おおおお、おやすみの、き、き、き、」
噛み合わない歯の間から震える声が漏れてくる。
姉の仮面の下で葵は滝の汗を流した。
これはまずいことを要求されようとしている。
後ろ手でドアノブを探して、大急ぎで脚本を書き換える。
「キスを! するものだと、聞いたのですが!」
「お、おやすみなさい!」
リネの言葉が響くやいなや、的中した予感に葵は大きな挨拶で返し、ドアノブを思いっきり下に押して体重をかけて扉を開いた。
大きくよろけて部屋に一、二歩入り込んだが、リネは転ぶことはなくすぐ体制を立て直した。
扉の影に身を潜めて拒否感を露わにする葵は、もう脚本の続きなんて描いていられなかった。終わりが見えると仕事が雑になるタイプ。
リネはそんな葵を見ても、聞こえなかったのか、恥じらいのある人だからだ、と結論付け、諦めずに再び挑んだ。
「おやすみのキスは家族で行われるものだと聞いたことがあるのですが」
扉を挟んで仕切りなおしてくるリネに葵は恐怖した。
先ほどの「意を決して身に余るおねだりをします」といった殊勝な態度は消え去り、もう腹を括った男の顔だ。
「わ、私の国ではしなかったかな…」
頭の中で「これを乗り切れば明日は自由の身だ」と言う葵と、「それでもこれは受け入れがたい」と言う葵がせめぎ合っている。
「………僕たちはするということでどうでしょう」
なんの提案なんだ。どうでしょうかもくそもあるか。
しかし、ここでもし相手が自分に疑問を抱いたら、この三日間の努力が水の泡だ。そう、「優しく断る」、この演技課題をクリアしなければ、葵の自由は失われてしまう。
葵の脳内が必死に脚本を紡いでいる間に、待ちきれなくなったのか、リネが葵の肩を強く掴んだ。
「ひっ」
「姉さまに、キスがしたい」
もう要求が直球になってきた。
都合の良い言い訳ができるタイミングを探していたら、おやすみの、という言葉が見つかっただけで、その実態はこれだ。葵の全身の筋肉がこわばった。「おやすみのキス」とただの「キス」では明らかに口付ける場所と意味が違う。こうなってはもうキスする場所を指定してさっさと終わらせたほうが早い。葵は悲壮な覚悟を決めた。
「そ、そうだね…、おでこ、とかに、するかもね、親子なら」
せめてもの抵抗できょうだいではしないということを主張した。
「! そうですよね! ああ、しますよね。そうですとも」
では、と言って、リネは扉を葵から剥ぎ取った。勢いのついた扉は大きな音を立てて壁にぶち当たり、弾みで若干戻ってきた。
いつものリネなら謝りそうなところだが、葵の両肩を掴んだまま一心に葵を見つめていて、もう左右の景色など一切目に入っていないようだ。心なしか息が荒い。
盾を失った葵は両手を首の前で緩く握り締めて、怯えながらリネの行動を待った。
肩を握る手はあまりにも強く、震えを必死で押さえつけようとしてるように感じた。
恐る恐る、ゆっくりと、葵の額めがけて顔が近づいてくる。髪の色が薄い人は、やっぱり産毛も白いんだな、と葵はどこか冷静に思っていた。額に生ぬるく柔らかい感触と、続いてちょっと堅い歯の感触も感じた。強く押し付けてくる。葵は頭を引いて肩を押した。
「長い、強い。おやすみのキスってもっと軽い感じなんだけど」
若干、素に戻っていた。
このノルマを達成したら元通りの自分にすぐさま戻れると信じて受け入れたせいだろう。
「ご、ごめんなさい」
リネは慌てて体を離した。
「じゃ、おやすみなさい」
葵は扉を引いて、リネの背に軽く手を添えて出て行くよう促した。
「あ、あの、姉さまからは」
「リネ、私もう眠いのよ」
最後の力を振り絞って、この三日ですっかり染み付いた笑顔を貼り付けた。
「あ、そう、ですよね。すみません。……おやすみなさい、姉さま」
扉を優しく閉めて、なるべく音を立てないように鍵をかけた。長い息を吐いた後、なんだか怖くなって、扉の前にスプレー缶を置いて開いたら音がするように細工してみた。
鏡台に座り、常備してあるウェットシートで何度か額を拭いた後、ベッドに横になった。
(明日になれば、もうこんなことは終わりだ)
大きな窓に広がる夜空の中で、この景色も最後と信じて目を閉じた。