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鬼の面

 朝、起きてきて、トントは愕然とした。

 あんな絶望に染まったトントの顔を見たのは初めてだったので、朝から葵はいい気分になった。


「そ、そ、そ、それ…、なに?」

「お面」

「おめん!」


 昨夜、汗を拭く以外に仕事もないのにリネの目覚めを待ち続けるのも退屈なので、葵はずっとトントへの嫌がらせを考えていた。

 そして夜の内にアーヴィンから厚紙をもらって、にっこり笑顔のお面を作っておいたのだ。


「似合うでしょう」

「ネエサマちゃんは素顔の方が可愛いよ! ばっちりとした黒い瞳がとても魅力的だし、前髪からチラリと覗くつり上がったときの眉毛が蠱惑的だし、舌打ちするときの唇の形なんて女神も霞むほどだよ!」


 トントはまるで口説くような台詞をつらつら吐いたが、目当ての女性の心には届かなかったようだ。


「葵、ミルクを」

「はい! どうぞ!」

「早…。なんです、そのご機嫌ぶりは、気持ち悪いです」


 視界は狭いけれど、今の葵の心は空よりも広い。

 アーヴィンに毒づかれてもまったく気にならなかった。


「それ、取らないの?」

「取らない」

「ボクね、ボクねっ、今日はボクがお食事作るよ! 美味しいよ! ボク器用なんだ!」

「ありがとう。リネとお部屋で頂くわ」

「どうしちゃったのさ、ネエサマちゃん!」


 背を思いっきり反って、トントは瞬時にブリッジの体制を取った。トントの視線の先にたまたまいたジャックは女のような叫び声を上げて部屋の中を逃げ回っていた。


「おはようございます!」

「おはようござ…、何です、リネ、その顔は」

「姉さまが! 姉さまが僕のために作ってくれたんです!」


 すっかり薬の抜けたリネもお面を被っていた。

 体中に重しを乗せられたような眠りからようやく回復して、あまりにも酷い姉の誤解を解こうと口を開いた途端、リネの言葉を待たずに姉は満面の笑みでプレゼントを差し出してきた。その笑顔はどこか悪意に満ちていたが、それでも後光が差していそうな美しさだった。

 そうして受け取ったものは、明らかに手作りの厚紙と紐をくっつけただけのお面だった。

 指で押すとボコッと折れて戻らず、折れたあとは残ったまま。紐の伸びも悪い。でも、これは紛れもない聖具だ。しかもお揃いときた。


「ああ~、これを肌に縫い付けたい。アーヴィン、やってくれませんか」

「冗談でしょう、気持ち悪い」

「ハムならやってくれるのに! あ~~~嬉しいです、姉さま、嬉しいです!」


 姉から物を貰えるだけでも相当珍しいのに、今度は何せ手作りだ。

 先日のおかゆも嬉しかったが、あれは腹の中に消えてしまったので、やはり目に触れ手に触れられる物が残るというのは素晴らしい。

 リネは心底喜んで何度もお面を手で撫で回していた。


「リィネくんまで! 息苦しいでしょう、ボクが取ってあげるよ!」

「何するんですか!! 触らないでください! ふふん、残念でしたね。やはり姉さまは他の男よりも、誰よりも弟を愛しているのです。嫉妬は見苦しいですよ、トント」


 勝ち誇っておきながら、気持ちは分かると言いたげにトントの肩を優しく叩いた。

 まるでドラマのようにトントはほろっと一粒だけ涙を落とした。そしてそのまま声もなくはらはらと泣き続け、舌を出して笑った猫…多分猫、のようなものの仮面を付けているリネに慰められていた。


「いーい気分だわ」

「性格悪いですね」

「いい光景でしょ?」

「そう思います」


 景気よくアーヴィンはミルクを一気飲みして、まるで酒飲みのようにぷはっと呼気を吐き出した。

 泣き顔だとか怒った顔が好きだと抜かしていたから、表情が見えなくなったらさぞ悲しむだろうと思ってやってみたが、想像以上に効果があったようで、葵はご満悦だった。不便だけれど、しばらくごのまま過ごしてやろうと心に決めてしまった。




「え…、なにそれ、どうした?」

「トント対策」

「ああ、なるほど」


 数日ぶりに、ユノーが船に帰ってきた。

 手にいくらかの新鮮な野菜や食料が入った袋を提げている。アーヴィンからの指示らしい。

 葵の顔に着いているお面を見てとても奇妙な物を見た反応をしたが、すぐに理解してくれた。ユノーはアンテナが高い。日頃のトントの発言をきちんと拾っていたのだろう。

 大部屋に行ってみるとトントはリネにギリギリまで顔を近づけて、涙を零しながら「本当に外す気ない? 外さないの?」と聞いていた。いつも飄々としているのに、実に頼りなく情けないように見えたが、ジャックは恐ろしかったのか、アーヴィンの机の下で椅子の脚を握りしめて隠れていた。


「おかえりなさい、ユノー。引渡しについて報告してください」

「問題なく引渡しは終了した。あの男が子供を誘拐して雇い主である議員のグライダーを盗んで逃走したこととして警察に渡した。火災の発生については調査を継続するそうだが、議員本人からドーラ号から脅迫された旨の証言はされてないようだったので、こちらからも特に何も言わなかった」

「良い判断です」


 葵はジャックが抱きしめていることなんて露も気付かず、アーヴィンの机に備えられている椅子をぐいっと引っ張って座った。

 マジックで適当に書かれた笑顔がユノーを見上げる形となった。


「それ、偽証では」

「俺たちが乗った時、グライダーには少年とあの男しかいなかったのだから、状況としてはそう推察するのが正しいだろう」


 ドーラ号の団員が乗っていたことはなかったことにする、という発言を、有言実行している。とても現地の警察には開かせられない話だ。


「男の子はどうなるの?」

「議員の下から連れ出されたことを承知していることを知られたら厄介だ。身元不明としてアーヴィンを保護者として入院させ、折を見て引き取り、元の夫婦のところへ戻すのがいいだろう」

「その間に夫婦には住居を国外に変えてもらい、こちらの手続きで氏名を始めとする個人情報の全てを改竄します。万が一議員が握ってきた子供の身元を覚えていて、その子供が帰ってきたと分かれば再び手が伸びることも考えられますから、元の生活は全て捨ててもらう必要があります」


 とんでもないことを聞いている気がするが、二人は随分あっさりとした様子だった。こんなことは日常茶飯事とでも言いたげだ。

 アーヴィンは珍しく小型の端末ではなくデスクトップ型のパソコンを起動して、そこで何かを始めたが、ユノーに画面を見ないようにと注意されて葵は大人しく彼に背を向けた。


「それで子供の無事は保証されるんですか?」


 てててと駆け寄ってきた猫のお面にユノーはちよっとたじろいで姿勢を低くした。

 すぐに「ああ、リネか…」という咳いて、彼は戦闘態勢を解除した。


「戸籍や身元そのままで逃亡を続けるよりは人間関係もまっさらにして新たな土地で生活してもらった方が安全だ」

「まっさらなんて、出来るんですか」

「アーヴィンとマリアンヌがいればなんとかなる。夫婦の受入先の国はアーヴィンの権力が働くところにする。この国では夫婦ごと行方不明者として扱う」

「…そんなことが可能なんですね…」


 何か複雑な感情も抱いていそうな声色だったが、何分表情が窺えないのでリネがどう感じているのかははっきりとは分からなかった。

 それよりも息が当たりそうなほど至近距離でなんとかお面の隙間を覗こうとしているトントが気にならないのか不思議だった。今にもお面と頬の間に鼻先を突っ込みそうだが、リネは彼なんていないように自分の思考に沈んでいた。


「議員は? そのまま?」


 子供の身体とこれからの未来が保証されたことに安心した後、次は加害者の扱いについて、葵は気になった。

 今の今まで少年がどうなるのだろう、人権ある人間としてこれからを生きていけるのかとばかり心配していたが、それが払拭されると、やはり八年間も幼い子供を傷付けていた男がただの窃盗被害者として生きていくのは到底許せない気持ちが沸いてきた。


「そうです、議員はどうなるんですか。あと、姉さまを撃ったあのエビは? 生きたまま皮を剥けますか?」


 葵の疑間にリネも乗ってきた。

 ついでとばかりに用心棒の処遇についても尋ねられたが、それをユノーは無視した。エビが何のことか分からながったわけではない。


「グライダーの窃盗、火災の発生とは別にして、議員の次男がスナッフフィルム紛いのものを作成し利益を得ていたことを告発できるだろう」

「脱税もおまけで付いてきますよ。長男はなかなか優秀で面倒そうな男ですが、次男は生粋のバカです」


 キーボードをかたかた鳴らしながら、アーヴィンが横から情報を付け加えてきた。どこか口調の端々が跳ねている気がする。楽しんでいそうだ。「バカ」という言い方が、彼がどれだけ次男を心底馬鹿にしているが伝わってくるようだった。


「それだけですか? 一族郎党八年間犬として扱うべきでは? いえ、倍返しです。16年間でもいいてす」

「馬鹿を言うな」


 興奮気味に持ち上げられたリネの腕にトントは吹っ飛ばされていった。

 乙女のように床にしな垂れてしくしくと泣いていたが、もはやその姿に注意を向けているのは机の下のジャックだけだ。


「公になれば議員は立場を失います。今まで彼に媚びへつらっていた人間も手の平を返すでしょう」

「でも、それだけなんですよね?」

「あなたは権力を持ったことがないから、それを失うことの絶望が分からないのです。彼にとっては犬扱いされて今の権威が保証されるなら安いものだと思いますよ。高みにいるからこそ突き落とせるのです。よくぞこの国で最高峰まで上り詰めて、その上でよくこれだけの人非人な行いをしてくれたものだと、私は感謝したいくらいです」


 もう抑えきれないというような絞るような笑い声が背後からしてきた。葵の心はドン引きだった。アーヴィンがどれだけ愉しんでいるか、「ふ、ひふふふ」という震えた笑い声が教えてくれる。こいつは一歩間違えたらドーラ号の仲間行きだった可能性が濃厚だと、葵は誰にも悟られないようにぴひっそり思った。横にいるユノーからもどこか呆れたような雰囲気が伝わってくる。


「姉さま、姉さまはどう思いますか? あの用心棒も、議員も服役するだけなんですよ? いえ、服役するのは次男だけであって、議員そのものは立場を失うというそれだけです」

「充分だと思う」


 葵は何度か領いて、ユノーをちらりと見てからリネを見上げた。

 我ながらどへたくそなお面を作ってしまったものだと、リネの猫の顔を見ながらしみじみ考えた。


「悪いのは次男一人、他の家族はただの極悪人の身内というだけって扱いですよ。それでいいんですか? 議員本人が子供を虐待しいた事実を知らしめるべきではありませんか?」

「大衆が勝手に推察すると思う。あることないこと…、ないことの方が多いかもよ」

「葵の言うとおりです」


 一仕事を終えたのか、アーヴィンは机の上をすーっとスライドしながら葵の横へ移動してきた。

 椅子を回して後ろを見てみると、大きなデスクトップパソコンの画面はもう暗転していた。アーヴィンは空っぽのコップに口を付けながらしゃべり出した。


「この情報社会において、どんな噂が立つか見物です。火のないところに煙を立たせるなんて、ド素人でも可能ですから」


 上がりそうなロ角はマグカップで隠し切れていなかった。

 そもそも肩が震えている。

 意外と隠し事が出来ないタイプかもしれない。


「はあ…。アーヴィン、いくら前科者とはいえ、事実と異なることを消えないネットワークに乗せるのは反対だぞ、俺は」

「私は事実しか書くつもりありません」


 煙だけ立たせるつもりのド素人が目の前にいて、犯行を予告している。

 でも、葵は止める気にはなれなかった。

 ぽうんと空いた穴から見るだけの視界では、目の前の小さな悪事なんて見逃してしまっても仕方ない。

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