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(ただし、血縁者を除く)

 大人数が共同生活を送るドーラ号のお風呂場は共有だ。

 ただ、女性団員であるかにゃんの熱い要請に、フェミニストのマーロが加勢して、マーロにはめっぽう弱い船長のリーダが承諾したため、男女には分けられた。少ない女性のための風呂場ゆえ、三つのシャワーと二人がようやく足を伸ばせるか程度の湯船しかないが、かにゃんは大満足でリーダにキスを贈った。


 そんなお風呂場に、立て札が立っている。


『立入禁止』


 『清掃中』の立て札は毎日見かけるが、これは初めてだ。

 もうすっかりお風呂の気分で準備を整えてきたかにゃんは訝しみ、険しい表情で廊下にしゃがみ込むリネに成り行きを問うた。


「姉さまが入っているんです…!」


 鬼気迫る表情で膝を抱えている。

 かにゃんはちょっと意地悪な好奇心が湧いてきて、立て札を少し入口からずらす真似をした。

 途端、リネが低い姿勢のまま飛びついてきて、立て札の足にしがみついた。


「姉さまが入っているんだから、立ち入り禁止です!」


 なるほど、連れてきたばかりの大切な女性の裸身を誰にも見せたくないということか。

 初々しい可愛らしいやきもちに、かにゃんはついニヤつきながら蒼白の仲間を見下ろした。


 それにしても、隣り合う男性の脱衣所の入口にも重なるように立て札を立てている。このままでは男性も入れない。


「男は関係ないでしょ。何で真ん中に立ててるの」

「姉さまが体を洗ったり! 姉さまがかけ湯したり! 姉さまが浴びたりするシャワーの音を! 聞くなんてありえない!」


 全然可愛らしくなかった。

 こちらを見上げてくる目も血走っていて狂気を含んでいる。

 わかっていた気もするがこいつは病気だ。"姉"を得てから悪化している。


「とにかく私の入浴の時間よ。退いてちょうだい」


 かにゃんはしゃがみこむ男を跨ぐように乗り越えた。立て札を突き飛ばして今度はかにゃんの足にリネがまとわりついてくる。


「わー! わー! 駄目! 駄目! 姉さまの入浴中だって言ってるじゃないですか!」

「ちょっと! ここは女性の脱衣所よ! 変態!」


 抵抗して引き抜こうとしたせいでリネの上半身は引きずられてすっぽり女性用の脱衣所に入り込んでしまった。


「今は姉さまの脱衣所です! 出て行って! 出て行ってー!」


 格闘する二人の背後から、どこから男たちがぞろぞろと出てきた。


「今だ!」

「今だー! 入れー!」

「いいぞ! リネとやりあえるのなんてかにゃんくらいだ! 今の内に入れ!」

「顔を見られるな! 後で暗殺されるぞ!」


 手持ちの桶やタオルで顔を隠した男どもがリネの足を乗り越え、立て札を踏み荒らしながら脱衣所へ駆け込んでいった。


「あ! くっそ! 待て、お前ら!」


 リネが気を取られている内に、かにゃんは細い足を引き抜き脱衣所へ駆け込むと、腰布を一枚取り去った。


「ほーら、早く出ていかないと、リーダに私を襲ったって言いつけちゃうわよ」

「かまいません! 姉さまの貞操のためならば!」

「じゃあ葵に言いつけるわ」


 リネは崩れ落ちて頭を抱えた。慟哭が響く。壁一枚挟んだ隣の男性用脱衣所がざわつき始めた。


「わ、悪かった、リネ、俺たちが悪かった」

「そんなに泣くことないだろ…」


 男性たちから慰めの声がかかる。

 半裸の男性団員がリネの肩を優しく抱いて回収していった。かにゃんはその光景をつまらない演劇を見せられた時のような表情で見送り、叩きつけるように脱衣所の扉を閉めて施錠した。


 ***


「これ、女性用の脱衣所の鍵。女の子だけが持ってるの。絶対なくさないでね」


 ぬくぬくとした裸の付き合いを終えた女性二人は脱衣所でまったりとした余韻を楽しんでいた。


「湯船は狭いけど、脱衣所はいいもんでしょ」

「うん。マッサージチェアも完備されているなんてなんだか贅沢ね」


 ガタガタとした揺れは拉致されてきた現実を忘れてしまいそうな魔法の力を宿していた。

 葵はにっくき男の仲間であるはずのかにゃんに、すっかり気を許し始めていた。

 今までも度々仲良くなりたそうに声をかけてきたというのも大きいが、葵の境遇に対してとても同情的で、女性への差別をこんこんと語る姿に偽りはないと判断できたからだ。逃亡の際に味方となってくれるかどうかは別として。


「コーヒー牛乳があれば完璧」

「コーヒー?」

「あ、えっとね、日本では定番なんだけど」


 拙い言葉ではあったが、葵の懐かしい場所の説明はかにゃんを楽しませた。

 是非、自動販売機を設置してもらおう!とかにゃんが提案し、リーダに言いに行く時は二人で行くのよ、と勝手に約束を取り付けられた。


 二人が揃って脱衣所を出ると、その先でリネが正座をしていた。

 葵と目が合った途端に額を床に打ち付けて、守れなかったことを切々と謝罪した。

 かにゃんは可哀想に思ったが、隣の葵が今まで見たどんな悪党よりも凶悪な瞳をしていたので口には出さなかった。部屋でどんな扱いを受けているのだろう。


「もう、もう俺は、お詫びに………、死にます!」

「いいんじゃない」

「待ちなさい! ばかばか」


 かにゃんはリネの腕からかかと落としでナイフを落とした。しかしリネは無数のナイフを隠し持っていてキリがない。

 騒ぎにほかの団員も駆けつけて、皆でリネを取り押さえ、リーダのもとへ連行した。


「もう少しリネに優しくしてやれないか」

「誘拐犯に対して、何故被害者が優しくしないといけないんですか」

「ゆっ! ゆ、誘拐犯だなんて…! いくら上手にお守りできなかったからって酷すぎます! 姉さま」


 力自慢のダンに抱えられているリネが、少し離れたところに立つ葵に向かって一直線に手を伸ばす。

 ダンにとっては赤子の抵抗だ。


「リネの精神の安定は、ドーラ号の安定だ。安全な航行のために是非協力してほしい」


 もちろん、無理にとは言わない。

 そう付け加えてリーダは解散を命じた。

 自殺はするなと命じられたリネは「それでは姉さまから」と言って葵にナイフを差し出した。


「どうぞ罰を与えてください」


 涙でいっぱいの潤んだ瞳も、青ざめた肌もすっかり消えていた。

 その瞳には明らかな期待が含まれており、紅潮した頬と緩んだ口元が喜びを表している。次に青ざめるのはこちらの番だった。


「い、いや、罰とか…」


 葵は見た目以上に重いナイフを隣の机に丁寧に置いた。すかさずリネが新しいナイフを取り出す。


「姉さまのお優しさは美徳ですけど、ほら、きょうだいというものは、上が下に躾を行うものでしょう? ね、さ、どうぞ」


 葵の手を取って無理に握らせる。光に反射して刃先がきらんと光った。

 自分から死んでくれる分には知ったことではないが、まあ目の前でやられたら気分は悪いが、どうぞ殺してくださいというのは話が違う。人を殴ったことも殴られたことも、ましてや刺したことなんて一度もない。包丁で自分の指を切ってしまって人並みに動揺する程度だというのに。


「躾なんて姉弟(きょうだい)でしないでしょ」


 そもそも姉弟じゃないし。渡されたナイフをまた机に置いた。


「そんなこと言わないでください。僕のことを叱ってください。姉さまの望み通りの弟に調教してください」

「叱るのとこれとはちょっと違う」


 また新たに出てきたナイフに手を重ねられる。今度は頑なに指を絡ませず、抵抗の意を強く示した。


「ナイフで切るのは躾でも叱るでもなく、ただの傷害事件っていうか、虐待でしょ」

「虐待…?」


 リネはきょとんとした目で葵を見た。

 ナイフの上でもみ合っていた手が止まり、指でなぞってくる。気持ちの悪さに葵は手を弾いて離した。


「叱るなら、言葉だけで充分じゃない」

「体罰がなければ子供は学びません」


 感触を消そうとハンカチで手を力強く拭いたが、そんなことはリネの目にはもう映っていないようだった。

 リネは心底不思議そうな瞳で葵を見つめている。

 そもそも何を叱るんだったか。葵はとにかくこの会話を終わらせたくて思考が回らなくなってきた。


「もー分かったわよ。体罰ね。分かった。目を瞑って」

「は、はいっ!」


 リネはナイフを握り締めたまま胸の前で手を重ね、キスを待つ女のように抑えきれない笑みのまま目を閉じた。

 その表情にドン引きしながらも、葵は親指と中指で作った丸をぴんっと弾いてその額を打ち付けた。


「めっ」

「…」


 小さな爪の刺激にリネはすぐさま目を開けた。その先に呆れたような姉の顔が待っている。


「はい、おしまい。もうこの話は終わりね」


 葵はすぐ背を向けて部屋を出ていこうと歩を進めた。リネは慌ててその背に縋る。


「ま、待ってください。これだけでは、あの…」

「あのね、長々と叱るのって、よくないのよ。褒めるのは長く、叱るのは短く。基本でしょ」


 本の受け売りだけど。犬の躾の。葵はそんな言葉は胸に仕舞って、リネを尻目にさっさと部屋を出ていった。

 しかし、ふと思いついて扉が閉まり切る前に頭だけを隙間から覗かせた。


「でも、お風呂の見張りは、ありがと」


 リネ以外の男性が入ってきていたら、酷い目にあっていたかもしれない。お風呂が共有と聞いて、ドーラ号に来てから数日、入浴を躊躇っていたのはそのせいもあった。安心な癒しの時間を得られたことを、律儀な葵は感謝していた。

 それだけ言って、扉は閉じられた。

 残されたリネはもう開くことのない扉を長いこと見つめながら、痛みも残らない額に手を置いていた。

 期待通りにはならなかった。

 姉が自分に躾を施す時は、姉が自分のことを一心に考えている時とリネは信じていた。

 その時間に味わえるはずの喜びは得られなかったのに、どこかから湧き出た幸福感が全身を満たしていた。


「お礼を、言われた…」


 姉さまは、下の世界に居る間に、躾の仕方を随分変えられたらしい―――

 そんなことをしみじみ考えながら、こっちの方がずっといい、と心の隅で思ったのだった。

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