躾の基本は飴と鞭
夜にはアーヴィンは机上に山座りする座敷童に戻っていた。
具合を尋ねると両腕を真上に上げ下げして健康を主張した。
リネが少年のために作り始めたうどんを全員分作ってもらって、それもすっかり空にした。
葵もリネももう一度アーヴィンに腕の様子を診てもらって、経過は順調ということで皆快方に向かっていた。
でも、朝、重病人が出てしまった。
「彼は語る術を持ちません。診ただけで分かることは、威嚇できるほど、立ち上がれるほどの体力がない、ということくらいです」
朝の水替えだけでも早起きの自分がしようと葵が少年の部屋へ入ってみたら、水をまき散らして少年が丸くなって震えていた。
葵は姿勢を低くするのも忘れて駆け寄ってみると、体中熱くして胸とお腹の辺りの服を握りしめていた。すぐに大部屋に戻ってアーヴィンを運んできて、指示を受けながら少年をベッドに寝かせて診察してもらった。
そして彼はすぐに床に置かれていた水を回収するように葵に命じて、キャスター付きの椅子に乗った自身をそのまま車椅子の要領で「検査室」と名の付いた部屋まで押していかせた。
一人でしばらくその部屋に篭もっていたかと思うと、マスクと髪の毛をまとめるメディカルキャップを付けた状態で出てきた。
机や壁に手をつきながら椅子を移動させたらしく、相変わらず椅子の上で山座りしていた。
葵は初めて何にも遮られないアーヴィンの瞳を見た。
今まで思っていたよりも深くて濃い紫色だった。
「我々の飲んでいる飲料水ではありません」
「え…。ペットボトルから注いだはずだけど」
「正確には、我々が飲んでいる飲料水と成分の量が違っています。毒物かどうかは今の設備では調べきれませんでした」
心が凍えていくような思いだった。
水の交換を担当していたのは、もちろんリネだ。
もう一度少年の様子を窺ってから、二人は大部屋に戻り、他の三人が起きてきてすぐに状況を報告した。
「本日は、私が彼を世話することにします。他の者は私を部屋に運ぶ以外の意図であの部屋に近付かないように」
アーヴィンが淡々と話している間、葵はその後ろで胸に両手を添えてただ下を向いていた。
顔色も悪く思い詰めたような表情に、リネはどうしようもないほど心配になって、アーヴィンの話なんてほとんど聞こえてこなかった。そこに、隣のトントがとっても小さな声で、こんなことを耳打ちしてきた。
「ネエサマちゃん、不安そうだね。あの男のコがすっごく大切なんだね。」
アーヴィンが解散を宣言しても、しばらくは誰もその場から動かなかった。
もちろん、葵も相変わらずで、アーヴィンに一言、「寝ているときでいいからお見舞いに行っていい?」と聞いた。
犬でいたとき、眠っていると、姉さんは怒った。姉さまは庇いに来てくれなかった。
犬でいたとき、鼠を食べさせられてお腹を痛めたら、姉さんは笑った。姉さまは来てくれなかった。
食器なんて姉さんに割られた。カトラリーなんて使ったこともなかった。姉さまは教えに来てくれなかった。
「ちょっと環境が変わっただけで…、彼が弱すぎるだけじゃないですか」
積み上げられた鬱屈がつい暗い言葉となって吐き出された。
葵はそれを聞いて、信じないようにしていた疑いが確信になるのを感じた。
気が付いたときには平手でリネの類をはたいていた。
「あんたって最低よ!」
「ち、ちが」
突如走った頬の痛みに、リネは我に返った。
そんなことを言うつもりはなかったのに、つい口をついて出てしまった。
目の前の姉が怒っているのに泣いていて、すぐに後悔した。あの姉さんとはまるで違う人物だなんて本当は分かりきっていた。
「この人殺し!」
そう言い捨てて、葵は涙を拭いながら早歩きで大部屋を去って行った。
何を言われたか一瞬分からなかった。でも、すぐにこれまでの状況と自分の発言を顧みて、姉がどんな誤解をしたのか、すぐに行き着いた。
「違います、姉さま、僕じゃない。姉さま、姉さま!」
一拍遅れてしまったが、リネはすぐに姉の後を追った。
バタバタした足音と言い合うような声を遠くで聞きながら、大部屋に残された面々は黙って彼らの背中を見送っていた。
「…あああ、あれ、放っておいていいの? アーヴィン」
「…これ以上は二人の問題でしょう」
「リネがさあ、リネがなんかしたの? 俺、よくわかんないんだけど」
先ほどまでの集会は情報共有の場であって責任追及の場ではない。それでも原因を探っていけば"誰か"に行き当たることはあるだろう。それでもアーヴィンは状況証拠だけでは不確かだと判断したが、葵は感情に正直に攻撃した。彼女も途中までは冷静になる努力をしていたが、容疑者の発言が悪い。想定できる展開ではあった。
「まだ分かりません。私は、…もう少し調べてみます」
「俺、俺、フォローいると思うよ? ユノーだったらフォローしていると思うよ?」
「…じゃあ、ジャック、頑張ってきてください」
「おお、俺は、無理だけどさあっ」
言うだけ言ってジャックは素早く部屋の隅まで走り去っていった。
トントが目でジャックを追っているのを前髪の隙間から観察して、彼が視線を自分に戻してくる前に、アーヴィンは廊下を見ながらふんっと息を吐いた。
***
「リネ、邪魔です」
「姉さま、違うんです。話を聞いてください。僕、何もしていないんです!」
「リネ、邪魔です」
「姉さまあああ、鍵を開けてください!」
重たい溜息を吐いてからアーヴィンは検査室から鈍い青色のナニカが入った注射器を持ってきて、女性部屋の前で今にも扉を破壊しそうなリネの首筋にぶすっと刺した。
しばらく抗って二、三度扉にナイフを刺したが、その後は人形のようにずるりと床に落ちていった。
「すごい。象でも瞬時に眠る薬なのに」
力なく横たわるリネを足で退かして、アーヴィンはマスターキーで女性部屋に入室した。
騒いでいたリネが呻き声を上げてナイフを刺してきたばかりか、ノックもなしに何者かが入室してきたことに、葵は悲鳴を上げて怯えた。しかしそこには未だかつて見たことのない二本足で自立するアーヴィンがいて、それはそれで大変な恐怖だった。
「あっあっあっ、アーヴィンなの?!!」
「他に何かに見えますか」
「うわ…っ」
ベッドに腰掛ける葵に近付いてきてすぐ近くの椅子の上で山座りする男性を見て、確かにこれはアーヴィンだと葵は理解した。
いつも通り揃えて抱えた膝にロ元を隠して、淡い髪に隠された瞳がいつも通りの淡々とした声で話しかけてきた。
「葵、落ち着いてください。彼はもともと水と、藁を食べるような生活をしていたんです。御馳走は固くなったパンでした。それ以外のものを産まれて初めて口にして、腹を壊しただけかもしれません」
「…」
「私たちと同じものを食べても壊れてしまう内臓である可能性はあります。この点を考慮するのは私の役目であり、料理をする者の責任ではありません」
「リネがあの子に何かしたなら、私の責任だわ」
「まだ原因不明です。意味のない推察で自分や他人を責めすぎないように」
葵は首の皮を抓んで胸から浮き上がってくる空気を抑えた。
しゃくり上げて泣きそうなところを、なんとか気を逸らせるよう懸命に努力した。
「…アーヴィンが歩いているところ初めて見ました」
「思ったより余裕がありそうですね。ではこれで」
アーヴィンは手に持っていたラッパのようなものを吹いた。
ぷあ一とどこか間の抜けた掠れた音が響いて、ジャックが部屋に入ってきた。
そして椅子の上で膝を抱えていたアーヴィンを持ち上げて去って行った。
入室してきた時から気になっていた謎の楽器の使い道が判明して、葵の心は些か経くなった。
(その通りだ。ちょっと、…大袈裟に言いすぎたかも…)
今になって右手がじんじんと熱くなってきた気がする。
リネに謝ろうと決意して部屋を出ると、白目をむいて倒れている当人がいた。
恐怖のあまり、葵は一度部屋に戻った。マリアンヌが使っている鏡台に腰掛けて何度か念仏を唱え、もう一度外に出た。
死体にしか見えない。
本能でトントに頼むのは危険だと察した葵はジャックに頼んでリネを男子部屋に通んでもらった。彼はあまりにも非力だったので葵も手伝ってなんとかベッドの上に横たえると、二人は大部屋に戻って慰労しあった。
その時に、葵はトントとジャックの二人にも自分の行いを謝罪した。
「順当に考えていったらそうなるもの。ボクは気にしてないよ」
「そうそ! あいつやりそーだし」
すぐにお見舞いに行くと言って大部屋を出て行ったトントを見送ってから、ジャックは蚊のような声で「あいつもやりそうだけど」と付け加えた。そういうことを言うもんじゃないと言うべきだろうけれど、今は人のことを言えた立場ではないので、葵は黙っていた。
少年と二人でリネがどう過ごしていたか分からないけれど、なんとなく、何の根拠もなく、リネはそんなことしないだろうと考え始めていた。
何故そう思えたのか、自分でもちょっと不思議だった。
***
昼過ぎになってアーヴィンが言うことには、毒物や異物の混入ではないだろうとの結果だった。
「飲料水を煮沸した結果ミネラルの過剰摂取になってしまって、血圧が上がったのだと思います。心臓が痛いようだったのでよくよく血液も調べましたが、人体に悪影響を与えるものはありませんでした」
お茶を作ったり氷を作ったりする際に湯冷ましを使っていたので、それを見てリネが良かれと思ってやったのだろう。ミネラルウォーターの煮沸は身体に悪影響を及ぼすことがあるが、若い健康体であれば即座に影響が出てくるものではない。様々な条件が重なって異常が出てしまったのであって、命に問題はないそうだ。
「リネには注意を促しますが、正直、水ではなく機能与えた食事やその他、彼に関わる行動すべてのどれが引き金になってもおかしくない健康状態です。むしろぶっ倒れてくれて幸いでした。心置きなく点滴が出来ます」
衰弱しているのもあるが、中和のために投与した薬の副作用でよく眠っているらしい。
面倒くさがりが垣間見えるアーヴィンとしては、いちいちレシピを提案して疑わしき者に料理をさせるよりも、手っ取り早く点滴で体調を改善させたいのだろう。
「リィネくん、死んでるみたいに寝ていたけど、アレは大丈夫なの?」
眠りこけているリネをお見舞いに行って戻ってから、何故かトントはY字バランスのポーズをし続けている。
つま先がピンと上を向いて美しいほどだ。
でも何故そんなことをしているのか理解できないためやはり謎が恐怖を呼んでくる。
「ちょっと、強い薬を打ち過ぎました。夜には目覚めます」
「筋肉から全ての力が失われているような眠り方だったよねえ?」
「ちょっと強すぎただけです。長続きはしません。本当です」
アーヴィンは輪の中心に背を向けて端末を起動したり書類を取り出したりして、「仕事が溜まっています」と言って他のメンバーを追い払った。トントは場所を変えて窓に向かってY字バランスを継続し、ジャックはアーヴィンの机の下に身を隠した。たくさん机と椅子が揃っているのに、それがそれぞれの定位置なのかと思うと、果たして自分はどこに居るのが正解なのか、葵は分からなくなってきた。
まだ少し沸騰した頭が疲れを癒やしきれていない気がする。
不可思議で不可解な人物たちに囲まれるより一人の方が得策だと考えて、葵は女性部屋に向かった。
マリアンヌのベッドでリネが寝ていた。
大部屋に走り帰ってぎゃんぎゃん騒いだら、トントがあっさり「移動しといたよ」と白状した。
「なっ、なんで!」
「いやだなあ。弟の面倒はお姉ちゃんのお仕事だよ」
「あの部屋鍵かけておいたのに!」
「合鍵があるんだ」
トントがズボンの中から小さな鍵を取りだした。葵の持っている銀色のものより茶色っぽくて錆びたような色だ。
葵は真っ先にアーヴィンが渡したのかと疑ったが、彼は葵の視線に対してぶんぶんと大きく頭を振ったので、葵はそれをあっさり信じた。彼の座る机の下で膝を抱えているジャックが何故かひどく狼現しているのが見えたせいもある。あまりにも疑わしいほどのうろたえっぷりだ。
「違うよ! 許して、葵! リネに言われて仕方なく!」
「逃亡船体を追っているときに、ネエサマちゃん、リィネくんに鍵を預けたでしょう。その時にリィネくんたらジャックちゃんにそっくり同じものを作らせていたみたい」
「じゃあっく…」
自分のものとは思えない低くどす黒い声が喉から自然と溢れてきて、葵はちょっと吃驚した。
「違うの! ごめんなさい! 俺、模造品作るの本職だからさあ! 上手に出来ちゃってさ! 脅されたんだよ! でもいい出来でしょ?! ほんとごめん!」
机の下でジャックは頭を庇うように抱えて奥へ奥へと身を寄せた。
謝罪したいのか自身の腕を誇りたいのか、二つの感情がない交ぜになった発言に、葵は逆に勢いを削がれて嘆息した。
「でもリィネくん、悪用はしていないんだから、偉いじゃない。保険だって言ってたよ。お部屋でネエサマがお倒れになってたり無呼吸症候群を発症なさったり、一人で寂しくて死んじゃうってなるかもしれないから一って」
「トントが背中を押したんでしょう」
「あは、あれえ? あはは、バレちゃった? ふっ、ふふふふ」
片手で持った片足をぶるんぶるん振り回しながら、トントは非常に論快そうに笑った。
軸になっているもう片方の足はつま先だけで全身を支えているのに、しっかりと立っていて素晴らしいバランス感覚だ。今こそその細い足を折ってやりたい。
「結果的にリネは悪くなかったのです。過失はありますが、責められる過失ではないと私は思います」
怒りで椅子を持ち上げた葵に向かって、アーヴィンが消しゴムを投げて声をかけた。
辛うじて膝辺りに当たった消しゴムの感触に、葵もいくらか冷静になって、椅子を元通りの位に下ろした。
「引き続き、葵はリネと仲良くするべきですし、疑ってしまったことに対して謝罪の意味を込めて看病してやるのが最良です」
「病人じゃないでしょう」
「正直に申し上げます。苛ついてとっても強い薬を打ちました。効き目は長くありませんが目覚めと同時に頭痛がして体もあまり力が入らないでしょう。可哀想に」
「アーヴィンこそ彼に贖罪するベきでは?」
「私がやっても彼は喜びません」
アーヴィンは再び紙の山の中に身を隠していった。
申し訳ない気持ちは朝からずっと抱えていた。
まずはこの気持ちに区切りを付けないことには、前には進めない。
トントへの報復は一先ず置いておいて、葵はアーヴィンの助言通り、リネの傍に居てやることにした。
***
意識が浮上しても、瞼があんまり重くて視界は暗闇だった。
ひどく目が乾燥している気がする。手でこめかみや目の周りをマッサージしたいが、持ち上がらない。
体制を変えたいと足が訴えているけれど、動かせない。
首も回せない。
頭が枕に沈んでいきそうだ。
「………リネ?」
そんな時間がどれだけ続いているだろう。
耳だけは、いつも通り正常に働いていた。
「起きたと思ったけど、気のせいか…」
冷たい指がべたべたな額から髪の毛をどかしてくれて、ひんやりと湿った布を置いてくれる。
鼓膜から心臓までをすべて洗い流しそうな美しい声だ。天使はこんな声をしているに違いない。ちょっと前の自分とは一切縁のなかった声だ。あの頃に自分に教えてあげたい。もう少し頑張って生きていれば、こんな素晴らしいことが待っているんだって。
「ごめんね…、早く元気になりなさいよ」
ぽんぽん、と胸を打つ振動が、軽いはずなのに心臓を直接握りこまれて持ち出されそうな衝撃だ。
以前も、腕だったか、胸も、こんな風に叩いてくれたことがあった。
「元気になります、姉さま。姉さまのお望み通りにします」
ずっとそう言っているのだけど、乾いた唇同士がくっついてしまって音となって出て行かないようだ。
「ね、さま…」
「!リネ、起き」
「キスしてくれれば…、元気に」
「寝てろ」
べちょべちょの濡れ布巾がべちゃっと顔に叩き付けられた。
額どころか目も鼻も覆われてしまう。このまま口も塞がれたら死んでしまうかもしれない。
素敵な死に方だ。
姉さまは、素敵なことばかり、してくれる。
束の間のご褒美に、リネは深淵に沈むような眠りをゆるゆると楽しんで一日を過ごしたのだった。




