表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/76

被害者同士

 どちらにせよ羨ましい。

 キスじゃなくて何よりだったが、首を絞められたんだって。

 首を絞められたんだって! あの姉さまから!

 はあ…、俺は絞められたことないのに。


「それ、葵の前では言わない方がいいぞ…」

「分かっています。我が儘だと思われたくないし…」


 薄いベッドに腰かけて頭を垂れるリネの独り言を聞いて、ユノーは忠言してやった。彼の心に響いたかどうかは分からないが、とにかく自分がやれることは全てやった、とユノーはそれ以上の会話を止めた。

 リネは日に日に葵と別部屋であるストレスが溜まっていくようだった。

 ある夜、なんだか冷気を感じてユノーがふと目を覚ました時、リネが壁に額を押し当てて静止していた。目を見開いてベッドの上で膝立ちになった状態で、呼吸も感じないほど動かなかった。

 壁の向こうは女性部屋だ。夜の船内は上空にいることも相まって布団なしでは肌寒い。ユノーはリネに横になって寝ろと声を掛けてみた。


「…………姉さまの寝息が聞こえます」


 そう言ってにヘらと笑う様子がもはや妖怪の如くで、ユノーは全てを忘れて枕に戻った。

 次の日の晩も同じことをしていて、隣にはトントがいた。

 壁に押し付けた額に体重を掛けるリネを、下から覗いているようだった。


「お前も寝息を聞くために…?」

「違うよお。ネエサマちゃんの寝息はリィネくんのものだよ。ボクはリィネくんを見ているんだ」

「トントはとても物分かりの良い人です!」


 ユノーは眠ることにした。

 ドーラ号ではコレと同室で、この船では二日ばかりコレらと透明の壁に阻まれただけの牢屋で過ごして、葵の心労たるやいかばかりであっただろう。心からの同情を送ってユノーは葵の安眠を願った。


 ***


「おはようございます」

「おはよう…」


 爽やかな葵の顔につい憐憫の情が浮かんでしまう。

 葵とリネの関係性についても徐々に分かってきた。つまりは彼女がとても可哀相な状況ということだ。

 因難な状況だろうが、彼女は毎朝早く起きて気難しいアーヴィンの相手をしてまばらに集まるメンバーのためにいちいち水場に立って飲み物を用意してくれる。ジャックによると机を拭いたりゴミを捨てたり、そんなことにも気を配っているようだ。何かしている方が気が楽だと言っていたが、それにしても働き者だ。朝の挨拶なんてほとんどなかったのだが、葵が来てから皆するようになった。目立ってはいないが立派なムードメーカーだ。


「いいやつほど変な人間に好かれやすいからな…」

「ああ、そういうのありますね。ユノーはアーヴィンに好かれて大変ですね~」


 ユノーの発言を葵は愚痴と捉えたらしかった。

 やかでマリアンヌがやってきて、リネがやってきて、少し遅れてジャックが来て、葵はそれぞれに飲み物を入れていた。思えはジャックも彼女の存在をありがたがっているようだし、葵は人に好かれやすいようだ。ちょっとリネの情は行き過ぎているように見えるが。

 そうしていつも通り、終わらない仕事をして、前衛的デザインのオブジェみたいなトントを鑑賞して、各々の好きなように食事をとって、今日という一日も終わりを迎えようとしていた。


 ***


「僕は…、僕は無力です」

「はあ」

「もっと色々、ドーラ号にいる時はもっと色々していたはずなのに、今は何にもしていないです! 姉さまがお怒りになるのも当然です」

「どうでもいいです」


 執務机からほとんど動かないアーヴィンの様子を見にユノーが大部屋に戻ってみたら、アーヴィンと向き合うようにリネが机の上で正座していて、何か懺悔でもしているかのようだった。


「姉さまに何も出来ない自分を責めています」

「何故アーヴィンの前で」

「彼は自力では動かない無精者なので、僕の話に飽きて何処かへ行ってしまわないだろうと思って。いつもは日々の反省を壁に話しかけていましたが、聞いてくれる存在がいるのであればそれに越したことはありません」

「ユノー、私を部屋まで運んでください」

「僕が運びましょうか?! お部屋でゆっくり聞いてください。ここだと姉さまが来てしまう可能性がありますし」


 アーヴィンは頬に一杯空気を溜めて、それをわざと唇を鳴らしながら吐きだした。

 まあ、メンバーの不安を受け止め不満を飲み込むのも上に立つ者の勤めだ。まだ幼さの残るこの上司も、たまには我慢を覚えるのも良いかもしれない。

 ユノーは成り行きを見守るために、アーヴィンがほとんど使うことのない、アーヴィンのための椅子に腰掛けた。

 彼が自分を助ける気がないとすぐに分かって、アーヴィンは頭を膝の隙間に埋めた。厚い前髪が、顔により色濃い影を作っていく。


「ここに来てから僕は姉さまの食事の世話もしていませんし、いや、元々食事自体は世話していませんでしたけど、食堂への道中の安全を見守っていましたし、姉さまの寝室の前が僕の部屋の前でしたので、不審者の警戒もしていました。姉さまを決して危険に合わせないようにしていました。部屋の掃除だってしましたし、不在中に勝手に入ったとバレると嫌がられるので、ちゃんと棚の上やタンスの後ろの隙間など見えないところだけをやって、仕舞われた服が僕の洗剤と違う匂いがしたら消臭剤で消しておいたり、ベッドのシーツも枕カバーも毎日変えていました。もちろん気付かれないようにです。不快にさせまいと努力しました。でも一日ごとにシーツやカバーを洗うのも勿体ないので、姉さまの使用済みのそれらは僕が代わりに使っていました。そういう節約指向もしっかり行っていました。姉さまのために常に献身的でした。でも、ここに来てから何も出来ていません。僕は何も…、姉さまの役に立っていない!」


 リネは二つの拳でドンッと机を叩いた。

 ぴょんっとアーヴィンのお尻が跳ねた気がする。

 話は奉仕というよりストーカーの犯罪行為供述の様相を呈してきて、ユノーは途中から供述書を作成しようかと本気で考えたほどだった。


「姉さまの寝顔を見たくて部屋に忍び込みましたが足の裏を見て満足するよう言い聞かせてそれ以上は何もしませんでした」

「洗濯物の中に下着があった際、頂戴したかったけれどどろぼうは出来ないと思ってほんの一時間ほど懐に入れただけできちんと返却しました」

「姉さまが使った食器は全て回収し、次に誰かが使うことのないように処分しました。…何です、その目は、舐めたりしていません!  くまなく見ただけです! 僕を変態扱いしないでください!」

「お風呂に入っている最中は見張りをしましたし、姉さまの入浴音が聞こえないように耳栓をして他の団員を遠ざけました」


 机においてあった空のマグカップを手にとって、アーヴィンはそれを口と鼻を覆うようにかぽっと顔に当てると、「う゛ぉえええ」と言った。吐き気をもよおしたわけではないが、吐き気をもよおす程度のことを言っていると相手にアピールするためだ。

 正座の姿勢のままどんどん縮こまっていって、もうダンゴムシみたいに丸まるこの青年に対して、ユノーは果たして責め立てるべきなのか慰めるべきなのか分からなくなっていった。心から良かれと思ってやっているという口ぶりだ。行き過ぎているしやり方がとち狂っているが、この情熱が伝わらないのはさぞかし辛かろ…


「悪意がないというのは最も始末が悪いです。私はそう言って言い逃れする人間が嫌いです」


 …残念だが、壁に話していた方が、リネの精神安定上は有益だっただろう。

 この壁は確かに「うえ」とか「きも」とか「クズ」とか相槌を打ってくれるが、決して何もかもごっくり飲み込む許容はない。


「僕は…、息を吸わせてもらうのだってちゃんと許可を取ってからにしようと決めていたのに、今はただただ姉さまの寝息を無償で聞かせて頂いているだけ…。これでは…これでは、姉さまにもらってばかりで、僕からは何もお返しできていません。こんな弟ならいらないって言われてしまっても当然です! 何か姉さまにご恩をお返しする方法を考えないと、捨てられてしまいます…」

「最初から彼女はいらないと言っていたのでは?」

「普段はバケツをひっくり返すような方ではないんです!」

「それはそう思う」

「でもそれだけのことを僕がしてしまったに違いないんです!」

「何故そこまで分かっていてそもそもの誘拐に因果する怒りだと考えないのですか?」

「僕が理想の弟じゃないばっかりに姉さまにご心痛をおおお」


 都合の悪いことは聞き流す自覚的な人間とそもそも聞こえない無自覚的な人間がいるが、リネは後者だろう。

 いや、たまに都合の良いであろう事も聞いていない気がするから、本気で壁に話しているつもりなのかもしれない。

 机の上で踊っていたリネは突如として顔の下に挟んでいた手を振り乱し、山座りするアーヴィンの足首を掴んだ。そしてその足を引き寄せて揃えられた足の甲の間に鼻を差し込んでおんおんと泣き始めた。暑苦しいのを嫌うアーヴィンは素足だ。肌に直接涙が押し付けられて、川を作って指の隙間に入り込み、裏も爪もびしょびしょに汚していった。濡れた床や湿った土を踏むのとはまた違う初めての感触に、アーヴィンは毛を逆立ててユノーの顔をばしばし叩いた。助けを求める言葉が出てこないようだった。

 強くはないが絶え間なく顔面を手で叩かれて、ユノーは悪い視界の中でリネを我がボスから引き離そうとしてみたが、何分そのボス自身が拘束されている足を上下に振ったり膝を開閉したりして暴れているため、うまい具合に行かなかった。

 これも人の上に立つ者にとっては必要な経験かもしれない。

 リネにとっては精神を安定させるために必要な過程なのだろう。

 淡い髪の毛の下の紫の瞳が潤んでいるようにも見えたが、ユノーは諦めて椅子に座り、二人の為を想ってじっとすることにした。

 しばらくの間アーヴィンは足を引き抜こうと努力していたが、掴まれた部分は少しも動く様子がなく、体力もカも劣る彼は肩で息をしながら大人しくなった。そしてちょっと休むと次はリネの頭を叩く方法に変更したが、リネには何も響いた様子はなく、何ならその打撃の弱さに慰められているとすら感じていたようだった。

 アーヴィンは自分の膝の上に頬を乗せて休憩した。ついでにじっとユノーを見て助けなかったことを暗に責め立てたが、ユノーは決して目を合わせずに無視を貫いていた。


「何をしているの…?」

「はっ、姉さま」


 物凄く不審なものを見つけてしまったような顔をして、葵が大部屋にー歩入ってきた。

 まだ三人が集う机までは大分距離があったが、葵はこちらの状況に違和感を覚え、ユノーは遠い葵の表情に警戒が浮かんでいるのを察知した。リネはすぐにアーヴィンの足首から手を離して身を起こし、姿勢を正した。


「世間話をしていました!」

「え…、アーヴィンと、ユノーと、リネが??」


 おおよそ"世間話"からほど遠そうなメンツだ。

 何か用があって大部屋に来たというよりは、ユノーと同じで、アーヴィンの様子でも見に来ただけのようだ。葵はすぐにその足を廊下に戻していった。


「リネ、あんまり、二人に迷惑を掛けないようにね」

「はいっ! 大丈夫です! ありがとうございます!!」


 リネは爽やかで力強く、喜びを隠せない声色で姉に返事をした。

 常なら引き留めそうなところだが、何を話していたか追求される前に立ち去ってくれるならその方が良いのだろう。姉の姿が見えなくなるまで手を振ってその姿から目を離さないようにしていた。そして、姉が角を曲がっていくのをしっかり確認すると、額の汗を袖で拭いながらふー一っと息を吐いた。


「知られてしまうところでした。僕が姉さまのために尽力していることは隠しておかないと」

「何故ですか?」

「良いことはこっそりやる方がいいんです!」


 自分の素晴らしい心がけを褒めても良いですよ、という声が聞こえてきそうなほど誇らしく、リネは顎を上げてアーヴィンに教示した。


「見返りがなければ善行をしても意味がないです」

「見返りを求めるなんて、そんなの愛のない行いですよ」


 二人とも自分の意見に揺るぎない自信があるようで、声を揃えてユノーに意見を求めてきた。

 正直あまり聞いていなかった。

 割とどうでもよかったので。

 しかしユノーは二人を適度に宥め賺して、どちらの考えも理に適っていると判じた。


「確かにリネの行いは善行とは到底言いがたいので、見返りを求めるべきではありませんね。懲罰を望むならまだしも」

「アーヴィンは哀れなことにまだ愛を知らないということですね、それならば仕方ないと思います。お子様ですから」


 アーヴィンはリネの膝をげしっと蹴った。


「先ほどの葵のロぶり、リネをまるで子供扱いという風でした。私とさほど歳が変わらないと見られているようですね、御愁傷様です」

「違います! 弟なので、姉として注意してくれたんです!」

「あなたを一人前とは認めていないようでした」

「分かっていませんね。姉にとっていつまでも弟は可愛い弟であって、それは成人しようがおじさんになろうがおじいさんになろうが変わらないのです」

「あなたがおじさんになるずっと前に、葵はあなたから離れていきますよ」


 リネはアーヴィンを持ち上げて放り投げた。

 どこからともなくジャックが走ってきて、アーヴィンのために下敷きになった。

 彼はこの組織にとって有益な能力はあまり持っていないが、アーヴィンの受け皿として素晴らしい働きをしている。自己評価の低い彼を(過小評価とは思っていない)、この点において是非褒めてやろうとユノーは心に決めた。机上で起こっていた二人の争いについては、心底どうでもよくなっていた。


「最低な壁です! あなたは最低な壁です! ドーラ号の薄っぺらの壁だってもう少し有能です! 僕たち姉弟はずっと永遠なんです! 分かるまでもうその口を閉じていてください!!」


 リネは色んな机に飛び乗りながら走り去っていった。まだ綴じられていなかった書類たちがリネの足に蹴飛ばされて宙を舞った。

 息せき切らせながらジャックはアーヴィンを元の位置に戻した。

 膝に両手を乗せて、その奥から瞳だけ覗かせて、アーヴィンは殊更不機嫌そうだった。


「私は優秀な人間です。壁としてだって素晴らしい働きをします…」


 やっぱり彼にボスとしての素養は備わっていないかもしれない。

 そしてこれからの成長も望めないかもしれない。

 ユノーは自分が葵を哀れんだところで、傷の紙め合いにしかならない気がした。

 机と椅子の影を縫って逃げようとしているジャックを呼び止めて、大部屋に散乱した書類の片付けに移っていったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ