なかよし、カクテル
朝、大部屋に行ってみると、相変わらずアーヴィンは膝を抱えて机に座っていた。
床の中央ではトントが大の字になって転がっていた。
葵はわざと大回りして、トントを避けてアーヴィンに近付くと、どうしたことか質問した。
「ここで寝ている方がマシだと言っていました」
「可哀相に」
「この犯罪者にはほどよい懲罰です」
「私もその懲罰を受けているわけですが」
「耳栓を恵んで差し上げたでしょう。これ以上の文句は受け付けません」
アーヴィンはお尻を軸に体を回してそっぽを向いた。こう言っては悪いが、寝汚い三人組の愚痴をアーヴィンに言い続けるのも申し訳ない。
会話を切り上げて、葵はもう日課になりつつある飲み物を入れる作業に入った。
72度のミルクを入れるのもお手の物だ。何度かジャックに手際を教えてみたが、彼は怒られてばかりで哀れになってくる。朝の一杯くらいは自分が入れてやろうという親切心だった。
「うん、素晴らしいです。72度」
「やったあ。もう完全にコツを掴んだわ」
「でも昨日は68度でしたよ」
「渡してすぐ飲まないからよ、渡した時は絶対に72度だったから」
今度は葵がアーヴィンに背を向けて、もう一つのコップをトントの顔の横に置いてやった。
彼は薄目を開けて、細い小さい霞んだ声で「おはよう」と言った。
「おはよう。体痛くするよ」
「ボク、あの部屋じゃ眠れなくて困ってるんだ…」
「そうね、あの状況じゃあね。可哀相に」
「コーヒーじゃない」
「朝一番だから胃に優しい飲み物が良いかと思って。蜂蜜があったから牛乳に入れてみたの。落ち着くわよ」
トントは床から起き上がることなく、うつぶせになって犬のように牛乳を飲んだ。
これでもマシになったのだ。
寝転がっていることは今までもままあったが、その時に飲み物を与えると寝た状態で飲もうとして顔も髪も床も汚すので、葵は懇々と叱った。ユノーも加わった。掃除を担うジャックはその後ろで泣いていた。トントへの恐怖のあまり「そこまで言わないであげても」とユノーの背中を打つ発言をしたので、葵はそれも諫めた。ユノーと葵の間に絆が芽生えた瞬間だった。
「葵、何故私のミルクには蜂蜜が入っていないのですか」
「いらないかと思って」
「誰がいらないと決めたんですか? あなたは一度だって私に意見を求めていないというのに自己判断で必要なプロセスを省略するのは」
「はいはい。入れ直してあげるわよ」
言葉を最後まで聞かずに、葵はアーヴィンの手からマグを奪い取って水場に持ち帰った。
つらつら話していた口を止めて、アーヴィンはすぐに端末の操作に戻っていった。
「美味しかった。次はボクがネエサマちゃんに入れてあげる」
舐めまわしたように綺麗なコップが流し台にとんっと置かれて、葵はそれを洗うために素手で掴もうかどうか手を上下させて迷った。
その様子を見るトントは心底楽しそうだ。苛立ちを覚えたのでゴム手袋をぎゅっと嵌めて必要以上に洗剤を泡立てて念入りに洗ってあげた。へたしたら泡が飛んできそうなほど洗い場に顔を近付けて、トントは愉快そうに洗われるコップを見ていた。
しかしやがて飽きたようにふいっと離れていって、ミキサーやら何やらを使って、鼻歌を歌いながら何事かし始めた。
葵はアーヴィンに蜂蜜入りミルクを届けてからその様子を眺めていたが、バーテンダーのようなそつない動きだ。カクテルを作る時のようなしゃかしゃかした動きも様になっている。
「じゃ~ん、なかよし姉弟カクテル~」
そうして葵の前に置かれた背の高い透明なコップには水色が爽やかで小さな泡がしゅわしゅわと沸き立つ液体が入っていた。
どこから調達したのやら、ピンクの花びらのようなものが浮いていて、輪切りのレモンが縁に刺さっている。ストローは何故か二本。
「い、いらない」
「飲んでみて」
「名前が気にくわない」
「飲んでみて、絶対に気に入るから。ほら、ほら」
トントは腕を真っ直ぐ伸ばして両手でコップを差し出してきた。
身を退かなければ胸部に液体がかかりそうな勢いだ。それどころかコップが心臓を強打してきそうだ。やたらしつこい。
「何をしているんですか!」
ようやく目を覚まして大部屋に入ってきたリネの第一声は絶叫だった。
リネの角度からはトントが葵の胸を鷲掴みにしているように見えたらしい。
悲鳴を上げて姉を引き寄せてわーわ一言いながら壁まで逃げていった。
「ごめん、リィネくん。ボク、そんなつもりじゃ」
「駄目です! 許しません! 嫌がる姉さまの胸を!」
「なかよし姉弟カクテルだよ~」
「なんです、それは。とてもよさそうなものです」
リネは態度を一変してその飲み物を褒め称えた。
二つのストローに興奮冷めやらぬ様子で、トントと一緒になって葵にそれを勧めた。
もうとっくに意固地になっていた葵は決してそれを受け取ろうとはしなかった。
「そんなに飲みたいなら、トントと飲めばいいでしょう!」
「それはいいね! そうしよう、リィネくん」
「なかよし姉弟とは姉さまと僕のことではありませんか! このストローは姉さまと僕のためのものではありませんかああ、姉さまに飲んで頂けなければ意味がないです!」
逃げ場のなくなった葵がとうとう机に乗り上げてリネの顔面を足蹴にし始めたので、ユノーはようやく止めに入った。
肩を落としてしょぼくれたリネは諦めたように見えたが、いつまでもさめざめと泣いてこれみよがしに音を立てながらなかよし姉弟なんとかとかいう物体を飲んでいた。トントも隙を見つけて顔を寄せてシェアしていたが、リネの目にトントはまるで映っていないようだった。
葵が溜息を吐いて二人を見ると、リネが期待に満ちた目で見返してきたが、もちろん目を逸らしてその意がないことを示した。
リネの悲しみは深まるばかりだった。
でも、そんなリネの次に、悪戯なトントの目とも視線が交わることに、葵はわずかばかり、遺和感と不快感を覚えていた。
***
その日は定刻後にリネの勉強に付き合って、その後にちょっとやりたい仕事が残っていた。
珍しくアーヴィンが自室に戻ると言いだし、ユノーが山座りしたアーヴィンをそのまま持ち上げて部屋に運び出した時の戸惑いは言葉では表せない。彼が歩いているところも、立っているところも見たことがない。本気で自力歩行ができないのではないかと思い、葵はもうちっとも動かないことについてアーヴィンをからかったり責めたりするのをやめようとひっそり決意した。
そういうわけでこの大部屋に残ったのは葵と、片付け担当のジャックだけだった。
隅の方で食器を片付ける水音が聞こえる。
リネも付き合うとずいぶん食い下がったが、気が散るし何が手伝えるわけでもないのでユノーに引っ張っていってもらった。
キリのいいところまでと思ったが、お役所の書類整理に終わりなどない。
犯罪者の統計資料のテンプレートを埋めていっているようだが、とんでもない秘匿情報に関わっている気になってくる。ある程度の区切りを以て消されるのではないかと、邪念が出てきたところで、葵は本日の作業を中断することに決めた。
「やあっほお~、ネエサマちゃん、働き者だね」
廊下の暗がりからトントが現れた。
まだ水の滴る髪の毛を見るにお風呂上がりのようだ。服を濡らさないように肩に掛けたタオルが意味を成さないくらいびしょびしょだ。ぺたり、ぺたり、と、湿っぽい足音が近付いてくる。裸足のようだ。
「風邪引くわよ」
「ん? …ふふふ」
いつの間にか水場からジャックが消えていた。
彼は殊更トントを恐怖の対象としていたから、気付かれない内に消え去ったのだろう。逃げ足の速いことだ。
近付いてきたトントの頭から落ちてきた水滴が、ぽたりと机にシミを作った。
「疲れたでしょお? 飲み物作ってきてあげる」
「いらない。もうお終い」
「そうなの? そう。なかよし姉弟カクテル作ってあげようと思ったのに。じゃあ、また明日にしよう」
「明日もいらない。私とリネはなかよしでもないし姉弟でもないし…」
「あれねえ、ボク、特製なんだ」
トントは犬のように頭を振って水滴を飛ばした。
端末が濡れてはいけないと思い、葵は慌ててノートパソコンを閉じた。端に置いておいたハンカチで机を拭いてトントを責めたが、彼は天井を仰いでいるだけで無反応だった。わずかに開いた口は心なしか笑んでいるように見える。彼より背の低い葵の位置からは、トントの小さな瞳がどこにも見当たらず、白目をむいているように見えた。
久しぶりに彼に対して恐怖を覚えて、行動を責めようと考えていた葵はぐっと押し黙った。
空想を遊んでいるような、古い思い出を愉しんでいるような、これから起こり得る何かを想像して高揚が止まらないような―――そんな笑みだ。
「あれ、ボク特製なんだ」
「き、聞いたわ」
小さな金色の瞳がぐるりとゆっくりスライドして、葵を見下ろした。
細い口がゆっくり開いて、カチ、カチ、と二回ほど歯を鳴らした。
それはとても緩慢な動きで、スローモーションを体験しているような緊張感があった。
かと思うと途端に凄まじい勢いで横から長い手が葵を掴み上げて引き寄せた。机の角に右骨盤を強打して葵は悲鳴を上げた。痛みによるものだったのか、突如起こった異変に怯えたのか自分でもよく分からなかった。
細い骨張った指が食い込むほど強く葵の両肩を締め付けている。
足が浮いている。
目の前に迫った三白眼に、葵は涙を堪えるので精一杯だった。
「あれ、ボク特製なんだ」
飲まなかったことを暗に責められているのだろうか。
怯えながらも、何故こんなことをされているのか葵は一生懸命行動を振り返った。
叱責を受けていると思ったからだ。
トントは葵の目前で頭の角度を何度も変えた。右に傾けたり左に傾けたり、顎を引いてみたり上げてみたり。でも金色の瞳は目れたようにずうっと葵の黒い瞳を見つめて離さなかった。
何故か目が離せない。目を離したら………、
「ほれぐすり」
「ひゃっ?!」
とんでもない罵倒の言葉が出てくるのだろうと覚悟していた葵は、一瞬言葉を言葉として飲み込めなかった。
親切で入れてくれたものを無下にして悪かった、名前さえ変えてくれれば次は飲む、本当は美味しそうだと思ってたのよね~、と返す言葉をいくつか用意していたのに、全部無駄になった。
「あれ、惚れ薬が入ってるんだ」
「は…………、そ、………? そうなの……?」
顎を右下に思いっきり引いている彼は、同じ高さに顔があるけれど目一杯の上目遣いになっている。
金色の瞳の下半分も見えない。
葵はようやく、トントは自分を見てはいないと気付いた。
葵の黒い瞳孔に照り返る、自分の姿を、
「ボクのことを、好きになっちゃうよ。そうしたらもう姉さまは要らない」
トントは要らなくなった鏡を割るように乱暴に葵を椅子に向かって投げ捨てた。
安物の椅子は軌んだ音を立てて、それでも何とか葵を受け止めて、からからとキャスターが泣いた。
葵は怖くて仕方なかった。
トントはようやく葵を見た。
椅子にしがみついて怯えた目でトントを見上げる葵を見て、口角を片方だけ高く上げて笑った。
髪の毛から落ちた雫が再びぽつん、と机を濡らすのを見て、何か葵の中で、何かがぷつんと弾けた。もう、恐怖が、ぐるりと回転して、背を向けて逃げ出したような気分だった。
(な、な、何で私がこんなやつの濡らした机を拭かなきゃなんないのよ!)
手に持ったハンカチを穴が開くほど強く握りしめていると、何故か怒りが後から後から沸いて沸いて、沸騰した湯のようにぼこぼこと葵の心を激しく打った。
(別に"姉さま”が要らなくなって助かるのは私の方だし!)
(それで勝ち誇ったようにして満足げにして投げ捨てるとか失礼だし!)
(なかよし姉弟カクテルとか命名センス壊滅してるんじゃないの?!)
(そもそも姉弟じゃないのよ!)
と、思ったことを、葵は椅子を思いっきり壁に向かって放り投げてから(トントや端末に当たらないようにしただけまだ理性が残っていた)、そのまま口に出していた。ついでに痛む肩と恐ろしい思いをしたお礼だと言わんばかりの勢いで濡れそぼったハンカチをトントの顔に叩き付けた。
「なかよしでも何でもなりなさいよ! いつでもあげるわよ! ていうかもらってよ! いらないのよ! リネもあんたも! 私の人生に要らないの! わかったあ?!」
そこまで喚いてようやく恐怖を思い出したのか、怒りが涙腺を刺激したのか、泣きそうになってきたので、葵はバレない内に大股で部屋を立ち去った。
濡れた顔に貼り付いた濡れたハンカチはじわりじわりと肌を滑っていって、葵の足音が消える頃にようやく床にべしゃりと落ちた。
かつて葵がいた場所を、トントはきょとんとした目で見つめ直した。
葵どころか椅子もなくなっていた。
「…………………………ボクの好きな人はいつも泣いていた」
トントは首をぐるんと回した。ごきごきごきっと骨の鳴る音が、静かな大部屋に異様に大きく響いて消えた。
「でも、いつも怒っていたかも」
レースもリボンもない、淡いベージュー色のつまらないハンカチを拾って、トントはそれをズボンの中に詰め込んだ。ズボンのポケットの中ではなくて、ズボンの中。
「なるほどお。ボク、怒っているコも好きなんだ」
ね、ジャックちゃあん。
部屋から立ち去るのではなく、実はロッカーの中に身を潜めて息を殺していたジャックが、声にならない声を上げて、ロッカーを中からがたがたっと揺らした。
逃げ道があると思ったら大間違いだ。




