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消えない煙

 この飛行船に乗ってもう四日になるだろうか。

 「空の中で、気ままに浮いているだけで、給料が入ってくる」などとアーヴィンは言っていたが、気ままだなんてとんでもない。凄まじい仕事量だ。葵の手伝えることなどたかがしれているはずなのに、基本的な集計作業や文書作成がパソコンで出来ると知られてから、散々ばらこき使われている。やってもやってもやることがある、幸い、急を要する作業はさほどないが、先の見えない作業は山とあった。

 葵は疲れ切っていた。

 ただただ数字を打ち込んでいくものもあれば、書物の中から文章を抜粋してデータにしていく作業もある。マリアンヌやアーヴィンに言われるままやっているのでこれが何の役に立っているのかよく分からない。


「グライダーが落下した時の現状について始末書の作成をお願いします」

「無茶言わないで」

「遺体がなかっただとか残骸に怪しいマークが血で描かれていたとか、適当なことをでっち上げてそれらしい言い振りで書けばいいだけです。写真の捏造…もとい修正はこちらでするのですから難しいことはありません」

「無茶言うな」

「はあ…、じゃあ、あなた、何が出来るんですか」

「ひな形があれば、日付を入れるなり決まった部分の記入くらいはしますけど」

「まあ! 充分ですわ。わたくし、いつもアーヴィンにそれをやらされているのです。面倒なのです」

「それではマリアンヌの仕事は減っても私の仕事は減らないじゃありませんか。葵の言語能力に期待したのに酷い裏切りです」


 リネが代わると申し出てくれたが、彼はマウスを使うことすらままならなかった。目下、姉のために勉強中だ。

 確か三日ばかりでどこかの国に引き渡すと聞いていたトントの姿も何故か未だに葵の隣にあった。彼も首を90度に傾けながらディスプレイと奮闘中だ。小指だけしか使っていないがキーボードを打つスピードは葵より早い。ちょっと疲れが見える。


「姉さま! 僕はくりっくを覚えました!」

「ああ、そう」

「すごいわ、リネ! その調子で頑張ってね!」

「はい!!! ありがとうございます、姉さま!」

「ちょっと、トント! 私の声真似止めてよね!」


 葵の叱責にトントは「ぴゃんッ」と叫んだ後、いつも通り甲高い声で笑った。これとほんの一メートルも離れていない距離で一日デスクに拘束されていなければならないなんて酷い拷間だ。囚人の行う刑務作業だってもう少しマシな環境に違いない。

 特にやれることもないリネはジャック同様に椅子すら与えられず、葵のデスクのすぐ隣の床に座り込んで初心者向けの事務仕事を学ぶ本を読んでいた。たまにユノーに質問しに行くなどして、熱心に勉強していることはよく分かる。よく分かるが、その努力を温かい気持ちで応援してやれる余裕は、残念ながら葵には残っていなかった。


「葵、お疲れ。コーヒーだ」

「ああ、ありがとうございます、ユノーさん。ところでこのトントとかいうのはいつこの船から消えるんですか?」

「ちょっと…………………、…風の向きが悪くて」

「風とは関係なく動ける船体だって言ってませんでしたか?」

「ちょっとなあ…………………………………、受け入れる側の国にな、うん、問題があって」


 ユノーは嘘を吐くのが下手だ。

 葵のじっとりとした視線に堪えきれず、トントの机にもう一つ、コップを置くと、そそくさとその場を離れた。

 もらったコップを頭に乗せてしたり顔でこちらを見るトントときたら鬱陶しいことこの上ない。バランス感覚を誇っているのか、アーヴィンの仕事を唯一手伝える手腕を買われたことを誇っているのか、どちらにしろ葵の神経を逆撫ですることは間違いない。

 しかし葵が困っている時に、横から骨張った長い手がすっと出てきて、間延びした声と共に問題を解決してしまうと、本当に使える人なんだと感心してしまう。それもなんかムカつく。素直に感謝すると妙な反応を返すところも頂けない。一度、葵が心から感心して「ありがとう」と頭を下げた時など、椅子の上で両足を上に大きく開いたかと思うと、勢いのままに後ろに倒れていって後頭部を床に打ち付ける音が船中に響いた。殺人を疑われた。冤罪甚だしい。

 定刻が来るまで、葵は黙々と作業をこなしていくのみだった。


 ***


「姉さま、お疲れのところ…、もしよかったら、教えてほしいことがあって」

「あーうん、いいよ」

「ありがとうございます! 姉さまは賢くて優しくて素晴らしい聖人です!」

「もういいから。座って」


 終業後は夕飯までの間、リネの勉強を手伝ってやるのが恒例になっていた。彼がパソコン作業を少しでも出来るようになれば、自分の仕事もちょっとは楽になるかもしれない。思考回路がアーヴィンとマリアンヌに似てきた。

 リネは学校には通っていなかったと言っており、確かに小学生レベルの知識すら備わっていないようだったが、それでもそれは習っていないというだけのことで、教えればするする吸収していった。


「リィネくん、すごい色々覚えたよねぇ」

「先生がいいので!」

「おっ、ボクのことだね」

「違います。あなたはもう少し空気を読んでこの場から立ち去るべきです」


 二人がテキストを開くと必ずトントが横から覗き込んでくるようになっていた。

 最初は葵やリネの背後から覆い被さるように加わってきたので、特にリネが怒りを撒き散らかして嫌がり、せめて横に座れとなったのだ。素直に椅子に座っただけで葵もリネも満足してしまって、排除するタイミングを完全に逃してしまったわけだ。リネの思い描いた二人きりの勉強会とはほど遠い。


「数式が理解できればオフィスアプリケーションが使えるようになると思うから、頑張ってほしいわ」

「そうしたらボクのお仕事ちょっと触ってみる? リィネくんならすうぐ出来るようになるよお」

「トントの仕事はちょっと難しいよ。私の方を…」

「おっ、おっ、おっ。ネエサマちゃんヤキモチだね」

「やきもちなんですか?!」

「違う。立ち去るべきよ、トント」


 高速で歯を鳴らすトントはふざけてからかっているだけのようだが、リネは本気で捕らえていそうで葵は内心焦った。

 ただ単に自分が楽したいだけであって、リネが自分とトントのどっちを手伝おうがそんなことはどうでもいい。もちろん、リネに頼めば「姉さまのためだ」と喜んでこちらに手を貸してくれるのは分かりきっているのだし、楽をしたいという欲を表に出すのが恥ずかしいだけ。トントを手伝っていたってこちらの感情はちっとも揺るがない。

 葵はそう心の中で誰に向けているわけでもないいいわけを繰り返して、机の下でトントの足を偶然を装って踏み付けた。

 彼は何も言わず、ただ目を見開いて口角を目一杯上げて、歯をむき出しにした笑顔で葵を見つめただけだった。

 そんな二人には全く気付かずに、リネは姉がやきもちをやいたと信じて手元の紙をくしゃくしゃに握りしめていた。


 ***


 夜―――


 夕飯が済むと姉は早々に女性部屋に戻ってしまう。

 最初はそれが気に食わずに部屋の前で耳をそばだてたり声を掛けてみたりして構ってもらえるよう頑張っていた。腕が痛むと言ってみた時にすぐに出てきてくれたのはそれはもう嬉しかった。お風呂上がりだったのかちょっと髪が乾ききっていなかった。風邪を引いてしまう。なのに我が身を心配してくれた。姉さまに風邪を引かせてしまう。でも俺を優先してくれた!


 と、なっていたリネだが、ある夜、トントに誘われた。

 秘密特訓をしようと。


「昨日教えたことをきちんと覚えていたら、ネエサマちゃんはリィネくんをとっても好きになるよ」

「とってもですか?」

「とっつつっても」

「でもなあ…、それなら姉さまと特訓したいなあ…」

「知らないところで努力する人って素敵って女性は皆思うよ」

「姉さまもですか?」

「ネエサマちゃんもだよ」


 主な仕事部屋となっている大部屋からはいつまで経ってもアーヴィンが動かなかったので、ちょっとした息抜きの間になっている喫煙所でやることにした。小さな端末を持ち込めばパソコンの勉強も出来る。リネはアーヴィンがいても構わなかったのだが、トントが秘密がバレてしまうと言うので仕方なく移動した。

 喫煙所だったと言うが、現在は喫煙者がいないので、綺麗な灰皿が中央にぽつんと置いてあるだけの普通の部屋だ。壁に沿って固い椅子が置いてある。角に机が付いているので、教材を広げる程度のスペースは確保できる。リネは煙草の匂いが好きではないのだが、使われなくなって久しいのだろう、煙の気配は微塵もなかった。

 勉強中のトントはまったく真面目な様子で、いつもの奇っ怪な行動はほとんど見られなかった。

 何度言われても分からない箇所を根気よく教えてくれたし、同じミスをしても苛ついた様子もなかった。


「これ、今日ネエサマちゃんが教えてくれた数式だよ」

「ええ、もちろんよく覚えています!」

「これを利用して表を作るよ。見ててね。この応用を明日やってみよってネエサマちゃんを誘導するから、その時にこの数式を使うって言えば、教えてあげたことをちゃんと覚えている、エライ! ってなるに違いないよ」


 翌日、まさに葵はリネの成長ぶりを褒めた。

 そうよ、よく分かったわね、リネは覚えがいいわね、頭の回転が速いのね、なんて、想像も及ばないような褒め言業を頂戴したのだ。

 食べるものとお金を得るのに必死で学問とはほど遠い子供時代を送ってきた身としては、こんな風に褒められることなんて人生でありようはずもないと思っていたのだ。望むことすら考えたことがなかった。しかもどれだけ頑張ってもちょっとしたことで罵倒ばかりを口にしていたはずの姉が、姉を100褒めると一回だけ褒美をくれるような、そんなようだったはずの姉が、惜しみない賞賛を与えてくれている。

 リネはすっかりその喜びに溺れて、トントとの復習を自ら望むまでになったのだ。


「もう腕のことを言ってもあんまり出てきてくれなくなってしまいました…」

「手当てしたユノーに気を遣っているんだよ。ネエサマちゃんは優しいね!」

「そうです! 姉さまは世界で一番優しい天使のナイチンゲールです!」

「ウンウン! その通りだよお」

「今日は部屋の前に居座るのは早々に切り上げて、しっかり復習したいと思います。トント、付き合ってください」

「モチロンだよ」


 たまにおかしい動きもするし、それに姉も怯えているが、この男はそう悪いやつじゃない。

 むしろ姉の素晴らしさを理解しているし、自分と姉の間柄をより良くしようと尽力してくれる。

 リネはトントへの印象をすっかり改めた。

 詐欺師だと言っていたが、勉学の合間によく聞いてみると好きな人のために色々したことが裏目に出ているだけのようだ。

 相手の病弱な祖母を看病してやったら医者を騙って病状を悪化させたと決めつけられ、相手の具合が悪そうだったので部屋に縛り付けて会社に欠勤連絡を入れてやったら迷惑だと罵られ、相手の理想のプロポーズを叶えるために宝石商の成りをしてダイヤの指輪を贈ったらお前は誰だと酷い言われよう。

 リネは心底同情した。

 どれもこれもやりたくなる気持ちは分かる。いや、相手を愛しているからこそやるべき行いなのに、相手に拒絶されるなんて哀れなことこの上ない。リネはトントの肩を抱いて彼を慰めた。もう涙を流さんばかりの同情振りだ。途中からトントが自分に、その相手が姉にしか思えなくなってきた。


「プロポーズするまでは毎晩電話で愛を語り合っていたのに、いざ会ってみたらお前は彼じゃないって言われたんだ」

「なんてひどい! 見た目が理想と違ったのでしょうか。それにつけても遅くまで愚痴にでも何でも付き合って、その言い様はあんまりです!」

「そうでしょ? 確かに彼女の付き合っていた彼とはボクは見た目はまるで違うけど、彼女の理想は全て叶えてあげたはずなんだ」

「あなたはとても頑張っています! 酷いのは相手の方です!」


 リネは泣いていたがトントは笑っていた。

 端から見たらリネの方が慰められているかのようだ。


「リィネくんは優しいね」

「姉さまの方がお優しいです! そうだ、今の話を姉さまにしましょう。きっとアーヴィン達に橋渡しをしてくれて、温情をもらえます。いいえ、温情どころか、親切にしただけなのですがら、そもそもトントの罪は罪と認められるものではありません!」

「いいや、これはボクとリィネくんの秘密にして」


 リネは拳を握りしめて立ち上がったが、トントの言葉にすとんと尻を落とした。

 姉はあの通り見目が人受けするし、話し方も丁寧で、偉い人との話し方というのを知っている。あの親切極まりない人ならトントが誤解を受けているだけだと分かってくれて、その事を誰よりも上手にアーヴィン達に話してくれるに違いないのに。


「ボクは誤解を解くつもりはないんだ。彼女たちはボクを悪者にすることで心穏やかになれるんだから、それが一番なんだ」

「しかし、それでは…。」

「それにネエサマちゃんは確かに優しい人だから、相手のことも考えて、ボクにばかり同情はしないと思うょ」

「そんなことはありません! 姉さまは聖人君子そのものですから、絶対に絶対に分かってくれます!」

「………そうかもね」


 しかしトントの相手の幸せを祈るばかりに自分を犠牲にするという精神、その気持ちはよく理解できた。

 自分が余計なことをしてその自己犠牲にケチを付けるのも申し訳ない。

 彼から協力を請われない限り、自分はただ良き理解者でいることにしようと心に決めて、リネはこれを二人の秘密として了承した。


「リィネくんは優しいね」


 勉強に付き合ってくれるせめてものお礼に、終わった後はリネが飲み物を作ってやるのが常だった。

 使った道具を一纏めにして、片付けに出て何か温かい飲み物を作りに行こうとする背中に、トントの声は届かなかった。


「ボクねえ、、優しい子、だぁい好きなんだ………」


 低く濁った甘ったるい声は、苦い煙のようにふんわり空気に溶けて消えていった。

私がね…、私がブックマークが1つ増える度に誰がしてくれたのか教えろって神様の胸ぐら掴む夢を見ていることを皆さんに伝えたい。

誤字脱字報告もだけどどこで誰にどうやって感謝を伝えたら良いの?

ほんとありがとうございます。精神いかれてる弟レベルであなたを愛してる…。夜道で一人きりでも私が後ろから見守ってるから安心してね………。

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