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あなたに因る

 大きな仮面を被った男たちは山の麓の原住民だ。

 神の住む山に入り込んだ飛行機が落ちたのを見て、乗っていた人間にトドメを刺した。そうしてまた次の飛行船がやってきたので見ていたら、ユノーを捕らえたという顛末。


「さすがです、ユノー。自分は雇われただけで彼らとは無関係だと、言葉一つで乗り切れるなんてマリアンヌもジャックもきっとできません。人柄の成せる技です」


 成り行きをカメラから見ていたアーヴィンは戻ってきたユノーをそう称えた。

 何の手も貸さなかった上司をユノーは責めなかった。彼なりの信頼の証と信じている。


「葵たちを助けに行かなければ」

「彼らは山の上はなるべく通らず、穴を掘って移動しています。その道に落ちたのでしょう。住民しか知らない罠や仕掛けがたくさんあります。とても危険です」

「彼らは一般人だ。恩赦のためとはいえ我々のために助力してくれている。救助は絶対に必要だ」

「しかし犯罪者です」


 厚い髪の下から覗く瞳はユノーの真意を諮っているようだった。それでいて愉しんでもいるようだった。

 ぴりついた空気がユノーから発せられて、ジャックは足音を殺して距離を取った。


「俺はアーヴィンの部下である前に、人命の忠臣だ」


 ユノーはそう言うと腰の無線機を外して再び船から降りていった。

 下で待ち構えていた住民たちに何事か話しているようだ。無線機が切られたので内容が分からず、マリアンヌはイヤホンを外してアーヴィンの横からカメラを見始めた。


「嫌われましたわね」

「まだ分かりません」

「あまり落ち込まないでくださいまし」


 整えられた爪でふわふわの髪をかき混ぜながら、マリアンヌはアーヴィンの頭をその胸に抱いた。

 やわらかい双丘に無理矢理頭を埋め込まれながら、アーヴィンは先ほどからずっと回している無線機のシグナルを激しく回した。途端に嵐が木を乱すような音が飛び込んできた。


「うわっ、何です、雑音が酷いです」

『あっ、アーヴィン』


 マリアンヌはすぐに自席に戻って無線機の発信器を追った。地下深くに潜り込んでいそうだが、回線が繋がりさえすれば大体の座標が分かる。

 犬のようにジャックが忍び寄ってきて、机の下に隠れながら「アーヴィンの機嫌直った?」と確認してきた。


「機嫌は悪くなっていないと思いますわよ」

「むすっとしてたじゃん」

「傷付いていたのです。ユノーの崇高な志を見せつけられた故に自分の薄っぺらで怠情な心を思い知らされて」

「聞こえています。二人とも減給です。決して許しません」


 アーヴィンはぶすぶすしながらも忙しなくキーボードを叩き付けて葵たちの居場所を特定していた。

 途切れ途切れに聞こえる通信を拾って情報を集約するに誰か新しい人物との出会いがあったらしい。アーヴィンはジャックに船の操縦を命じた。

 ジャックはむせび泣いた。

 予算の都合上、操縦士を乗せられなかったこのチームは、どんなアホでも離陸と着陸は出来る簡略化操縦機器が設備されているが、彼がそれを使うのは初めてだった。いつもはユノーか機械関係に強いマリアンヌが使っているのだが、ユノーは現地に飛び出てしまったしマリアンヌは無線機の追跡で忙しい。初めての着陸が狭い洞窟の入り口のような穴に向かってゆるやかに降りていってどうなっているか見えない狭い空洞の底に定着するなんて難易度が高すぎる。


 案の定、空気がぱんぱんに詰まった巨体は激しく土の天井を破壊して頭から洞窟の中の池に突っ込んでいった。

 土煙に塗れた景色の中では、葵たちにはとてもそれが助けの飛行船とは見分けられず、突如として起こった土砂崩れに焦ってその場を離れていってしまった。


「無線機の信号が離れていきますわ」

「ジャック…」

「命令ミスだと思うよ! 俺、命令ミスだと思う! 俺に任せるのが間違いだったと思う!」

「なるほど、私のミスだと仰りたい」

「では、ジャック、わたくしの代わりに無線機の追跡をお願いいたします」

「無理だよ!! 俺に機械を渡さないで!! 俺ってばアナログな人間なの!」

「では足で無線機を追ってもらいましょう。いってらっしゃい」


 アーヴィンはジャックのベルトに長―――い糸を結びつけて、斜めになっている船体から叩き出した。

 池に突き刺さる飛行船に向かって彼は何度も土下座して一人は嫌だと喚いたが、残念ながら人員不足甚だしいこのチームでは単独行動禁止なんて甘っちょろい考えはなかった。アーヴィンこそ操縦なんてボスの仕事ではないのに懸命に操縦機器と応戦してこの状態からの復帰に悪戦苦闘していたし、マリアンヌは三つの無線機を追いかけるので手がいっぱいでもはやジャックのことなんて目にも入っていなかった。

 

「ジャック、右手から三本目の細道に入っていったようですわ。おそらく」


 ようやくマリアンヌが早口でそう助言してくれたのが無線機から聞こえて、ひょろんとして頼りない男はとぼとぼと覚束ない足取りで言われた道へ足を進めていった。


 ***


 雪崩のように落ちてきた天井が放つ土煙がしばらく鬼のように追ってきていたが、なんとか逃げ切れたようだ。

 先導してくれた彼女の言う通り、この道には罠らしきものは一つもなかった。この地下で迷ったと言っていたが、どうやら罠の有無については秘密の目印があるらしい。


「ね、姉さま…」

「! リネ、どうしたの? 大丈夫?」

「抱え方が…、こいつ抱え方がおかしいです…」


 毒の影響かリネはまだ少し辛そうで、咄嗟の事態にトントがリネを持ち上げて走ってくれたのだが、リネときたら世話になっている身でありながらその温情に対して文句があるらしい。確かに、リネの足の下に両手を差し込んで持ち上げるのはちょっとおかしいかもしれない。両足をまとめて持ち上げるのではなくて、思いっきり開かせてその間にトントの身体を差し込み、抱き合うような形になっている。カが入らずだらりとしたリネの上体がトントの顔に押し付けられて彼は前が見えないはずだが、先導する女性の後をさくさくついていっている。息苦しくないんだろか。


「いやだなあ。咄嗟だったからさあ」

「うわ…、喋るな、気持ち悪い。心臓の付近で口がごそごそしてる…、うええ」

「吐かないでね、私にかかるじゃない」


 トントの後ろを歩く葵の些か頭上にリネの顔がある。広間に入る道よりずいぶん背の高い道なので、リネもトントも狭苦しくはなさそうだ。それにしても先ほどちょっと色が戻ったはずなのに見上げる彼の顔は真っ青だ。もはやこれは毒によるものではないだろう。


「でもでも、この格好ならリィネくんからずうっとネエサマちゃんが見えるよ、最善だと思うなあ」

「そうですね! 確かに! ずっと姉さまが見えます! これは最善です!!」


 気持ち悪い人間のダブルコンボに葵の心は凍るようだった。

 前を行く女性に抱かれた赤ん坊が彼女の腕の向こうからじっとこちらを見ている。こんなものを子供に見せるべきではない。なんだか自分が極悪人のような気がして、葵はとても虚しくなった。


「うっわ、やめろ! 服の中に手を差し込むな!」

「えええ~~~ごめんねー、入っっっちゃっっった」

「姉さま! 姉さま! こいつ変態です!」

「心配いらないわ。お似合いよ」


 しばらく歩いていくと女性がある場所で立ち止まり、ここで待つよう言った。

 そこは道の途中で横に別れた細道の先にあった小さな部屋のような場所で、一見するとただの岩肌のようだった場所が少し力を入れただけでずるりと横にずれて開いて現れたところだった。大きな弓や槍のようなものから、壷や箱のようなものまで色々なものが置かれていて、今まで来た場所よりもずっと整備された場所だった。天井はただの土ではなく木の板でしっかり固定されていて、ー定の位置で柱のようなものがそれらを支えていた。その柱にはランタンのようなものが吊されていて、十分な明かりで満たされた部屋だった。


「ケガ、したり、迷子。ここで待つ。迎え来る」

「なるほど。あなたの仲間がここに来てくれるかもしれないんですね」


 葵は現状を伝えようと無線機を持ったが嵐のような音がするだけでちっともアーヴィンの声は返ってこなかった。

 女性が長持からゴザのようなものを出して引いたので、葵はありがたくリネを寝かせようとトントに提案したが、トントはリネの背中に差し入れた手が抜けないだとかリィネくんが暴れるだとか言ってなかなか降ろさなかった。リネは怒りのあまり何度もトントの尻を踵で蹴っていたが、何の意味も成してなさそうだった。


「横、した方が良い」

「ほら、トント、横にした方が良いって彼女も言っているでしょ」

「リィネくんの服がばつばつだからあ、手が抜けなくてえ」

「語尾を伸ばさないで、気持ち悪い」


 わざとらしい物言いに葵は眉を潜めて諫めたが、トントのにやついた笑みはますます深まるばかりで不快感を煽られるだけだった。

 不自由な身体で暴れ回ったせいかリネの息が上がり始めて明らかに疲弊してきたので、葵は仕方なくリネの上体を引っぺがして無理矢理トントの腕から奪い取った。自分より身長の高い男一人の体重を支える力はもちろんない。葵がふらついたのを見て、トントは膝を曲げて床にリネを近付けた。


「もお~、危ないよ、ネエサマちゃん」

「誰のせいなの」

「んふふ、ボクのせい? ボクのせい??」

「分かってるならもう黙っててよ」


 引き摺るようにしてゴザに連れて行こうと努力している間、先ほどの抵抗ぶりが嘘のようにトントは素直に葵を手伝って、リネからあっさり手を離した。そして息切れしているリネに変わって服装を正してやっている葵を間近で見ていた。鼻先が当たりそうなほど近くにいるのに息遣いを感じないその存在は、葵の不安と恐怖と鬱憤と不快感を必要以上に煽ったが、もうこいつと一対一で関わり合いになりたくなくて、葵は気付かないふりを貫いた。


「ご迷惑を、おかけしてすみません、姉さま」

「あんまり喋んない方がいいよ」

「コレ、効きます」


 大きめのクッションのようなものに赤ん坊を置いて、女性がまた何か持ってきた。

 細長い薬っぱに黒くて小さな果実のようなものが包まっている。持つと僅かに温かくて柔らかい。まるで人肌のようで、葉っぱの細い脈が息づくようだ。


「目に乗せます。ヌペ、えー…、血、回る、よくなる」

「目に乗せるのね。ありがとう」


 構たわるリネの目にその葉っぱを乗せると、すぐに女性が紐のようなものを持って来て、リネの頭に巻いてそれを固定した。少し落ち着いたのか、リネは一度深く呼吸をして、その後の息遣いはとても落ち着いていた。しばらくして手をぼんぼんと何度か床に叩き付けて葵の手を見つけると、そのままぎゅっと握って静かになった。


「んーふふふ、可愛い弟、だね」

「弟じゃないです」

「イリクワ、きょうだいでしたか。いいもの」


 繋がれた手の匂いを嗅いでいるトントには食い気味で否定したものの、邪気のない笑顔で葵を見つめる女性の言葉はちょっと否定しづらい。

 トントが葵のすぐ横からリネの腹に手を差し伸べてぽんぽんと軽く叩くと、リネはその手も捕まえて握りしめた。

 勝ち誇ったような、喜びを我慢しようとして失敗したような、ぎゅんっとした笑みが唐突にこちらを向いて、葵はトントの顔を思わず平手で押し退けた。頭全体を上下させながらきひきひ笑うトントは玩具のようだ。そうだ、こういった玩具だ。人間でも謎の生命体でもなくコレは玩具なのだ。葵はそう言い聞かせて、生温い笑みでトントの電池が切れるまで見ていてやることにした。

 リネの手は吐息がー定のリズムに変化するに従って徐々に力を失っていったが、葵はその手を離す気にはならなかった。

 部屋はシンとしていて土とランタンの火の温かみが心地よい空間だった。

 その部屋に、男の悲鳴が響いてきた。


「何かしら」

「ジャックちゃんだ」


 リネに掴まれた腕は決して動かさずにそれ以外の身体を目一杯利用して新体操のような動きをしていたトントが、フィギュアスケーターのようなポーズのまま固まって、声のした方を指差した。

 彼の言うジャックちゃんについて葵は少し誰のことか分からなかったが、飛行船に乗っていた特対メンバーだ。

 トントは何度か自分は耳がいいと言うから、きっと声の聞き分けも出来たのだろう。


「助けに来てくれたのかもしれない」

「そうかなあ、葬りに来たのかもよ」

「なんてこと言うの」

「あの土砂崩れもボクたちを埋めようとしたのかも」


 リネを跨いで腰を弓なりに反らして逆さまの顔をこちらに向けるトントは姿形も恐ろしいが言っていることも恐ろしい。

 人間は前ではなく後ろにこれだけ体を折り畳むことができるのかと、感心してしまうほどの柔らかさだ。この玩具の作成者は関節の付け方を間違えたらしい。 

 葵はこんな男よりも最初にユノーが穴から助け出そうとしてくれた言葉と、無線機からこちらを窺っていたアーヴィンの言葉を信用することにした。


「様子を見てくる」

「ボクも行こうか」

「何かあった時にリネを移動できるのトントしか居ないから…、私が行くわ」

「ひとり、危ない」

「いえ、あなたはここに残っ…、るのも危ないですね」


 この母子をトントの元に置いていくのは忍びない。

 せめてリネが万全の状態であれば、頼めば何とかしてくれただろうが、この有り様だ。

 彼女はこの部屋に来て足の手当てをしたようで、多少は動きもよくなったようだ。

 葵はリネの手からするりと腕を差し引いて、立ち上がる―――つもりだった。


「姉さま?!」


 突如としてリネが目を覚まして葵の腕を追いかけてきた。

 目に葉のアイマスクをしているせいで視界は真っ暗間だ。その分手に全神経を集中していたらしい。

 トントを掴んでいた方の手も追いかけてきたが、その手は離さなかった。反り返っていたトントが体制を崩して葵に迫ってくる。チェシャ猫のような満面の笑みだ。葵は思わず平手でその顔を横殴りにした。逆の手はリネによってトントの手と一纏めにされて、ぎゅうぎゅうに締め付けられる。

 一方葵の平手に吹っ飛ばされたトントは踏ん張ってぴくぴくしながらも、リネの上に落下しないよう努力していた。

 首がねじ曲がっているし背は反っているし爪先立ちだし苦しそうだ。

 同情の余地はないが。


「どこへ行かれるんですか?! 置いていかないでください、捨てないでください、リネを一人にしないでください!」

「捨てない、捨てない。ちょっと行くだけ」

「俺も行きます。俺も行きます。行かないで、行かないで」


 腕をよじ登ってくるリネを葵は何とか落ち着かせようと努力した。

 しかしすぐに遠くの方から男の、大の男が発しているとは思えないような子供っぽい泣き声が聞こえてきて、急かされるような気分だった。


「分かった分かった、大丈夫。行かないわ。ここにいるから」


 どうしたものか迷っていると、赤ん坊を抱えた女性の声でもない、自分が発したわけでもない、しかし女の声が聞こえて、葵はぎょっとした。なんだか自分の声に似ている気がする。喋り方も…。

 目を見開いてこちらを見る葵を認めて、トントはにっこり笑った。今までのような奇抜な笑顔ではない。カラフルな髪の毛が霞むような穏やかで優しげな笑みだ。


「じゃあボクが行ってきてあげよお。………そうね、よろしくね、トント。………足元、気をつける、ワタシ、前行きます」


 三者三様の声がトントの口から出てきて、葵は目を白黒させた。

 声に合わせて表情もくるくる変わる。チェシャ猫の顔から真面目な顔に、きょとんとしたような素朴な表情。

 リネが葵の腕を更に上部まで掴もうと一瞬手を離したのを見計らって、トントは即座に自分の手を差し込みリネに掴ませた。

 これで葵は晴れて自由の身となったわけだ。

 呆然とする葵に向かってトントは頭をぶんぶんと振った。小さな声で「手が振れないからぁ」と言ったのが何とか聞き取れて、「行ってらっしゃい」の代わりなんだと気付いた。

 葵と同様、驚きを隠せない女性の背を押して、葵は静かにその場を立ち去った。

 自分とそっくりの声が背後から「気をつけてね」と見送ってきて、なんだか不気味な場所に迷い込んだ気分に陥る。男の泣き声に引っ張られるまでもなく、葵の足は自然とその速度を上げていた。


 ***


「ああああ、葵! 葵! あー、探したよお、良かったよおおおお」


 部屋を出るとすぐに細い糸が床を這っているのが見えて、それを辿るようにして進んできた。

 その先には、トントの言った通り、ジャックがいた。

 葵たちの後を追ってきたジャックは隠し部屋に気付かずに通り過ぎ、その先で大きな虫と出会い泣き叫んでいたらしい。女性によればこの虫は特別害のないものだそうだ。見た目は大きかったが、葵の目には虫と言うよりヤモリの類に見えて、特別恐怖は煽られなかった。


「あ、あ、あっちにね、広場の方に、船来てるから。そこまで戻ろ。出られるよ」


 葵の手を借りて立ち上がったジャックは生まれたての子鹿のようにガクガクと震えていた。足も喉も。

 ジャックときたらとんだ臆病者で、赤ん坊が一度大きくわーっと泣いただけで、負けじと大声を上げてわーっと叫んだ。葵は何度か彼に落ち着くよう言い聞かせたかったが、助けに来てくれた手前、あまり強くは言えなかった。

 すぐ向こうの隠し部屋にリネとトントがいることを告げると、もちろん拾ってから行こうという話になり、三人は来た道を戻ることにした。

 女性に扉を開けてもらい、その造りと内部に感心した様子のジャックを見て、少し和やかな気持ちになっていると、急にジャックが大声で謝罪してくるりと体を翻した。

 不思議に思い部屋の奥に目を向けてみると、横たわるリネに顔を寄せるトントの姿が―――


「わ―――! 何してるのよ、トント!」

「あ、おかえり~、トント」

「私の声真似止めて!!」


 葵は慌てて駆け寄ってトントを蹴り上げて退かした。

 自分より遥かに背の高い巨体で、体つきも決して細すぎるわけではないのに、トントはあっさり吹っ飛んで棒のようになって壁まで転がっていった。

 相変わらず葉っばで目を覆われているリネは、胸の上で両手を絡めて僅かに口を開いている。その頬は明らかに紅潮しており、土気色だった肌がずいぶん血流が良くなっている。しかしそれは葵の心に安堵ではなく焦燥を呼んだ。


「こ、こんな無抵抗な人に対してなんてことを!」

「やだなあ、ほっぺだよ。リィネくんがキスして、キスしてって言ったんだよ」

「私だと思ってでしょう?!」

「かわいいなあ、ネエサマちゃん。やきもちだね?」

「わ――――――!」


 手足をぴんと伸ばして気を付けの姿勢のまま横に倒されたような状態のトントに向かって、葵は手近にあった壺を投げた。

 毒を受けて動けない人間に対しての猥褻行為。

 被害者が好意的に思っている人物に成り代わる詐称行為。

 そしてそれを非難する相手に対して"やきもち"などと侮蔑する名誉毀損。

 これは殺してもいいだろう。正当防衛に値する。葵の脳内でそう数式が成立した。

 とうとう槍を手にしたところでジャックと女性の静止がかかり、葵は落ち着いた。さすがに殺しては駄目だ。

 壺が体にヒットする度、「ぴゃー」と声を上げて笑っていたトントも、葵がもう何も投げないと分かると何事もなかったかのように立ち上がった。腕に青痣が出来ていて、葵は少しばかり罪悪感を覚えたが、葵の視線を追ってそれに気付いたトントが、実に満足そうな笑みでそれを見るので、葵の心は晴れ渡った。むしろ罪悪感を覚えた一瞬の自分を殴り飛ばしてやりたかった。

 この狭い部屋の中で、ただ一人、リネは幸福に満ち足りた夢を見ていたのだった。

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