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掃き溜め

 彼らが牢屋と呼んでいる透明な壁で仕切られた部屋に戻ってみると、リネの部屋の床が何故か濡れていた。蛇口から落ちてくる水を受け止める洗面台が床に無残に転がっている。蛇口も然り。

 ユノーは今度こそ葵をトントから一番遠い端の部屋に入れると、元々葵が入っていた部屋―――トントの隣―――にリネを移した。


「姉さまに何をしましたか? 何をしました?」


 リネは隠し持っていたナイフをユノーの首先に当てて脅したが、ユノーは一つも動じなかった。リネの脅迫めいた質問に一つ一つ落ち着いて答えて、離れた部屋に入れられようとするのを暴れて嫌がるリネを軽々放り込んだ。

 一度去ったユノーはすぐに戻ってきて、朝とほとんど変わらない食事を提供した。

 そうして今度はリネから話を聞くと言って連れ出したが、リネがなんとかして葵の部屋をこじ開けようとするので、バックブリーカーを決めながら連れ去った。背の高いユノーに担がれてリネの足も頭も壁や天井にがつがつぶつかっていたが、二人とも気にした様子はなかった。こめかみに扉の角が当たろうと自分を呼び続けるリネの姿に、葵は恐怖を通り越して飽きを感じていた。


「かあわいい弟、だねぇ」

「弟じゃないです」


 隣同士で一夜を過ごした男が大分遠くなった。

 トントは相変わらず壁にべったりくっついて、膝を大きく開いてしゃがんでいる。ずいぶん柔らかいものだ。そしてストレッチでもするかのように片足ずつ交互に伸ばして左右に体重を移動している。ものすごく早い。葵は気味が悪くなった。


「逃げたいのにそうはいかないなんて、可哀相に」

「聞こえてたんですか?」

「ボクねえ、耳がいい~んだ」


 男は手も使わずに耳をぴくびくと動かした。

 先の尖った悪魔のような耳だ。耳たぶが薄い。


「彼らひどい人なんだよ、ほら」


 唐突に上着をめくった彼の胸には黒い痕がぽつぽつとあった。

 異様なほど白い肌に現れた唐突な痕だ。葵は遠目で見て一瞬ほくろかと間違えたが、それにしてはずいぶん大きいし、なんたが滲んでいる。ちょっとだけ頭を働かせてみて、結局何なのか、葵には分からなかったが、とにかく通常でははない痕だと分かった。


「それ…、どう、どうしたんですか?」

「彼らはボクに、やったことを何もかも吐けと言ったんだ。それでね…」

「傷ですか? 痛いの?」

「とっても疼くよ。ここを触るとね…、んふふふ、ああ、君の弟も下手をうったらすぐこうなるよ」


 反射的にリネの名前が零れて、葵はすぐにそのロを塞いだ。

 彼のことなど、どうなったっていいのだけど………。


「リィネくん、ネエサマネエサマって、とおっても暴れていたよ」

「そうでしょうね。彼はいつでもそう…」


 自分は素直に彼らの質問に答えて、彼らはずいぶん適当でいい加減でどうしようもなかったけれど、敵対心を見せようものなら、もっと違う対応が待っていたのかもしれない。扉の向こうの出来事は葵の耳では何一つ拾うことは出来なかったが、湧き出る不快な感情に戸惑って部屋をうろうろと歩き回った。


(あのとんでもないお姉さんに苦しめられて…、その代わりに私を拘束するのは許せないけど、まだ酷いことが待っているなんて、ちょっと可哀相…)


 意味もなく足踏みするのをトントがとっても楽しそうに見るのを見つけて、葵は慌ててぺたんと座った。

 つるつるなフローリングはほんのり温かい。

 長袖のカーディガンを失って薄い半袖のワンピースだけの葵にはありがたい設備だ。

 トントは葵の顔をどうにかして見ようとしているのか、姿勢を低くして下から葵を見た。

 惜しげもなく胸を見せつけ続けてにやけている男にこんな弱った顔を見せるのはなんだか口惜しい。葵は反対側の白い壁に頭を向けて、膝の上で重ねた手を祈るように見つめた。


 ***


「ドーラ号に手を出さないでください!」

「そのつもりです」

「この少年はおかしいです」

「すまない。本当にすまないと思っている」

「それで、あなたは何がお出来になるの? どのレベルのペネストレーションテストをクリアするウィルスをお作りになったの?」


 リネは混乱の中であらゆる質問にほとんど答えなかった。

 とにかく目をぐるぐる回して部屋の中に火の気がない確認し、逆に一人ずつ喫煙者かどうかを聞き返すほどたった。


「私以外の三人は喫煙者です」

「吸わなきゃやってられませんもの」

「バルコニーがあるんだけどなあ。風がすげえの。換気扇もものすっごい風だしなあ」

「しばらく禁煙していたが、また始めようかな…」


 遠い目で広い窓に広がる空を見るユノーを、リネは憎々しげに見つめた。

 帰ってきた姉の様子から察するに、酷い行いはされていなさそうだが、時間の問題かもしれない。


「特対というからどれだけの人が集まっているのかと思えば、とんだ掃き溜めですね」

「返す言葉もない」

「まあ、どんな理由であれ、ドーラ号を捕まえる気がないというのは賞賛します。当然でしょう。我々は正しい行いをしているのです」

「返す言葉ならあります。私も、誰一人、あなたたちが正義を執行しているとは考えていません」

「あなたたちみたいな無能な警察官が、真の悪者を成敗しないから! 代わりに僕たちが被害者の願いを聞いているんです!」


 この部屋に誘導されてから一度も座っていない椅子を蹴っ飛ばして、リネは怒った。

 ドーラ号の人間にとっては、悪事を働く人間と同じくらい、それを罰さない政府も憎しみの対象なのた。


「犯罪に犯罪で返すのは犯罪者の行いです。我々がそれを肯定することはありません」

「でも、捕まえる気はないんでしょう」

「私にとっては、どうでもいいというだけです。正当な活路を見出せずに安易な悪手を用いるのは自分の無能を公言して憚らないと同義です。あなたたちは恥ずべき存在です。胸を張るなど以ての外です」


 とうとうリネは机の上でまとまる少年を持ち上げて放り投げた。

 ジャックが慌てて飛んでいったアーヴィンを追いかけて、見事下敷きになって彼を守った。

 ユノーはリネにチョークスリーパーを決めて意識の剥奪を試みたが、リネはいつまで経ってもユノーの腕を引っ掻いていた。

 仕方なく、もう一度牢屋に投げ込むこととして本日の()()は終了した。


「彼も手伝いに加われば更に自由時間が増えますのに」

「葵という女性を使えばまだ可能性はあるように思えます」

「どうでしょう。彼が意固地になったらアーヴィンが喧嘩を売ったせいですわ」


 買ったが売った覚えはない…と、ジャックの背の上で体を揺らしながら、アーヴィンは小さな声で抗議した。

 そりゃあ確かに怖い人たちばかりの刑務所に戻るのはごめんだけど、気楽でお金に困らない生活のためにその辺を巻き込んでいく彼らがいるここも、ちょっと怖い。アーヴィンの薄いお尻に背骨がごりごり鳴らされるのを聞いて、ジャックは床に顔を埋めてしくしくと泣いた。


 ***


 戻ってきたリネは明らかに苛ついた様子で、葵と同じ部屋に入れるようユノーにくってかかっていたが、ユノーは構わずトントの隣に投げ込んだ。

 しばらくにゃーにゃ一騒いでいたが、トントの「今日はネエサマちゃんが使った寝袋で寝れるねえ」の一言で少し静かになった。葵は吐き気を覚えた。

 その日はまたユノーが夕飯を運んでくる他に何も起こらず、三人は手持ち無沙汰の中でぐったりと過ごした。

 こんな暇なことは久しぶりだ。

 リネに閉じ込められていた時もやることは何もなかったが、緊張続きで暇と思う時間はほとんどなかった。あまりにも時の流れが遅いとは感じたが、考えなければならないことが沢山あって、こんな体が痛くなるほど床にだらけることなどありようはずもない。今もほぼ同じ、監禁状態と言えるが、緊張感に欠ける。どうも感覚が麻痩してきている。


「姉さま…、大丈夫ですか? 痛いところなどありませんか?」

「別に…」

「運動するといいよぉ、ボクが気持ちいいストレッチ、教えてあげる」

「黙ってろ、ゴミが」

「やめなさいってば」


 油断すると喧嘩が始まりそうなニ人を止めるのも飽きてきた。

 よくよく考えれば勝手にすればいいのだ。

 扉を叩くかにゃんも、押しかけてくるマーロも、本を持ってくるエルロイもいない。本当に少しだけ、僅かばかりだけ寂しさを覚えてしまった。


「あの……………、姉さま。緑のない国でのことですが」


 ぼーっと窓を眺めていたら、リネの意を決したような声が聞こえてきた。

 見てみるとリネは透明な壁越しにこちらを向いて正座していた。その真っ直ぐ後ろでトントが手足を大きく開いてびったり壁にくっついて壁をなめ回していて、葵は戦慄した。二人がかりでこちらの精神を削ってくる。生来の負けず嫌いの性格が屈するなと脳内で慟哭していた。


「な…、ななななに」


 小さくなるリネの後ろの物体が怖すぎて葵の声は震えた。

 今こそリネに立ち上がり周囲が見えなくなるほどの土煙を上げて暴れ回ってほしいと願ったことはない。縮こまるせいでトントの異様な動きがよく見える。心底やめてほしい。


「研究員の顔の皮…、のことですが、その―――、…………喜んで頂けませんでしたか?」

「うわあ…あれのこと………」


 べらべらな物体を思い出して葵は顔を歪めた。

 リネの背後の男がいかにも興味を持った様子で顔を近付けてきた。これ以上近付けようはずもないので、顔面を潰しただけだったが、葵には確かに近付いたように感じられた。


「前も言ったよね? あんなことして喜ぶ女と思われているなんて、とんだ侮辱よ。何度言わせるの?」

「侮辱だなんて! とんでもないです!」

「あの人のことはむかついたけど、そんなことしても何にもならない」

「昔は喜んでくださったじゃないですか! リネを褒めてくれました。また褒めてください。お願いします」

「ふざけないでよ。私をあのコーラと一緒にするわけね。最低」


 さしずめコーラに()()()していた頃と同様の気持ちで自分に接しているのだろう。

 リネはたまに葵とコーラを混同しているところがある。いつから葵が姉になったか曖昧になっているような…。葵はそれに気付いていたので、それはもう、酷く不快に思った。


「…………………………コーラとは、誰ですか?」


 縮めていた体を緩慢な動きで持ち上げて、リネは一歩、葵の方へ身を寄せた。


「僕の姉さまはずっとあなたです。そう言ったじゃないですか。認めました! あなたは認めました! だからそうなんです! 僕の姉さまはあなたしかいなかったし、産まれてからずっと、僕に、あ、あんなことをしたのだって、姉さまなんです! あ、わ、あんな、あんなこと、姉さまが僕に、わ………」


 自分が一体どんなことをしたと言いたいのかさっぱり分からなかったが、とにもかくにも葵は恐怖した。

 途中までただ責め立てていたはずのリネはたちまち怒りとはまた別の意味で顔を紅潮させて、一度広がったはずの体をまた再び小さくまとめた。両手で頬を押さえる姿が乙女のようでとっても気色悪い。


「姉さまだって皮を剥いでる時のあの男の声を聞いていれば褒めてくれたに違いありません…。姉さまはああいった声がお好きだったはずです」

「お前は本当に何を言ってるの」

「皮を、皮を持ってくるだけだったから、だからお怒りに…。目の前で剥げば良かったんですね、反省します。すみませんでした。次こそは」

「マジで気持ち悪いから黙ってくれない?」


 腹の内から先ほどのご飯が戻ってきそうで、葵は寝袋を丸めて腕に抱いた。足と腹の間にちょうど納まって据わりがいい。

 言っている意味を全て理解できたわけではないが、あんな酷い女が実の姉で、それで苦しめられてきたことを想像してみれば、リネも可哀相な人間だと思える。それでもそんな女と自分が重ねられているなんてとんでもないことだ。この上ない侮辱だ。


「リネ、その頃のお姉さんがどうだったか知らないけど、私は違うの。私はそんな乱暴大嫌いなの。あの人は言葉でも行動でもエルロイを傷付けて、私はそれに怒ったけれど、やはり同じように傷付けるなんて彼と同じ畜生道に堕ちるようなものだわ。私はそんな畜生を弟に持つつもりはない。これだけ言って反省しないなら、私を二度と姉さまだなんて呼ばないで。話しかけないで。そういうのを喜ぶお姉様のところに戻って、そしてもう二度と私の目の前に現れないで」


 葵はリネが言葉を挟んでくるのも無視してつらつらとそう言って、ぷいっとそっぽを向いた。案の定リネは大慌てで弁明し始めたので、それにもいちいち丁寧に「最低」「クズ野郎」「恥を知れ」と言ってあげた。


「ね…、姉さま、許してください…。も、もう、皮を剥いだりしませんから」

「あなたは何も分かってない。もう話しかけないでって言ったでしょ」

「じゃ、じゃあ姉さまから話しかけてください。お声が聞きたいんです」

「嫌に決まってんだろ」


 背を向けたっきりだったが、葵にはリネの狼狼ぶりが目に映るようだった。空に拉致されてから飽きるほど見ている。


「本当に反省しているなら、あっちを向いて黙ってて。これ以上私に不快な思いをさせないで」

「あ、あちらを向いたら、許して……、ぁ…、その、交換、条件はしません。ぼ、僕覚えてます。ちゃんと言われたこと全部覚えてます。姉さまの言うことなら一言一句全部覚えてます。聞いています」


 いつか葵に叱られたことを思い出して、リネはそれを懸命にアピールした。あの時、姉さまは怒鳴ることもなく暴力を振るうこともなく椅子に座って向かい合ってお話ししてくれた。甘くて優しい思い出だ。


「じゃあ言う通りにしなさいよ」

「します。します。姉さまの言う通りにします…」


 静かになったのでちらりと後ろを向いてみると、リネは確かにこちらに背を向けて体を丸めて震えていた。

 葵はようやく一息吐いて、体をぐーっと伸ばすと、すっかり暗くなった窓の下で寝袋に包まった。視線がないのは良いことだ。睡魔が襲ってくるまで長いこと寝苦しかったが、葵は目を開けることはなく、夜を迎えた。

 姉の方から物音がする度に、何をしているのだろうか、もう許してくれたのだろうか、と気になって仕方なかったが、姉への誠意のあらわれに、リネは歯を食いしばって見返るのを我慢した。少し前までは意識して我慢しなくても零れることのなかった涙がぼろぼろ溢れてきて、自分の手や床を濡らしていった。


 その様子を、透明な壁越しに男が眺めていた。

 トントは三日月を描く口を半開きにして、三白眼気味の目を見開いて、ぎらぎらな小さな瞳いっぱいにリネを映しだしていた。縮こまるリネを伺うように顔を床まで滑らせて、足も手も大きく開いて歪んだヤモリのようになっている。

 しかしリネにはそんな男は目にも入らなかった。

 しかしトントはリネに釘付けだった。


「ンンン~~~、新しい、お気に入りィイ」


 絹を裂くような、跳ねるような、空気を震わすような、奇妙な声が端の方から漂ってきて、温かいはずの寝袋の中で葵は身震いした。

 特殊犯罪組織対策機構は、牢屋まで掃き溜め。

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