階下の探検
今日は実に静かだ。
このドーラ号は空をそれは静かに進むが、その中は団員たちの喧騒が絶えることがない。
でも今日は、リネによると"会議"の日だそうだ。団員全員を揃えて次の犯罪行為の計画でも立てるんだろう。いつも廊下でたむろしている人々も見当たらない。
(出口を探すなら今だわ)
空の只中で脱出しところで逃げ道を死のみだろうが、いずれ着陸するようなことがあった時、出口を知っていればより脱出成功の可能性も上がる。今の内にここの構造を理解しておこうという腹だった。
葵は一階への出入りを、このドーラ号の船長・リーダから禁止されていた。
しかしそれは口頭によるものだけで、二階と三階を行き来する階段から続く一階への階段は、特に封鎖されているわけではなかった。葵はそこに向けて、足音を抑えつつも足早に進んだ。
「あっ、ごめんね。大丈夫?」
誰もいないと思っていた葵は角から出てくる人影に気づくのが遅れた。
衝撃を受けて、後ろへ二、三歩よろける。
顔を上げてみると、とても背の高い人物が、半円を描くような瞳と共にこちらを見下ろしていた。のっぺりとした笑みは仮面のようで、肌の色そのままの坊主頭はマネキンのようだった。
ほんの少しの恐怖に葵は生唾を飲み込んだ。
「だ、大丈夫です。失礼」
何もないふりをして横を通り抜け、足を進めた。
後ろから、ぺたぺたとした足音が近付いてくる。
「葵、だよね?」
やばい。脱走を目論んでいるのに勘付かれたのかもしれない。
犯罪集団のアジトなんだから、警戒のために廊下に見張りを置いていてもおかしくはない。
「僕はマーロ。よろしくね」
このまま無視して心象を悪くするより、世間話でもして別れたほうがいいかもしれない。
そう判断した葵は立ち止まり、振り向いて、差し出された手を取った。
「葵です」
「リネが連れてきた人だよね。リーダから聞いてるよ」
「そう、ですか」
私のことを団員全員が知ってるのだとしたら、逃げ出しにくい。
気まずそうに目線を下げる葵を、マーロは顔を傾けて覗き込んだ。
「僕は君と同じ立場だよ。安心して」
「えっ」
***
聞くところによると、マーロは帰るところを失い、リーダに拾われてここに置いてもらっているが、ほかの団員のように仕事には関わっていないという。
「みんなが会議中は暇だったんだ。話し相手ができて嬉しい。君を歓迎するよ」
「そりゃどうも…」
「葵は何をしていたの?」
出口を探していた―――とは、言えなさそうだ。
集団の中にありながら、その他の人の思考に自分は染まってないとは言われても、それでもここで共に過ごした人達に言われれば、容易に自分の敵になる可能性は充分ありえる。
(そもそも、同じじゃないわ…)
この人は帰りたくても帰る場所がない、自分は帰るべき場所がある。
この人にとってリーダは恩人だろうが、自分にとってリネは恨みがましい人だ。
「分かった、出口を探していたんでしょ」
「!!」
「リネからの扱いに嫌気がさして無理にここを出ようとしないか心配だ、飛び出したら空の上だからってリーダが言ってたよ」
図星を刺されて葵は青ざめた。次にどんな言葉を続ければこの場を逃れられるかわからない。
「帰りたい場所があるのは素晴らしいことだよ」
マーロは一呼吸おいて続けた。
「僕もちょうど探検したいと思ってたんだ」
腰を曲げて覗き込んできたその顔は、ご褒美を待つ子供のようで、もう仮面のようには見えなかった。
***
「うわあ、そっかあ。ここを降りれば一階に行けるのか。なるほどね」
一階ってどう行くかわかる?と聞かれたときは馬鹿にされているのかと思った。
だが階段へ案内したあと、この人は本気だ、と気付いた。
どれくらいの期間ここにいるのか知らないが、どうやったらこの階段に気付けずにいられたのだろう。もしや二階と三階を行き来することも出来ないんじゃないか。
「おや、一階は上に比べて随分狭いね」
階段を下りると、二階のように奥へ長く続く廊下はなく、すぐ傍に壁が立っていた。
「壁の向こうにまだスペースがあるんじゃないですか」
「でも、扉らしきものはないけど」
「二階のどこかにもう一つ階段があるのかもしれませんよ」
「おお、なるほど。わくわくだね」
マーロの声は弾んでいた。子供のような声色にちょっと拍子抜けする。
「見てください、ほら。私ここから入ってきたんだわ」
壁とは反対側に、昇降口のようなものがあった。今は閉まっているが、これが下に開いて自分とリネを受け入れたのを覚えている。左右に備え付けられた手すりは安全対策だろう。さらにその横にはリネが乗っていた手すりのついた円盤がずらりと格納されている。これに乗って出入りするんだろう。
「んっ! 押しても開かないよ」
「ちょちょちょ、危ない。開いたら空だよ」
丸くなった壁の端をマーロが体重をかけて押す。
開いてしまったらマーロの足元がぽっかり開き、空への旅立ちになるはずだ。
「リーダが通常出入りする場所は一つしかないって言ってたような」
「通常?」
「そりゃ、非常時には全ての窓から出入りできるらしいけど、機材とか人が飛んでっちゃうからあんまりやりたくないって言ってた」
大惨事が目に浮かぶ。しかし、いいことを聞いた。つまり空での出入りだけでなく、着陸した時もここから出入りするということだ。
この場所さえ分かれば、地上に降りた時にここへ来て人目を盗んで走り出せばいいわけだ。
目的を達した葵は早々に上へ戻ることを決め、隣のマーロに声をかけようと目をやった。
マーロは、昇降口のすぐ横にある黄色のつまみを掴んでいた。仰々しく透明なカバーで封印されていたようだが、それはぱっくり開いている。
「え、マーロ、それ」
「これなんだろう」
つまみの右上に『必ず安全を確認のこと!!』と大きく注意書きがされている。赤い文字が危機感を煽る。
がこん、とマーロが力を入れてつまみを落とした。
「捕まって!」
スカートがめくれる、どころの騒ぎではない。
髪を、腕を、足を、胴体の全てを引きずり出さんとする凄まじい風が、ぽっかり開いた口へと誘い始めた。青々とした空に白い雲が漂う美しい腔内が、その穏やかな雲の流れからは想像もつかないほどの暴風と重力を以て二人を誘っていた。
葵は慌てて手すりに体を絡ませたが、その腰にマーロの長い腕がひっついている。
「絶対に離しちゃダメだよ! マーロ!」
「わわ、わ、葵、落ちたら死んじゃう」
「分かってるよ!!」
脇の下に手すりを挟み込み、両足も手すりを巻き込んで絡ませる。
マーロの腕が限界を迎える前に自分が手すりから滑り落ちたら二人共おだぶつだ。
「マーロ! 上がってこれない? 手を伸ばしてさっきのつまみを上に戻すの!」
「オッケー。やってみるね」
マーロが片手を腰から離して手を伸ばす。腰に回していた腕がたちまち滑っていった。
「わー! わああー! マーロ、ストップ! やめやめ!」
「ご、ごめん、葵、服が皺になっちゃったかも」
「いいんだよ! 私こそゴメンネ!!」
なんとか葵の洋服を力強く握って耐えてくれた。元通り両腕をぐるりと巻きつける。
悪手だった。自分の服がちぎれていたら、と想像してゾッとした。
葵は目と思考を巡らせた。
ふと、手すりから赤い紐がぶらさがているのが見えた。登山家がお互いを結びつける時に使うような、丈夫そうな太い紐だ。紐の先に、スナップフックも付いている。
「これ、命綱だわ」
紐を片手と口を使って手繰り寄せてその先をマーロまで伸ばした。
「マーロ、足を上げられる? ズボンのベルトを通すところとかにこれを引っ掛ければいいんだわ」
「お~すごい。なるほど。葵、君の服に先につけて」
「いーからはよ! 足あげて」
自分が単身上がってもマーロを引き上げる力はないし、そもそもマーロが腰にくっついてる状態で上がれるとも思えない。
マーロに手すりの奥に行ってもらってつまみを戻してもらったほうが良作だと考えたのだが、説明するのが些か面倒だった。
マーロはなんとか右足を手すりのところまで上げた。
「柔らかいわね! えらいわ」
「ふふ、褒められた」
渾身の力を左手に込めて全身を支え、右手を思い切って手すりから離し、紐をマーロの腰元へ伸ばした。
少し手こずったが、なんとか引っかかったようだ。
「よし! マーロ、もう大丈夫だと思う。上に上がって」
引っ掛けていた足を滑らせたが、マーロの腰はもう一定以上下へは落ちていかなかった。マーロは感嘆の声を上げると葵の腰から手を離し、紐を伝って手すりの反対側へよじ登っていった。
手すりに体を預けるマーロを見るに、安定しているようだ。
「葵! さ、僕に捕まって」
手すりの向こう側からマーロが両腕をさし伸ばしてくる。
「いやつまみを上げろや! そうすれば閉まるから!」
「捕まって、葵」
にこやかな笑みが深まる。
目も口も、彫刻刀でくりぬいたような綺麗な半円だ。この状況で、葵には最早死神にしか見えなかった。
「何してる!」
「姉さま…? 姉さま!!」
階段の方から声が聞こえた。
近寄るなというような声と姉さまと呼ぶ声が反響し、やがてゲートは閉まっていった。
徐々に威力を失う風に葵は安堵し、ようやく足を地面に降ろした。
疲れきりへたりこんだ葵をマーロが優しく抱き上げ、顔を寄せると、ふふふ、と笑った。
(こいつぁやべえやつだ…)
葵は確信した。
「助けてくれてありがとう、葵。次は僕が助けるから」
死神の笑顔に変わりはなかったが、葵の頭を撫でる大きく細い手はどこまでも優しかった。
は―――と長い息をついたリーダに命じられて、二人はその場に正座を強制された。狭い玄関口、至近距離でリーダが腕を組んで見下ろしてくる。その隣には滝のように涙を流したリネがリーダの肩を噛みながら立っていた。足がガクガクと震え、今にもバラバラになって崩れ落ちそうだ。
「鍵をつけよう、リーダ! 姉さまが絶対にこんな危険なことしないように!」
リネは葵が抜け出そうとしたよりも、単なる好奇心と不注意によるものだと思っているようだ。
「マーロも、だな」
金色の瞳が鋭く光り、困ったように笑うマーロを睨みつける。
「ごめんね、リーダ。ちょっと探検のつもりで」
「それで? お空も探検するつもりだったのか? マーロ」
リーダの形のいい眉が釣り上がる。
「マーロも一階は出入り禁止にする。あと、しばらくは部屋で謹慎だ」
「リーダ、怒ってるね」
耳打ちにしては大きすぎる声量だ。葵に顔を寄せて手で唇を隠しているが、何の意味もなしていない。
「姉さまから離れて! ねえ、お願い。姉さまを誑かさないで」
リネが二人の間に割って入り、葵を無理に立たせて腕の中に仕舞い込んだ。当の葵は胸を押して抵抗する。
「こんな怖い思いさせるなんて酷い! リーダから言って聞かせてよ。もう姉さまに近づくなって」
「謹慎させる。お前もさせろ」
「僕は姉さまに命令なんて」
「私からマーロに会いに行くわ」
「は?! だめだめ、絶対に駄目! 今度は窓から突き落とされちゃいますよ!」
リネへのあて付けのつもりだったが、聞いていたマーロは「わあ、嬉しい」とニコニコしている。
「私に命令するのね」
「しません! 姉さまを心配しているだけです! そ、そうです、心配してる…」
リネは腕の力を強めた。抵抗によって僅かにできていた隙間がなくなり、体がぴったりくっつく。
「心配してるんだから、これは弟として必要な措置なんだ」
声色が変わった。
いっぱいいっぱいに張り上げて、時には裏返らんばかりだった声が、低く落ちて重みを増して体に落ちてくるようだ。
リネは葵を掴んだまま歩き出すと、野次馬をかき分けて階段を上り、部屋に入った。
自分の部屋を通り過ぎて葵の部屋に入るやいなや扉に鍵をかけ、一旦辺りを見回したかと思うと、ベルトを抜き取った。
「えっ」
男に攫われて、男の住処に閉じ込められて、それでも今まで感じなかった貞操の危機を、その仕草一つで感じとった。
この男は、理由は不鮮明だが、どうも自分を崇拝や敬愛の対象にしている、と思い込んでいた葵は、少し気が大きくなっていた自分を反省した。どうかしていた。かつての偶像を求める、少しだけお気の毒な気を病んだ人、で済むわけがない。"そういう目的"で連れ込んだ劣悪な犯罪者に違いないのに―――。
「きゃああ! きゃああああ! やだやだ! さいってー! かにゃん! かにゃーーん!」
特段リネが近付いてきたわけではなかったが、葵は暴れた。
椅子を、小物入れを、本を、コップを、チェストの引き出しを、手に当たった尽くを投げつけた。そして声の届く範囲で一先ずこの状況を打破してくれそうな人の名前を呼んだ。
ここの団員であるかにゃんは、女性への暴力を決して許さない人だ。
「いくら暴れても無駄です! この部屋は安全ですから、ここにいれば安全ですから」
しかしリネはただベルトを葵の足に括りつただけだった。ベルトの先を小さなナイフで床に突き刺すおまけつきだったが。
「ふぁっ!?」
ともかくも性的な乱暴からは逃れたらしいことを知った葵は、それでも不自由な足に驚愕した。
ナイフをぐにぐにと捻ったり上に引っ張たりしてみたが抜けそうにない。
リネはカーテンの留め紐やベッドの天蓋の飾り紐等を取り外すと慣れた手つきで縄をないはじめた。
「短いと不便でしょうからね」
ナイフに対して葵は十分奮闘したが、引っこ抜くことはできなかった。
肩で息をする葵の足に、作り終えた色とりどりの縄を固く結び、棚の脚に繋いだ。ナイフで穴の増えたベルトは外され、リネは「これで大丈夫です!」とやりきった顔で笑った。
葵は試しに足を軽く引っ張ってみたが、擦れる痛みが皮膚に走り、棚が若干軋んだ音を立てただけだった。
「待っ…、なんの嫌がらせなの」
「嫌がらせなんてとんでもない! 姉さまの生活圏はここです。安全ですからね」
安全なんて、望んでいない。
「僕がずうっと、守ってあげますから」
あの足の下に広がっていた空の方が、もしかしたら私の望んだ場所だったのかもしれない。
涙が零れるのとほぼ同時に、葵は足を思いっきり前後に振り回した。もう痛みも軋む音も関係ない。これで棚が倒れてきて頭にぶち当たったらいっそ本望だ。
「なっ! 何をするんですか! 姉さま!」
足が擦れて皮がめくれた気がする。血が滲んで縄がぬめる。でもこの縄が足を切り取ったとしても、絶対にここから出なくては。
葵はもう足を失う覚悟すら決めていた。
リネが足にしがみついて止めてくるが、その体に膝をいれ、腕で頭を押しのけて、前後運動する足だけは絶対に止めなかった。
「やめてください! 姉さま…、ああ、足が、足が血で…! どうして? どうしてこんなことを!」
「はああ? どうして? あんたのせいよ! あんたがここに連れてきたせいよ!」
「僕は、僕は安全のために、姉さまのために」
「じゃあよく見なさいよ! あんたの行いのせいで、私の足がちぎれたってあんたは少しも気にならないんでしょうね!」
リネは額を葵の太ももに押し付けて、頭をぶんぶん振り乱した。
「そんなわけない! 姉さまの足、足だ、世界で一番大事な足です! ちぎれたら宝石で飾って腐敗処理をしてショーケースに入れて一日中見つめます!」
「随分具体的だな、くそやろう!」
かくなる上は先ほど投げそこなった丸テーブルを振り上げて、まとわりつく肩や頭を何度も打ち付けた。痛がる声と泣き声が混ざり合って聞こえてきたが、この紐を外すまで葵も止められない。
「うう、姉さま、姉さまの足…! はあ、血まで綺麗です…!」
「目的変わってんじゃねえよ!」
やがて吐息の篭もった声が足に吹きかかり、その手の動きは力を込めてしがみつくというよりも、愛撫に近付いてきた。
その時、扉が叩かれた。
「ちょっと! どうしたの? 騒がしいんだけど」
かにゃんだ。先ほど助けを求めた女性の味方。
葵が助けを求めるより早く、リネが走っていって扉を開けた。
「かにゃん! 姉さまを止めるのを手伝って! 自傷行為を始めたんだ」
「なんですって! 葵、はやまっちゃだめ…」
リネの言葉に彼を押しのけて奥へ目を向けたかにゃんは、葵の姿を一目見て全て把握した。
「おめえのせいじゃねえか、このくそやろう!」
細い褐色の足は彼女の頭よりも高く上がり、リネの脳を激しく揺らした。
***
「ぼ、僕が手当します。僕がやります」
「うるさい。エルロイがやったほうが上手なんだから黙ってなさい」
「ありがとう。かにゃん、エルロイ」
「お、お礼を言った…!」
「それがなんなのよ」
かにゃんはいちいち喚き散らすリネをうっとうしそうに手で払った。
「エルロイ、やらしい手つきで触らないで。いくらすべすべで柔らかくてつややかな足だからって…」
「お前は本当に気持ち悪いな」
かにゃんが言葉でも足でも代打を果たしてくれるものだから、葵の心も少しばかり晴れやかになった。
この傷跡がリネの情緒をさらに乱した話については、また別の回にて。