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脱出口に引っ掛かり

「ごきげんよう」


 久しぶりに思える明るい空間で、葵は上から覗き込んできた女性から軽く手を振られながら挨拶を受けた。

 緩いウェーブの掛かった金髪が華やかな美人だ。しかし表情は無愛想で、口を小さく窄めていた。てらてらと潤う唇が魅惑的だ。


「あおい」


 落ちていった時からずっとこちらを見ていた少年が小さく葵を呼んだ。

 初対面だが、葵はこの顔、この瞳に見覚えがあった。


「いる、いん…、くん」


 淡い色のもっさりとした髪に大きな紫の瞳。分厚い唇。まるくやわらかな少年の輪郭。

 エルロイの故郷から盗んできた資料にあった、逃亡した"被献体"だ。


「名前を呼んだら吃驚させられると思いましたが、あなたも私の名前を知っているとは吃驚です。わあ」


 少年は一息に抑場なくそう言って、両手で抱えていた飲み物をぐいっと飲んだ。

 とっても不服そうに眉を寄せて、そのままごくごくと飲みきると、後ろの方にいたひょろりと細い男に向かってポイッと投げた。


「彼の名前はアーヴィンですわよ」

「アーヴィンです。よろしく、葵」


 葵とリネが降ってきた穴から体格のいい男が一人落ちてきて、葵をひょいと摘まんで立たせた。

 そして床に倒れるリネを持ち上げて肩に担いでから、葵をじっと見下ろした。

 背の高い、スキンヘッドの男性だ。腕も肩も胸も何もかも葵よりずっと広い。威圧的な大きさだ。太い眉の下にある黒い瞳はよく見るとつぶらで優しげだ。


「どうして私の名前を」

「日本の失踪者リストにいました。私は覚えがいいんです」

「アーヴィンはとても覚えがよろしいの。わたくしのフルネームも(そら)んじられるのです。わたくし、マリアンヌ・テリオーヌ・ユーシャリンヌ…」

「マリアンヌと呼んでやってくれ。由緒正しい家の人間ほど代々の名前を繋げていく習慣のある場所の生まれなんだ。今は姓も取り上げられてしまってただのマリアンヌだが」


 未だに滔々と名前を朗読する彼女を差し置いて、後ろにいた男が声を掛けてきた。


「俺はユノーだ。それで、彼女たちの扱いは」


 ユノーは名前だけ告げると、アーヴィンに向き直った。

 アーヴィンはひとしきりマリアンヌが名前を言い終わるのを待ってから、葵とリネをマジマジと観察した。


「牢屋に入れましょう」

「まあ。彼女もですの」

「ドーラ号の人たちに攫われた可能性の高い失踪者でした。しかし彼と行動を共にしていたところを見るに仲間になるため自ら身を隠した可能性も捨てきれません。念のため拘束してください」

「承知した」


 あまりに軽々と腰を持ち上げられて、葵は小さく悲鳴を上げた。

 仲間じゃないと何度も主張したが、ユノーは確認が取れるまでは厳重警戒だと言ってそのままリネと一緒にぽいぽいとそれぞれを別の部屋に投げ込んだ。そこは四畳ほどの部屋で、窓の付いた細い壁以外は全て透明の壁だった。隣の部屋で顔を床に潰したまま倒れ込むリネが丸見えだ。床はフローリングだが仄かに温かい。部屋の隅には寝袋のようなものが丸まって置いてある。手を洗えそうな洗面台が窓の下に付いていて、それ以外は何もない。

 しかし、そんな部屋のことよりも気になるものが目に飛び込んできた。

 リネとは逆隣の部屋に、奇妙な人がもう一人いた。


「あ、お、い、ちゃあん、って、いうんだねェ」


 ヘリウムでも飲んだような高い声で葵の名前を区切りながら言ったと思えば、語尾は低い声にがらりと変わった。まるで喉に二人人がいるようだ。

 恐らく男性だろうと思われるその人物は、足も手も大きく開いてカエルのように透明な扉にべったり貼り付いていた。髪の毛は一房ごとに赤色、青色、黄色、紫、緑…とにかく様々な色をしている。この壁をかち割るつもりなのか思うほど額を押し付けて、頭を左右に振りながら、目一杯の上目遣いで葵を見ている。


「変質者がいます! きゃー! きゃあああー!」

「はっ! 姉さま!」


 彼から思いっきり離れて逆の壁に背中をがつんとぶつけると、背後のリネが目を覚ましたようだ。

 周りを少しきょろきょろとした後に姉の背中を見つけて、飛び付くように近寄ったが、透明な壁にぶち当たって再び床に沈んだ。


「づあっ、大丈夫ですか、姉さま」

「ちょっと! 変質者がいますんですけど!」


 すぐ後ろで鼻を抑えているリネの言葉なんて全く耳に入らずに、葵は助けを呼んだ。

 しかし誰も来なかった。

 壁の向こうの男は何度か額をバンッバンッと壁に当てて葵とリネを見分したかと思うと、すっと離れて膝を抱えた。お尻は浮いた状態で指先だけでバランスを取っている。そのまま何度も体を前後左右に揺らしていた。よく倒れないな、と少し平静を取り戻して見ていたら、ばたんっと横に倒れた。しかし三白眼気味の瞳はずっとこちらを見ていて、口はにんまりと笑っている。

 恐怖でしかない。

 葵は思わず背を預ける壁に手を置いて身を小さくした。


「おい! そこの気持ち悪い人! そこの袋に入って丸まって見えなくなってください! 姉さまが怯えています!」

「ボク、トント」


 今度は男はあぐらをかいて手を床に滑らせながら前にぎゅーっと伸ばし上体を倒した。顔だけはしっかり葵たちを向いていた。


「あ、お、い、ちゃんと、だれ?」

「馴れ馴れしいです! 気持ち悪い! 軽々しく姉さまの名前を呼ばないでください!」

「ね、え、さ、ま、ちゃん」

「キイイイイイイ! 殺します! 殺します! 殺します!」


 リネは服の下に隠したナイフを振り上げて壁にがすがすと刺した。しかし刃は硬い音を立てて弾かれて、傷一つ付けられなかった。

 葵は背後の男の狂気っぷりにも恐れを成して、窓の付いた壁の方に移動した。

 引き続きリネは男を罵倒して壁を攻撃していた。男は葵の移動していく様子をしばらく目で追っていたが、すぐにリネの方に視線を移してリネを観察しだしたようだ。


「り、ね、くん」


 叫び声をよく聞いて、彼はリネの名前を入手したようだ。


「ボク、トント。こないだ捕まった」

「犯罪者ですか。ゴミかすですね。今すぐ舌噛んで死んでいいですよ」

「やめなさい、リネ」


 あまり刺激してほしくなくて葵は注意した。

 それを聞いてリネは何故か類を赤くして、勢いのある返事をしてから、何故か正座した。


「ネエサマちゃんは何が好き?」

「葵です」

「名前で呼ばせちゃ駄目です! でも姉さまと呼ぶのも気にくわないです。貴女様って呼んでください」

「やめなさい、リネ」


 トントは前にべっちゃり伸ばしていた手をぐいーっと左右に開いて、その後上体を起こした。姿勢だけならあぐらをかいているだけの人になった。髪の色が奇抜なところ以外は、普通の光景になった気がする。いや、よく見ると服装も蛍光色ばかりの派手な色合いで、腕や腹の部分が破られていて目立つ姿だ。しかし気味悪がるほどではない。葵の肩の力は少しばかり抜けた。


「ボクはねえ、好きな人のことで、泣いてる女のコが好き」

「よく分かりませんが、最低です」

「うん……」


 どちらの壁からも均等の間を保った位置にいた葵は、一歩リネの部屋の方に近付いた。頭おかしい度合いでいったらトントとかいう不思議生物の方がレベルが上のようだ。

 トントは首を左右に倒して、目線を天井の方に向けながら「ウンウン」と頷いている。


「男のコも好き」

「姉さまを好きになったり泣かせたりしたら承知しません。ついてはその奇妙な格好をやめて髪を真っ当な色に染め直してください。不快です」

「やめなさい、リネ…」

「ネエサマちゃんはかわいい、ね」

「殺します」

「リネくんもかわいい」

「殺します」

「アーヴィンちゃんもマリアンヌちゃんもユノーくんもジャックちゃんもかわいい」

「誰か知りませんが哀れです。殺してあげたい」

「怖…」


 小さな瞳は人の名前を重ねる度に上へ上へとずれていき、トントの目はほとんど白目をむいているようになっていった。

 いかにも楽しいことを考えていますというような満面の笑顔に、葵は恐怖を感じて、また一歩、リネの部屋の方へお尻を滑らせた。


「ここは、どこでしょう。すみません。マーク号が落ちたところは覚えているのですが…。姉さま、大丈夫でしたか。お怪我はありませんか」

「私は大丈夫。リーダを殴るまで死ねない」

「一体何が」

「ボクもよく分かんない」

「お前には聞いてない」


 トントは手で床を押して、あぐらの姿勢のままズッズッと葵の部屋に近づいてきた。


「警察関係の人たちみたい」

「! 特対ですか?!」

「ドーラ号の人たち科」

「なんです、そのふざけた名前は」

「そう言ってたよん。ボク、耳がいいーんだ」


 交差した足を両手で掴んで、上半身を大きく後ろに反らしたかと思うと、勢いを付けて前に戻ってきて顔全体を激しく壁に叩き付けた。潰れた顔が葵の恐怖を煽る。


「いちいちそういう動きをするのやめてくれない?!」

「姉さまがやめろと言っています! やめるべきです!」

「ボクが飛行機に乗って好きなコを追いかけてたら、ユノーくんがてくてくやってきて、ボクを空にぼーんってして、がちゃんって」


 顔を壁に押し付けたまま右に90度傾けた。首が長い。ズズズ…と顔と壁が擦れる音が葵の部屋まで聞こえてくる。少し遅れた動きをする鼻先がじんわり赤くなって痛々しい。


「あなたは何故捕まったの?」

「わざわざ犯罪を犯さなくても捕まえてもらえそうなお人柄ですが」

「やめなさい、リネ」


 リネは朗らかな笑顔で「はい」と答えた。

 やっぱりこいつもおかしい。


「さぎ」

「詐欺」

「ええ、そんな賢そうに見えません…」

「リーネ」


 同じことを思って思わず復唱してしまったが、口に出すべきじゃない。葵は自分にも言い聞かせるつもりでリネを軽く諫めた。叱られたはずの彼は嬉しそうだ。


「泣いてるコはかわいいよォ? 君もそう思うでしょ? ボクもそう思う。ボクたち、両想いだね」

「覚えてろよ。壁がなくなったらその気色悪いことしか言えない喉を取り除いてやるからな」

「やめなさい……」


 それからどれくらい時間が経ったか分からないが、ふっと部屋が暗くなって、辺りは真っ暗闇になってしまった。

 これは就寝時間の合図らしいとトントが二人に教えてくれて、葵は素直に寝袋にくるまった。リネは壁の向こうからその姿をじっと見ていた。トントも逆立ちしてその二人の様子をじっと見ていた。

 せめてこの二人の間に入れないでおいてほしかった。

 葵は出来るだけ寝袋の奥に入り込んで、顔を隠して眠った。


 ***


「よく眠れましたか」

「地獄のようでした」

「でしょうね」


 翌日、小ぶりな窓の外は透き通るような青い空で、日が昇りあの淀んだ天気の空も抜けたのだと分かった。

 パッケージに入った食事が運ばれてきた後、一人ずつ話を聞くと言われて、葵はユノーに連れ出された。リネが必死に止めていたが、葵にとってはこの人たちが救出の手がかりになるかもしれない。快く後に続いた。


 丸い壁一面に空が広がる大きな部屋の中央で待っていたのは、昨日葵を見下ろしていたアーヴィンだった。

 椅子があるのに机の上で山座りして、足の指先に置かれたタブレットのようなものを微動だにせず見つめていた。葵が彼の前にある椅子に誘導されて腰掛けると、彼は葵を再び見下ろしながら挨拶をしたのだった。


「ユノーに聞きましたけれど、アーヴィン、女性を男性二人と同じ場所に入れるなんて、とってもお可哀想ですわ。囚人の人権について異見を唱えます」

「囚人…」


 自分の立場を自覚して葵は少し姿勢を正した。


「しかも片方がアレだろ? かわいそーに。オレも良くないと思うよ、そーゆーの」


 昨日はちらりとしか見かけなかった細身の男が物陰からこちらを見ていた。

 怯えるように遠目で葵を見て、目が合うと悲鳴を上げて死角に引っ込んでしまう。ジャックというらしい。


「部屋は四つありますから、常識的に考えて彼女だけ部屋を一つ離して入れると思っていました。今の発言はユノーに常識がないという意図を持ったものではありません」

「わ、悪かった。反省する…」

「ええ、アーヴィン、もちろんそうでしょう。誰がユノーを非常識と罵るでしょう。欠けているのは配慮であって、ユノーは人間にとって必要不可欠なありとあらゆる全てを兼ね備えた素晴らしい人格者です」


 背後に立つユノーの空気がどんより重くなるのが葵にも刺すように伝わってきた。

 フォローしてあげたいが、少し遠くから聞こえる女性の声に、まったくその通りと思ってしまう自分がいる。


「あなたはドーラ号に乗っていましたね?」

「はい…」

「いくつか聞きたいことがあります。正直に答えるように。でなければ恐ろしい目に遭います」


 葵はごくりと息を呑んだ。

 膝の上に重ねた手に力がこもる。

 必ず帰してもらうのだ。とうとうこの空から降りる日が来るのだ。

 そしてもう二度と、飛ぶことはない。


 ***


 狭い牢の中で、リネは姉を想って沈んでいた。一つ空けて隣の部屋にいる男が透明な壁に顔を押し付けてこちらを見ている。なるべく離れた場所で背を向けて膝を抱え、姉さま、姉さま、と呟いていた。


「ネエサマちゃん、無事に帰ってくると良いねぇ」

「怪我でもしていたら皆殺します」

「きけん、きけん。あいつら危ない人たちなんだ」

「警察関係者なら乱暴なことはしません…。しないはず」

「そんなことないよ。ほら」


 男は服をべろんと上げて胸を露わにし、ぐいっと壁に押し付けてきた。

 そこにはいくつも丸い黒い痕がある。リネはよく見たことがあった。煙草の火だ。押し付けるとあんな傷が残るのだ。毎日、鏡を見る度にあの頃を思い起こさせる、忌まわしい痕だ。


「過去の悪行を全部言えって言われてさ、ボク、悪行なんてしたことないからそう言ったら、ふふふ」

「姉さま…っ」


 頭の中に湧いてくる様々な映像に心を煽られて、リネは暴れた。

 扉を怖そうと努力したがまったくびくともせず、壁も窓もヒビすら入らない。唯一壊すことが出来たのは洗面台だけだ。蛇口を吹っ飛ばしたが水が飛んでくることはなく、ぼたぼたと一定の間隔で落ちてくる水滴が床を濡らしただけだった。

 リネは大声を出して暴れたが、誰も反応はしなかった。

 姉を案じて飽きることなく破壊活動を試みるリネを、男は瞳孔をぎんぎんに開いて見ていた。

 

 ***


 ドーラ号の外観や内観、いた人々の数など、暖味な記憶の中で葵は一つ一つ絞り出していた。

 少し離れた場所にいる女性―――マリアンヌが葵の声を聞いてキーボードを打つ音が聞こえる。目の前の少年は抱えた膝に顎を乗せて、体を支えるお尻を軸に前後に揺れながら、それでも紫の視線は決して葵から離すことなく聞いていた。


「あなたはドーラ号の人たちが行動する際に、一切関わっていませんでしたか?」

「……一切というと、間違いだけど」

「この人の発言は偽りの可能性もあります。マリアンヌ、それを大文字で記載しておくように」


 机の上に座る彼の両脇に手を置いて、葵は勢いよく立ち上がった。

 懸命に答えを出して助けを求めている相手に対して失礼だ。

 しかしすぐに後ろから大きな手が伸びてきて、葵の肩を驚掴み、激しく後ろに倒した。落ちてきた葵の体重を受け止めた椅子が悲痛な音を叫びながら少し歪み、からからと情けない音を立てた。


「わ、私は攫われたんです。あそこで無事であるために、必死だったんです」

「あなたはドーラ号の人たちが移動で使用する為と思われる乗物を使用していました。信憑性にたりません」

「空を飛んでるのよ! あれを使って逃げようとしたら、また捕まってしまって、戻されるところだったの」

「では、ドーラ号の人たちを取りまとめるリーダーの人相は言えますか? それからそれを補佐する人」

「それは、えっと…」


 人でなしのリーダの顔を思い出して、葵は言葉を絞りだそうとしたが、何故か出てこなかった。

 あんな人たちなど覚えている限り端から端まで似顔絵を描いてやればいいのだ。

 しかし話そうとすると、かにゃんやマーロや、色々な人の顔が浮かんで消えて、どうしてか言い淀んでしまった。


「やはり、彼らの仲間ですね」

「ち、違います!」

「言わない方が身のためですよ」

「はっ?」


 アーヴィンは手元…足下に置いていた白いマグカップを手に取ると、腕を伸ばしてどこかに差し出した。

 後ろからダッシュでジャックが近付いてきて、それを受け取ると、そそくさとその場を離れた。


「ドーラ号が捕まると困ります」

「えっ」

「えっ?」


 葵の声と重なるようにしてユノーの低い声が跳ねた。

 ちらりと後ろを見てみると、ユノーの黒い瞳と一瞬だけ目が合った。


「仕事がなくなります。特殊犯罪組織と言いますが、数は少ないです。ドーラ号について解決したら我々はお役御免がかもしれません。いえ、確実に無職です。私は帰る家がありませんしマリアンヌは絶縁されていますしジャックはブタ箱行きです。安寧を約束されいるのはユノーだけです」

「俺、ブタ箱なの?! これで恩赦がもらえるって聞いてるんだけど?!」


 どこかに引っ込んでいったと思われたジャックが廊下の端から顔を出して絶叫した。


「ジャック程度の働きで恩赦とは鳥許がましい。わたくし、無職は困りますわ。わたくしの貯金はゼロです」


 マリアンヌは美しい巻き毛を重たげに後ろに流しながら、つかつかと輪の中に入ってきた。


「私たちを職務怠慢と罵りますか」

「そりゃもう」

「おい、俺もそう叫びたいぞ」

「この件について口を噤むと固い契約を交わすなら日本に帰します。少しでも話してしまいそうであればドーラ号に帰します」

「この子は鬼ですか?」

「すまない、すまない。なんか敢えてドーラ号から離れているなーと思うことはあったが俺はこいつらより頭が足りないから、何か考えがあるのだろうと。それがこんなことを。すまない」


 ユノーは頭を抱えて謝罪した。葵は彼を哀れに思った。今、自分より哀れな人間が存在している。可哀相に。

 目の前で足の指先を弄んでいた手がばんばんと机を叩くと、また後ろからジャックが現れて、マグカップをアーヴィンの手に返した。

 彼はそれを少し飲んで、眉をぎゅっと寄せてそれは渋い顔をした。ジャックの短い小さな悲鳴がマリアンヌの背中の方から響く。


「空の中で、気ままに浮いているだけで、給料が入ってくる。いい仕事だと思いませんか」

「思いますわ、アーヴィン」

「楽に効率よく必要経費を稼ぎ好きに生きる。これが賢い人生というものです」

「おい」


 とうとうユノーが葵より前に出てきて、アーヴィンに顔を寄せた。

 カップの中身を睨み付けていたアーヴィンも顔を上げてユノーを見上げた。二人はしばらく睨み合っていたが、やがてユノーが溜息を吐いて目を伏せた。


「分かった、分かりました。決して言わない。約束します。だから私を日本に帰して」


 葵はこの人たちが警察として真っ当な心を持った人間ではないと理解したが、それでも自分を帰国させるだけの力を持っていると分かった。それで充分だった。彼らの秘密を守るだけで日本に帰れるなら、安い車賃だ。


「本当ですね?」

「すまない、すまない。本当にすまない」


 ユノーは床に沈んでいきそうなほど消沈している様子だった。

 今、この場に誰もいなかったら泣き出していそうだ。


「その誓いを近くで拝見させて頂きます」

「は?」

「しばらく、私たちの仕事を手伝ってください。その間の言動を見て、あなたの信用度を測ります。ついでに我々の仕事も分散される。素晴らしいことです」

「話が違います! 言わないって約束したら帰すって」

「あなたの言葉一つで、我々の人生が左右されるのです。その状況で、あなたは初対面の人間の"約束"を信用するのですか? 浅慮です」

「こ、こ、この、不真面目なぐうたら坊主!」

「あ、それは私のことですか? 信用度が落ちました。あなたの刑期を延長します」

「こんな意識の低い警察官は初めてです! どういう教育をしているんですか!」

「すまない、すまない」

「刑期が延びました」


 アーヴィンはようやく満足そうな顔で飲み物を含み始めた。

 ユノーは顔を伏せて謝罪するばがりで、マリアンヌは葵の加入を喜んで「マルウェアの知識はどの程度お持ち?」と聞いてくる。女の背に隠れてジャックは怯えている。

 自分のいる空の高さに、葵はくらりと眩暈を覚えた。

今回出てきた人たちについてあらすじと登場人物を更新しました。分からなくなったら見てね。

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