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黒い鉄塊3

 日もとっぷり暮れて、黒い街並みの窓から漏れる明かりも遠くなって、辺りがすっかり暗間に包まれた頃に、二人はようやくマーク号を置いていった場所に辿り着いた。そこには既に梁とかにゃんと、いつの間に追い越されたのか、リネもいた。葵がエルロイと繋いでいるのとは逆の手を振り上げて駆け寄ろうとすると、それより早くかにゃんがマーク号を一台抱えて走り寄ってきた。


「無事で良かったわ! 帰りましょう! さあ、これ、二人で使って!」


 返事も聞かずにかにゃんはぐいぐいと葵の手にマーク号を押しつけた。

 彼女の後ろの方で梁とリネが何かまごついているのが見えたが、かにゃんは体をずらしてその光景を遮った。


「姉さまは俺と一緒のマーク号で帰るんです! 待っててください、姉さま。今、梁を殺しますから」

「かにゃん! かにゃ―――ん! 俺殺されちゃう! 殺されちゃう俺!」

「気にしないで、葵。さっ、これで帰って」


 彼らのやり取りは不自然で、エルロイもそう感じているのか、身をよじってかにゃんの向こう側をじっと見ていた。

 でもその体勢をふっと戻して、かにゃんからマーク号を受け取って、葵から手を離した。


「葵、リネを見てきたら? 面白い物を持っている」

「エルロイ!」

「面白い物?」


 そういえばリネは何か布のようなものを掲げてこちらにアピールしている。

 風に握られてよく見えないが、あまり形の整っていない、小さな布だ。


「行かなくて良いわよ、葵!」

「あああ! ごめん! 俺には止められない」


 膝裏を蹴られて梁はバタンと地面に伏した。

 リネは布を振り回しながら走り寄ってきて、それをべらんと広げて見せた。

 それは肌色で、端々が手で破かれたようにびりびりで、楕円が二つ、風に揺れて倒れ込む突起、薄い…唇に上下を囲われた穴が中央に飾られていた。

 裏からぼたぼたと小さな血塊が落ちて地面を汚した。

 よくよくみると左右に耳のような形をしたものが付いている。いや耳そのものだ。

 鼻と思われる突起の下にはうっすら髭が残っている。

 楕円は泣きそうな形で垂れていて、唇も苦しみを訴えるように歪んでいる。


 人の、顔の皮だ。


 葵はしばらく大きな瞳でそれを見た後、胸にファイルを抱いたまま後ろにべしゃっと倒れた。


「うわあ一! 姉さま?! どうしました?!」

「どうしましたじゃないわよ! そんなの見せたら当然だって言ったでしょ!! 捨ててきなさい!」

「この男はエルロイに乱暴を働いたばかりでなく、姉さまを不快にさせたのです! 姉さまだって蹴りたいって言っていました!」

「そうね! エルロイに乱暴! 許せないわ! 皮を剥ぐなら私だってしたかったわ! でもね! それを持ってくることはないのよね?!」

「持ってこなければこの成果を姉さまに見せられないじゃないですか! それに喜びを分かち合えます!!」

「うええええん。エルロイ、エルロイ、俺ってば見てよ。リネを抑えてる時に顔の裏っかわがべちゃって! べちゃって当たって! うええええん。ぬめぬめするよお。気持ち悪いよお。エルロイ~~~」

「梁、うるさい。汚い。近付かないで」


 泣きわめく梁に無理矢理皮を渡して、硬い荒野に穴を開けて埋めるようかにゃんは指示を出した。

 そうして常備していた水をタオルに浸して葵の顔を冷やすなどして、回復を待った。

 目覚めた葵は皮を埋めた場所に石を積み立てて手を合わせた。


「死んだみたい」

「殺してはいません………」

「ショックで死ぬ人もいるって言うけど」

「黙ってください、かにゃん!」

「あの国のあの施設ならすぐに治療される。エルロイは残念」


 後ろのやり取りを遠い気持ちで聞きながら、葵は暗い荒野の中で立ち上がった。


(リネの前で下手なことを言った私のせいだ…)


 エルロイの言葉に思わずほっとした自分を責めたい。痛かったし苦しかっただろう。回復するから良しというものではない。

 あの建物にいる数多くの被献体に、彼はもっと酷いことをしているのかもしれないが、その事実は葵の心を軽くはしなかった。


「……あの施設、本当に酷いところみたい。一組で行方不明になっている子のファイルをちょっと読んだんだけど、気持ち悪くなっちゃったわ」


 かにゃんは自分が持っていたファイルの一つを広げた。

 黒い付箋は行方不明――おそらく、脱走した被献体だ。

 写真を見てみると、一見すると白にも見える水色のような薄緑のような不思議な淡い色の重たい髪が顔を半分ほど隠していて、その隙間から紫色の瞳がぎらりと覗いていた。ツンと上を向いた鼻がいかにも生意気そう。頬はふっくらとして柔らかい輪郭だ。白い肌は色がなく、人形のようだ。エルロイとは違って小さな口もきちんとある。そこだけ色付いた厚い唇はきつく閉じられていて、もう子供心を忘れてしまったことを強調するようだ。


「一組は脳の研究体。死亡者が多い。わざと損傷させたものの治療できずに経過観察として放置される献体もいる」

「ひどい……」

「あと50人くらい剥いでくるべきでしたでしょうか」


 心の内では皆同意したい気持ちだっただろう。葵の手前、リネの言葉は黙ってやり過ごしたが、葵とて穏やかな心持ちではなかった。


「もう30回くらい頭を開いて、他の人の脳みそを継ぎ接ぎしたんですって。他の子は失敗が続いたけど、この子だけは成功している、24時間監視する…、と言うことが書いてあるわ」

「よく逃げ出せたわね」

「この国の創設者の脳を実際に入れてみたとある。研究者より賢くなったのかも。エルロイの周りも、治験以外は安静を命じられて本ばかり読んで研究者を言い負かして嫌われてわざと破壊される被献体がいた」

「エルロイ、その性格とそのロでよく生き残ってこれたわね。私は嬉しいわ」


 かにゃんは心からの言葉を贈ったつもりだったが、彼女の腕に抱かれるエルロイの瞳は僅かに顰められていた。


「イルイン…くん」

「可愛いわ。無事育ったら色っぽい子になるわ」

「そうね」


 彼の健やかな成長を祈り、五人はやっと空に戻ることに決まった。

 ファイルが万がーにも飛び散らないよう梁の袋に入れてきっちり口を閉じ、葵は仕方なくリネと同じマーク号に乗り込んだ。

 雲の厚い夜だ。

 星どころか、月の光も見つけられない。

 いつもなら避ける雲も途切れが見つからない。霧が重なり重なり目の前を阻んでようやく雲の埋もれを抜けようというところで、

 先頭を走っていた梁のマーク号が何かに弾かれたように唐突に横に流れていった。

 

『梁?!』


 エルロイと同じマーク号に乗っているかにゃんの声が、リネの腕に付いた連絡機から聞こえた。

 暗い空は雲を抜けてようやく星の明かりがいくつか空を彩り始めたが、それでも視界はひどく悪かった。


『だいじょーぶ! なんかにぶつかった。リネ、かにゃん、進路を変更して』


 朗らかで軽い調子の声がかにゃんに応えた。

 リネはマーク号を滑らせて梁から離れた。後ろのかにゃんは逆の方へ逸れていくようだ。ここで同じ方向に行ってどちらも"何か"にぶつかるのを避ける為だ。


「タールマギ」

『この辺りの飛行情報はない。登録された機体じゃない。とにかく避けてすぐに戻ってくれ。接触はバレているだろう。ドーラ号も離したい』


 リネがただ名前を呼んだだけなのに、タールマギはすぐに返事をした。彼の声の後ろで数名が騒々しく何かを言い合っているような声が聞こえる。

 リネは全く落ち着いているが、非常事態であることを感じて葵は身を疎めた。


「大丈夫ですよ、姉さま。きっとろくに飛行手続きも踏まずに飛び出したプライベートジェットに違いありません。他国の領空を侵犯しても気にしないような屑が乗っているんです。追いかけられやしません」


 緊張が伝わったのか、リネがいつもよりいくらか落ち着いた声で言い聞かせるようにそう言った。

 他の二つのマーク号は闇の彼方に消えてしまったが、リネは度々連絡機を覗いて方向を確認していた。空の海の中で自分たち以外は何もいないように思えた。


 しかし、気が付くとすぐ眼下に大きな影が迫っていた。それは魚影が水面を揺らすようにゆらりと浮き上がってきて、下から激しくマーク号を突き上げた。バランスを崩した葵をリネが抱きかかえて、制御を失ったマーク号は上下逆さまになって落下した。しかしすぐに魚の背中に叩き付けられて停止した。葵を庇ってもろに背中を打ったリネは意識を失って、風に乗せられ緩やかに坂道を描く背中の上を、マーク号と共に滑っていこうとした。葵は慌てて手近にあった突起に手を伸ばした。地面から突き出たそれは人の背丈ほどの高さがある棒で、頂点に丸い飾りが付いていた。片手でその棒に全身を預けて、片手でリネと、彼と命網で繋がるマーク号を留めるのはきつかったが、離してしまっては自分のせいで命が失われることがよくよく理解できて、恐ろしさのあまり馬鹿力を発揮していた。


『リネ! 大丈夫か? 報告を』


 リネの手元から声がした。凛としてはっきり通る声だ。


「リーダ、何かにぶつかって、リネが気絶しちゃった」

『葵、無事なんだな。今どういう状況だ』

「飛行機か何かの上に乗ったみたい」

『リーダ』

『分かってる。だが……………、…仕方ないな…』


 タールマギの声が少し遠くから聞こえてきた。

 少し言い合うような声の後、逡巡したような迷いの残る指示が降りてきた。


『葵、マーク号に繋がっている命網を外して、リネと自分の体を繋ぐんだ。その後、リネの腕に付いている連絡機を外してくれ』


 どういう理由かは考えずに、葵は言われた通りにした。

 こんな状況は生まれてこの方初めてなのだ。自分の思考を優先している暇はない。


『ごめんなさいね、葵! 暗くてあんたたちがどこにいるか分からないのよ。ごめんなさい、ごめんなさいね』


 助けに行けないことをかにゃんが繰り返し詫びていたが、葵は応える余裕はなかった。なんとか命網をお互いの腰に括り付けて、マーク号を自由にした後、リネの腕から連絡機を外して、その事をリーダに報告した。


『遠隔でマーク号を近付ける。連絡機を手摺りに巻き付けてくれ』

「出来ました」

『葵、健闘を祈る。リネがいれば大丈夫だ。必ず助けにいく』


 不穏な言葉を残して、マーク号はボオッと真上に飛んでいった。

 葵は繰り返しリーダの最後の言葉を反芻して、切り捨てられたと分かった。


「あ、あ、あ、あいつ!!」


 真夜中の空中で憎たらしい男の命を支えてやりながら葵は怒った。

 殴りたい相手が増えた。

 彼にはいつかシャンパングラスを投げつけたことがあったが、どうしてあの程度で許したんだろう。

 次に会ったら階段の上からジャンプしてその白い顔に青痣を付けてやる。


「何者だ?」


 真っ暗な中に目を痛めるほどの明かりが差した。

 人工的な光は背後からゆっくりと近付いてきて、棒に体を絡める葵をぐいっと持ち上げると、リネごとずりずりと引きずって、大きな穴の中にぽいっと投げ込んでしまった。

 人生を狂わせた最悪な男とは言え、今、頼れるのは寝こける自称弟ばかり。

 魚の腹の中で見つけた紫の瞳と見つめ合いながら、葵はリネの目覚めを祈った。

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