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黒い鉄塊2

 健康な長生き、不老不死は全人類の夢だ。

 果たし得ない夢だ。

 しかしそれを(オレ)は果たしてみせるぞ。

 倫理やら感情論を持ち出す人間は邪魔だ。同じ志を持ち、人類の限界に真摯に挑む仲間とだけで極めたい。

 内臓が傷付いたり老いたりしまったのであれば、その内臓を治すよりも、新しい内臓を入れた方が良い。

 しかし、健康な人間から健康な内臓を取り出すのは本末転倒だ。

 内臓と同じ働きをする機械を入れればいい。血管も神経も代替品を作ればいい。

 医者だけでなく、機械に詳しい技術者も加えて開発したものだから間違いはないだろうが、いきなり人体に入れるのは不安がある。

 被検体が必要だ。

 あらゆるパターンを複数回試験する必要がある。

 現時点ではこの新進気鋭の内臓を必要とする者は居ないが、試験はしておいて無駄にはならないだろう。 

 子供がいい。

 交換する内臓以外の全てが健康なのは実に望ましい。それに、この国に子供は必要ない。学がない者はこの国にはいられない。

 欲の発散と悦楽の結果で子供が産まれたら寄贈してもらおう。育てるのも学問や研究の妨げになるだろうし、喜ばれるに違いない。

 不老不死という限界を超える夢を信じ、それに人生を賭けてきた者だけがこの永遠を満喫できるのだ。

 この国に住む人々の為に、同志の為に、力を尽くすのだ。


 ***


 あちこちの壁に貼られている施設の歴史のような張り紙を読んでいって、まとめると上記のようなことだった。

 小難しい言葉で長々と書かれていて、葵は度々エルロイに意味を問いながら呑み込んでいった。


「ちょっと言っている意味が分からない」

「こんなに簡潔に説明してあげているのに」

「脳が意味を理解するのを拒んでいる感じ」

「なるほど。分かったけど分からないふりをしているということ」


 真っ黒な頭を縦に揺らしてエルロイは納得したことを示した。


「子供を実験に使っているってことなの?」

「そう」

「も、も、もしかして、エルロイもなの?」

「そう」

「はああ―――! 許せない! 殴りましょう」

「うるさい」


 コーラにあって以来、葵は暴力に対してハードルが下がった。エルロイはそれをよくよく認知した。今目の前にこの施設の管理者が現れたら本当に殴りそうだ。騒ぎになるから止めてほしい。


「産まれた時からここでそのために過ごしてきたから疑問に思ったことはない」

「で、でも、その…、辛いこととかあったでしょう」

「その時はなかった。研究者たちのための図書室への出入りは許されていて、そこの蔵書を読み尽くしてつまらなくなって逃げ出した。実験自体が不満だったわけではない」


 葵はエルロイを傷付けないように言葉を探した。エルロイがそう言うなら信じて深入りすべきではないという考えと、本当は辛い過去を聞いてほしくてここまで連れてきてわざわざ解説しているんじゃないかという考えがぐるぐる回って葵の頭をかき混ぜていた。

 エルロイはそんな葵をどちらとも取れない瞳で見上げているばかりだった。

 しばらく壁に額を押し当てて脳内を整理していた葵だったが、気を取り直して今やるべきことをやろうと決めた。エルロイが再びここに戻ることのないように、逃げ出した子が捕まらないように、その情報を抹消してあげるべきだ。


「その考え方は実にドーラ号の皆と一致している。聞いたらリーダが喜ぶ」

「エルロイは読心術をお持ちで」

「葵は素直で分かりやすい」

「正直に申し上げるとエルロイにどう言葉を掛けていいか分かりません」

「素直」

「思い付くまで待ってたら数年経ちそうなのでとりあえず先に進みましょう」

「懸命。こっち」


 先のことを思い出して葵は繋ごうとした手を引っ込めた。

 エルロイは葵の一歩前をいつもより少しゆっくりとした足取りで歩き始めた。

 どこまでも永遠に続いていそうな長い廊下だ。たまに角から人が出てきたが、特に二人を気に留める様子はなかった。背の高い大人は皆白衣を着ていて、小さな人は黒い装束を着ていた。エルロイのように顔と体全体を隠す重たげなローブだ。大抵白衣の大人と行動を共にしていた。どの人もすれ違っても挨拶も会釈も交わさないし、複数で歩いていても会話もないようで、建物内はとっても静かだった。


「それで、どこに向かっているの?」

「この黒い八つの建物は被献体と研究者が居住している寮。この地下に被献体一人一人の情報が補完されているから、それを盗る」

「なるほど」


 案内されて階段を降りていくと、その先は一階とはまるで違う景色だった。

 一面仕切りのない果てがないほど広い部屋で、照明は暗く落とされて足下にぽつぽつと付いた頼りない明かりだけが道しるべだった。

 その部屋に所狭しとキャビネットが並んでいる。


「ここの研究者はアナログなの。情報は基本紙で保存している。火事になったら、被献体が過ごしている上階は燃えてもこの地下は耐火装置を満遍なく配備してあるから燃えない」

「ゴミクズだね」

「火の気に気を付けて。アラームが鳴ったら全てのキャビネットにシャッターが降りて管制室に行かないと解除できない」

「分かったわ」


 葵は広い部屋に足を進めた。

 外で見た通り、建物自体は大きく八つに分かれているが、地下はそれらの建物を全て繋いでいるらしい。

 どの建物の階段を降りても、この一つの大きな地下室に辿り着くようだ。

 キャビネットは丁寧にファイルに挟まれた紙が並べられていた。そのファイルに色の付いた付策が付いており、それぞれの被献体の()()を現しているらしいが、エルロイによると、黒い付鐘が付いているのが行方不明者―――逃走者だそうだ。そのファイルをごっそり抜いてしまえばいいらしい。


「どの被献体の情報が消えたというのは分かるけれど、子細は消えるし外見情報も消える。十分と思う」

「電子データとして残っていないの?」

「ない。優秀な人間はアナログである。この国の創設者の一人の言葉を忠実に守っている」

「はあ、真撃なのね」

「先達の言葉に寄りかかって思考と安全性を放棄している。助かる」


 葵はエルロイとあまり離れないようにしつつも、手分けして付箋を一つ一つ見ていった。

 エルロイは被献体の中では『八組』に所属していたそうで、その組のキャビネットを見ていき、やがて、長い長いキャビネットに果てが来た時に―――、影から現れた手に頭を掴まれて組み伏された。


「きゃあ!」

「えっ」

「葵!」


 隣の列を見ていたエルロイが駆け寄ってきた。

 背中に乗りかかった人物は葵の悲鳴を聞いて慌てて退いたようだ。軽くなった体を持ち上げて、葵はエルロイの方へ四つん這いのまま滑り込んだ。


「姉さま?!」

「うわあ」

「何ですか、そのひっくい声は! 初めて聞きました! 録音していいですか! 何でここに居るんですか! エルロイ!」

「うるさい」

「何よ、リネ! 静かにしなさい!! あら?」


 リネの後ろからかにゃんも出てきた。ちょっと離れたところに梁も居るらしい。

 エルロイとほぼ同じ目的を持って来ているのだ。鉢合わせも考えられたであろうことを、この場になって葵は思い付き、僅かばかりエルロイを恨んだ。


「エルロイのも盗った方が良かったなら、そう言えば良かったじゃない。危ないことしないの」

「本当です! 姉さままで巻き込んで。許されません」

「葵じゃ~ん。なになに、俺を追いかけてきちゃったの? ん~、可愛い!」

「梁を殺すまでごこを絶対に動かないでください」

「冗談じゃん! 冗談じゃん!」


 三人は既に依頼人の拾い子のファイルは発見したようだ。目立たないよう端の階段から戻ろうとして人の気配。思わず意識を奪おうと取りかかってきたらしい。エルロイのファイルを探すのに協力を申し出てくれた。


「……あのー、エルロイ。他にも逃げた子っているの?」

「本当に少ないけど、いると聞いたことがある」

「どうせなら、黒い付箋が付いているファイルは全部もらっていってしまったらどうかな」


 葵の提案に、梁は不満を呈した。探し直し。二度手間。滞在時間の長さは危険度の上昇に比例する。

 かにゃんも乗り気ではなさそうだったが、一先ずそういう理由を聞いてくれた。


「その、他の逃げた子がまた捕まったりしたら可哀相というのが一番なのだけど、消えたファイルが一人分、ニ人分だと、その子の関係者が取りに来たってバレてしまうでしょ。それだったら黒い付箋のファイルを軒並み取ってしまった方が、目的が絞られないし、そのー、いいかなあと…」

「姉さまはお優しいです! 素晴らしい案だと思います!」

「えー、めんどい」

「黙れ梁。船に帰ったら殺してやるからな」

「やめなさいよ、リネ。そういうことなら、私も良いと思うわ。確かにこの子の分だけ取っていったら、顔を覚えていた研究員とかがどうにかして探し出してしまうかもしれない。逃亡者のリストを全部持って行ったって思われた方がその後の安全に繋がるかもしれないわ」

「エルロイも賛成する。それなら黒以外も盗った方が良い。無作為に盗んでいけば、逃亡者の手引き以外にも選択肢を持つ可能性がある」


 梁はぶちぶち言いながらも、一番遠くのキャビネットまで黒い付箋を探しにぴゃっと飛んでいった。

 少し遅れてかにゃんも半笑いで続いていった。二人以上一組が基本行動だ。

 リネは葵から離れる気はないらしい。白衣を握ったままふてくされている。


「部屋から出ないでと言ったのに、エルロイに唆されたんですね」

「逃げようとして捕まったの」

「はあああ???!! あ、あ、あ、あ、あ、ありえません! エルロイにそう言えって脅されているんですね!!」

「うるさい」

「リネ、発信器付けたでしょう」


 握る手に力を込めてリネは押し黙った。気まずそうに目を下に逸らして、小さく「付けてません」と答えた。


「嘘吐き」

「違います、違います。姉さまに嘘は吐きません。それはその―――、弾みで付いただけです」

「嘘吐き」

「エルロイまでなんです! もういいです! 姉さまがせっかくいい案を出してくださったのですから、それを遂行しましょう。そしてすぐに船に戻りましょう」


 服を引っ張り上げられながら、葵はリネと共に立ち上がった。エルロイもすっと立って作業に戻っていった。

 黒い付箋の付いたファイルはそれほど数はなかったが、適当に違う色の付箋も盗って、八冊ほどになったところで撤退となった。


「黄色い付箋はどういう意味なの?」

「治療中。試験不可」

「この子かわいい子だ! 美人に育つぞ! 赤色だ」

「死亡」

「俺は……、俺は無力だ……………」


 赤い付箋の付いたファイルを抱きしめてさめざめと泣く梁を、かにゃんは優しく慰めた。

 撤退の際には、葵とエルロイは建物内を歩いていても不自然でない姿なので、来た通りに戻っていき、他の三人は別ルートで身を隠しながら戻ろうとエルロイが提案したが、リネが頑なに拒絶した。リネは上階に上がって適当な研究員に襲いかかり白衣を奪って帰ってきた。葵もエルロイも呆れていたが、かにゃんだけはリネに同情して言う通りにしてあげてと頭を下げたので、仕方なく同行を許すこととなった。


「ファイルの付箋の色を見られないように持って」

「気を付けるわ」

「姉さま、姉さま、僕が持ちます。お荷物に」

「リネ、上に行ったらあまり喋らない。言うこと聞けないならかにゃんたちの方に戻って」


 リネがきゅっと口を結んだのを見て、エルロイは二人の前を歩き始めた。

 来た時と同じ簡素な事務室のような場所に戻って、抜け出すだけだ。外は気候の悪さも相まって暗さを増している。来る道だって大して危険のない道だったのだから、帰る道はよりすんなりと通り抜けられる。

 ―――はずだったのだが。


「それは八組の被献体か?」

「ふえっ」


 行く先の扉がじっとり開いて、中から白衣とマスクを身につけた男が出てきた。

 黒い短い髪をぎっちり後ろに固めていて、瞳は大きく黒く、マスクのせいなのか、感情のない人物に見えた。


「そうです」


 思わず一歩退いて答えに詰まる葵の横で、リネがはっきりと答えた。

 いつの間にか白衣の袖から手も離れているし、距離も少し離れていたようだ。

 迷いなく前を見ているリネを見て、自分は黙っている方が得策だと思い、葵は退いた足を戻して前に立つ小さなエルロイの頭頂部を見ながら静止した。


「ちょうどいい。試したいことがあるんだ。貸してくれ」


 男は答えを待たずに出てきた部屋に再び引っ込んでいった。

 こういう時こそエルロイの知恵を借りたいが、エルロイが一言も話そうとはしなかった。ただ葵の手元をちらりと見て、下の方で小さく手をこまねいて男の後に続いていった。その手を見たリネは葵の耳元に口を寄せて、「行きましょう。姉さまはエルロイか僕か、どちらからか離れないようにしてください」と言ってさくさく続いて行った。

 葵はエルロイの目線を追って自分の手元を確認し、念のため黒い付箋の付いているファイルから付箋を外して紙の隙間に隠してから、部屋に入り扉を閉めた。


 部屋の中は手術室のような光景だった。

 しかし中央に置かれた手術台と明るすぎる照明の他にも、事務机があったりロッカーが備えられていたり書類が散乱していたり、衛生的な場所とは言えなさそうだった。ゴミ箱もある。

 エルロイは真っ直ぐ中央の手術台に向かうと、自らその上に乗り込んで横になった。

 男はヴェールを外して大きな鋏でローブの前をざ―――っと切って前を開くと靴を脱がして床に乱暴に投げ捨てた。

 その光景に葵は悲鳴を上げて止めたくなったが、ここではそれは極めて不自然な行動であるとも分かって動けずにいた。何より、開かれたローブの上に横たわるエルロイの体が異様すぎて釘付けになってしまった。


 鼻先に引っかかって顔を隠していたヴェールの下には口がなく、管が通っていた。歯があるべき場所にはラッパのように開いた管の先が待ち構えているだけだ。黒い棒がそのラッパを耳の下と繋いで固定していて、エルロイの顔は鼻から下はまるで人間とは言いがたかった。管はむき出しのまま首の方へ降りていき、足が別れる下の方まで続いていた。いつか見た骨格標本をそのまま黒くしたような体だった。黒い鉄骨がいくつも体を巡っていて、それは肉や肌に守られてはいなかった。鉄骨の隙間からはいくつかの小さな箱のようなものがパズルのように組み込まれて、それぞれ細い管のようなもので繋がれていた。色とりどりの管たちは川のように綺麗に並べられて鉄骨の中を幾重に重なり連なりながらも計算尽くされた配置をしているようだった。それらの中央で、透明なまあるいいかにも柔らかそうな液体ジェルのようなものの中で、唯一内臓らしく息づき赤く燃える物体がとくとくと小さく鼓動していた。


「なんだ、この献体は心臓以外使用済みか」


 エルロイの体を隅々まで無神経な視線で眺めていた男が不服そうにそう言ったのを聞いて、リネが思い付いたように葵の手の中からーつのファイルを抜き出した。黄色い付箋の付いた一際分厚いファイルだ。


「あー、すみません。治療中のようです。違う献体の方が」

「なんだ。開く前にちゃんと把握しておいてくれ。もうこれは戻していい」

「はい」


 持っていた鋏を投げるように隣のトレーにがちゃんと捨てて、葵とリネの狭い隙間をわざとぶつかるようにして男は出て行った。

 扉が閉まるのを確認してから、リネは小さく「失礼です」と言い投げて、固まる葵の肩をゴミでも付いているかのように何度か払った。

 葵はすぐに手術台に駆け寄って持っていたファイルをその辺にどさっと置いて、横たわるエルロイの肩に手を掛けて起きるのを手伝った。体中震えているのが分かったが、それをエルロイに伝わらないようにする方法がどうしても思い浮かばなかった。先ほどの梁の「無力だ」という泣き声がリフレクションするようだ。


「止められなくてごめんなさい」


 なるべく喉の震えが声に出ないように注意したつもりだったが、裏目に出たのかそれはあまりに小さく霞んでいた。床に放り出されていたヴェールを拾ってきたリネも眉を顰めている。


「止めたら疑われていた。リネは素晴らしい働き。黙っていた葵もついでに褒めてあげる」


 エルロイは小さな手で拍手した。黒い手袋のせいで弾くような音は出ず、ぱふぱふと音にならない音だった。

 いつもなら可愛さで癒やされているところなのだが、それは心を更にぎゅっと締め付けるようだった。この手袋の下がどうなっているのか、勝手に想像されてしまう。何なら泣かずにいられる方を褒めてほしいくらいだ。

 葵は手術台に腰掛けるエルロイの傍に膝を付き、ローブの前をしっかり交差させて、自分の白衣の下に来ていた黒いカーディガンを脱いで腰の辺りできゅっと結んだ。リネもエルロイの後ろからヴェールをかけて、元通り頭の後ろで固定した。


「ここは皆あんな感じなんですか? エルロイ。姉さまにまでぶつかって。礼儀を知りません」

「手術台をひっくり返さないだけマシ」

「私、あの人嫌いだわ………」


 俯いたままエルロイの膝に手を置く葵を見て、リネは狼狽した。泣きそうな姉の慰め方と言えば、お金を稼いでくるか犬の真似でもするのが一番なのだがどちらも姉さまは喜ばないとかにゃんが教えてくれた。それ以外はどうしたらいいかわからない。


「エルロイの体、気持ち悪かった?」

「そんなこと思ってないよ!」


 突如立ち上がった姉の勢いにリネはビクついて数歩下がった。


「き、気持ち悪いのはあの人の方よ。物のような言い方をして、服を切るなんて、信じられない。他に誰もいないんだから蹴っ飛ばしてやれば良かった」

「さすがに人が来そうだからやらなくて正解」

「何も出来なくてごめんなさい…」


 言葉の代わりにとうとう涙が出てきて、葵はエルロイの頭を抱いて顔を死角に隠した。

 またリネがずるいだなんだと騒ぎそうだと、エルロイは横を見てみたが、リネは中腰のまま手を宙に浮かせた不自然な状態で真面目な顔をして見ているだけだった。

 留まるだけ危険だと言い聞かせて三人はまた廊下を進み、白衣をロッカーに返して外に出た。無事に敷地から出て、念のため国から少し離れたらマーク号に乗って帰ろうと話している時に、リネが言った。


「ちょっと他の用事があるので、二人で先に国の外に出てください。すぐに追いつきます。エルロイ、姉さまから目を離さないように」


 葵は赤い目でエルロイの方を見てみると、ちらりと目が合った。

 すぐにエルロイが「単独行動禁止」と釘を刺したが、リネは何かと理由を付けて慌ただしく来た道を戻っていった。


「ん」


 彼の背中を見送っていると、下の方から黒い手が伸びてきた。

 来た時と同じように手を握り返して、二人は少し暗くなった道をまた荒野に向かって歩き出した。

 破られて少し落ちたローブの隙間から細くて黒い枝のような鉄骨が見えて、葵はそっとローブを上げて隠したが、あまり長くは保たなかった。


「気温は感じないから必要ない」

「そういう問題じゃ…」

「葵、カーディガンが必要なら返す」

「違う違う、うわー! 付けてていいよ!」


 腰からするりと取られたカーディガンを慌てて取り上げて、風で後ろに広がっていくローブを前に引っ張って元通り、いや元よりきつく結び直した。葵のあまりの慌てぶりが愉快だったのか、再び結び目を解こうとするので、葵はエルロイの両手を掴んで拘束した。

 そのまま立ち上がると勢いでエルロイがぶらんと宙に浮いたが、その体はとっても軽かった。


「エルロイの体は二目と見られるものじゃないものね」

「そうじゃなくて! こんなとこではだけたら他の人にも見られちゃうでしょう!」

「他の人が見たら気持ち悪くて吐いちゃうものね」

「違います!! そもそも誰だってここで裸になったら猥褻罪だしですしね、ですしね?!」


 細く吊り上がった目に負けないように、葵は声を上げて主張を続けた。

 街には人気もなく声もない。生活音や車の音も聞こえず、葉が風に擦れる音もしない。騒いでも衆目を集めることはなさそうだが、その分、自分たちは浮いて特殊であるように思えて、今まで声を潜めていたが、そんな気遣いは葵の中から消えてしまった。


「エルロイの体は普通の人とは違うようだから」


 されるがまま葵に腕を吊されて万歳している状態で、エルロイの瞳はいつも通り落ち着いた漆黒だった。


「通常とは異なる物を見て奇妙に感じるのは当然のこと。自分が普通で良かったね」

「わ、私は…」


 この言葉が皮肉に聞こえるのはそれこそ図星だからだ、と葵は思った。


「その、怖くなかったと言えば嘘になるけど、気持ち悪いだなんて絶対にないわ。その、えっとね、なんてひどい、可哀相って、思って、その…………、すみません…」


 本音かどうかはさておいて、当の本人が何でもない風をしているのに、可哀相だなんて失礼だ。

 でも葵は自分の気持ちを綺麗に飾って装うよりも、そのまま言葉にした方が、この聡い子供に対しては真撃な対応と言えるだろうと考えた。嘘を吐いてもバレてしまうし、余計不快に思うだろ。嫌われてしまうかもしれない。

 この状況になってもエルロイのことばかりではなく、自分がエルロイに嫌われることを恐れてしまうなんて、自分はなんてさもしい人間なんだと、俯いた顔を更に更に折り曲げて、葵は自己嫌悪に陥っていった。


「ふうん、怖かったんだ」

「ご、ごめんなさい」

「許してあげてもいいよ」

「ありがとうございます」

「よろしい」


 葵はようやく自分がエルロイをぶらぶらさせていることに気付いて、ゆっくり地面に降ろした。

 二人はようやく、再び手を繋いで歩き出した。


「八組は心臓と脳と眼球以外の内臓担当でよく体を開くから、見目を整える肌は付けられることはない」

「なんと………………」


 悲しい知識の増加に葵は再び目頭を押さえた。


「だから、八組は見苦しい見た目の被献体ばかり」

「エルロイは美人さんだよ!」


 葵はびっくりして、反射的にそう答えた。

 前々から清流のような重たげな黒髪と、それに反比例するような真っ白な肌と、鋭い瞳だけを見て、これは美人に育つと思っていたのだ。

 ヴェールの下があまりに美しくて見せられないに違いないだなんて馬鹿げたことも考えていた。人の造りとはほど遠く()()されたロ元を見た今となっても、元々は見目麗しかったはずだと信じている。


「かにゃんは?」

「へ?」

「かにゃんはかわいい?」

「うん、かわいい」


 ふわふわの栗毛と派手な化粧とちょっぴり露出の多い衣装を身に纏った健康的な女性を思い出して、葵は素直に答えた。


「コーラはかわいくない」

「二度と見たくないほど酷い顔だわ」


 思い出そうとした映像を払拭するために、葵は目の前を手で払った。

 忌まわしい記憶だ。


「葵は人と美醜の感覚が違うね」

「そうかな…」

「うん」


 エルロイは繋いだ手を前後にぶんぶんと振り回した。


「エルロイの体が見たくなったらいつでも見ていいよ。特別」


 隠された顔は表情がまるで窺えず、冗談なのか本音なのか、プラスの感情なのかマイナスな感情なのか、読み取れなかった。

 考えても分かることはないと察した葵は、もう諦めて言葉の通り受け止めることにした。


「やったあ。エルロイの特別。嬉しいなあ」

「素直。よろしい」


 今度は葵が繋いだ手をぶらぶら揺らして、二人は国を出て行った。

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