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ぱしん

 トラックに侵入してきた男たちの相手は、意外と簡単だった。

 葵目掛けて飛んできた男に対するリネはいつも通り元気いっぱいだった。


「誰に触ろうとしてるんですか! 許可取ってるんですか! ご本人のじゃないですよ、俺の! 俺の許可ですからね!!!」


 繋がる手錠を気にもせず腕を振り回して男を沈めたかと思うと、馬乗りになって殴り続けた。

 元気が過ぎる。

 それに言っていることは納得できない。お前の許可云々は私には関係ない。

 そう思い、呆れたが、葵はその姿に少なからずほっとした。さっきまで震えていたのは一時的なものだったんだと安心した、彼が左腕を振り上げて男を殴る度に手錠がじゃらじゃら揺れて腕を擦るが、そのことは許してやろうと思えた。

 しかし、トラックから降りて広い場所に移動するなり、その姿は鳴りを潜めてしまった。

 二人の男はリネが素手で伸してくれたが、もう一人、オレンジ色のサングラスをかけたチェバが残っていた。コーラの後ろに立って、困ったようにそわそわしていた。

 先ほどまで葵の手を引くほどやる気に満ちあふれていたリネはコーラの姿を見るなりその手を離して、また下を見つめたまま体を硬くしてしまった。小さな声で「外へ出よう」と軽く肩を押して促してみたが、リネは「駄目です、駄目です」と首を振って抵抗した。


「姉さんのご機嫌を損ねちゃう」

「背中を見せたらぶたれる」

「俺の味方のふりをするのはやめてください。姉さんの言う通りにしてください」


 そんなことをぶつぶつと繰り返して、とうとう屑に置かれていた葵の手も叩き落としてしまった。

 その様子を見て女王様が満足げに笑ったのを、葵は横目で見た。


「リネ、わたしのチェバたちを殴るなんて、なにを考えてるの? ここにきて謝りなさいよ」

「は、はい。すみません、すみません」


 女王様の声にリネは食い気味に反応して、歩を進めた。

 二人が近付くのに悪い気配を覚えた葵はその場から動かずに手錠の鎖をちょっと引いて、リネをあまり前に進ませないようにした。

 女王様がそれをちらりと見て咎めた気配があったが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。

 引かれた腕にリネはちょっと戸惑いながらも立ち止まり、その場に正座した。

 そして土下座というよりも、出来る限り小さく体を丸めるような姿勢で縮こまり、謝罪を繰り返した。おでこは地面よりも膝に付いていそうだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「そうよ! いい子ね。ちゃんと謝れるじゃない。よかった。わたしのいないうちに、悪い子になっちゃったかとおもったわ」


 これまでの人生で土下座をしている人なんて見たこともないし、それを当然のように上から見下ろしている人も見たことがない。

 いや、リネの土下座なら今まで何度か見たが、あれは本人が自分の願望を実現するために自発的にやっていたし、正直不快なコメディとしか見ていなかった。何ならこっちに罪悪感を植え付ける為の卑怯なパフォーマンスとさえ思っていた。

 でも、今のリネときたらまるっきり飼い主に叱られて怯える犬のようで、小さな子供のようだった。

 葵の目にそれは今までのことなんて全部忘れてしまえるくらい、同情を誘う姿に映った。


「リネ、そんなことしなくていい」


 気が付いたら思わず駆け寄って膝を床に付き、ナイフを二本床に置いて、その肩を引き上げていた。

 硬くて重かったが、抵抗はされていないようだった。リネの肩は少しだけ上がって、隣にしゃがむ葵と同じくらいの高さまでは持ち上げることが出来た。頭は相変わらずぶらんと下がって荒い呼吸を繰り返しながら地面を見つめていたが。


「ちょっと、アリス。余計なことしないで。しつけの途中よ」

「じょお…、うさぎさん、いえ、なに、なんだったか忘れたけど、炭酸飲料みたいな名前のお嬢さん、あなたが誰だろうと、誰もこんなことを誰かにさせる権利なんてないのよ。リネが彼らを殴ったのは正当防衛よ」


 ちょっとやり過ぎだけど、とは付け加えなかった。相手が女王様だったら、もっとやってもいいくらいだ。


「……アリス、あなたって生意気ね。ねえ、チェバ、そう思うわよね?」

「はい、そう思います」

「ねえ、リネ、あなたもそう思うわよね。わたしにひどいことを言うなんて、ひどい人ね、その方」

「は…………」


 床に付いた手を丸めようとしているのか、指先が強くコンクリートの床に押しつけられて、引っかかった爪がめりめりと剥がれようとしていた。赤くなる爪を見て、葵はリネの手を持ち上げて「やめなさい」と小さく言った。

 すると突然女王様が大股で距離を詰めてきて、リネの顔のすぐ目の前にその足を叩き付けた。


「ねえ! リネ! そう思うわよね!」

「はい! はい! 思います! 思います! すみません!」

「いだっ」


 高く鳴り響くヒールの音に負けないようにリネは声を張り上げて、頭を勢いよく床に叩き付けた。

 リネの手を取る為に頭の下に差し込まれていた葵の左手はその板挟みにあい潰された。リネはすぐに気付いて頭を上げて葵の手を持ち、青ざめた頭でその手をよくよく確認した。


「すみません! 大丈夫でしたか?! すみません!」

「リネの頭は大丈夫?」


 葵の方は鬱蒼と伸びたリネの前髪をもう片方の手で持ち上げて、赤くなっている額を確認した。

 手に押されてリネの頭が持ち上がる。乾いて開いた瞳と目が合った。葵を見て真っ白な顔は額と同じくらい赤く染まっていき、思い出したように何度もまばたきを始めた。じゃらんと揺れる鎖の先のその顔に、葵はちょっと一息ついた。


「ヘえ、リネ、恋人を見つけたの」


 近付いたはずの女王様はまた一歩下がり、地面に座り込む二人をにやついた瞳で見下ろし始めた。


「家畜のくせに、よく自分で見つけられたわねえ。どうやってたらしこんだの? 色仕掛けでもしたの?」

「ち、ちが…」

「アリス、あなたもかわいそうに。こいつがどれだけ他の人間の体を渡ってきたか知らないんでしょう。あなたにしたことはぜーんぶ、他のいろんなお客さんから仕込まれたことなのよ。しかもね! しかも、ふふふ、お相手は女より男の方がずうっと多かったのよ!」

「違います! 違います、違います! 聞かないで、聞かないでお願い!」


 隣のチェバの肩をぽふぽふ叩きながら愉快そうに笑う女王様とは対照的に、リネは泣きそうに顔を歪めて葵に覆い被さってきた。

 葵の頭を胸に抱き込んで自分の胸と手の平で葵の両耳を塞いだ。くぐもった声が遠くから聞こえてくるが、それよりも心臓の方が煩かった。すぐにでも口から飛び出してきそうな激しさとスピードだ。葵の右耳をげしげしと叩いてくる。女王様が絶えず何事か喋っているようだったが、心臓の絶叫のせいで何一つ聞こえなかった。


「ねえ、リネ。あなたの汚い過去をなあんにも彼女に話してないの? それで付き合ってもらおうだなんて、むしのいい話だと思わない? 

 あなたってあいかわらず卑怯者なのねえ。

 彼女は今ぜえんぶ知っちゃったから、あんたのことなんてもうだいっきらいよ。

 薄汚いゴミクズだと思ってるわ。

 事実だからしょうがないわね。

 彼女が離れていっても、それはあんたが自分のごとを隠していたからよ。悪いのはリネなの。分かるでしょ? 本当のお前を知ったら、誰だってみんな離れていくのよ」


 耳を塞ぎ体を押さえつけるリネの手は強さを増して、葵は身動き一つ出来なかった。

 腰もねじれていて息苦しい。

 レスリングの試合よろしく手で床をタップしてギブアップの意思を示したが、この場にいる誰の視界にも葵の挙動なんて目に入っていなかった。


「チェバ、アリスは売りましょう。回収して」

「はい」


 オレンジサングラスの男が葵に近付いて、不自然な体勢の中でも都合の良い位置を探してうごうごと動く腰をわし掴んでリネから剥がそうとした。

 すぐにリネが地面に置かれたナイフを手にとって男の手を切りつけて、離れろと絶叫した。

 突如として開けた聴覚に飛び込んできた叫びに驚いていたら、自分のすぐ横をスーツに袖を通した腕が、ぼてんとバウンドしてころんと横たわった。


「は、は、は、ハーメド!」

「この人に触るな! もう片方の手も触れたな! 殺してやる!」

「ううう、腕が、腕が落ちています! わー! リネ! 腕が落ちてる! いけません! 良くないと思う!」


 リネの片手に固定された頭をどうにかして抜け出そうとじたばたしながら、葵はその手がかつての褐色の腕に見えて、回収しなければならないという義務感から取りに行こうと手を伸ばした。もちろんリネは葵を離さなかった。背後で泣きわめく男が見えて、葵は心から同情した。また自分のせいで一人の人が手を失ったのだ。

 でも転がった腕より、その先に見えた女王様の方が恐ろしかった。

 なくなった腕を嘆いてその痛みに端ぐチェバを見てけたけた笑っていた。

 「リネったら、おもしろい芸ができるようになったのね!」と手を叩いて喜んでいた。

 これはもうとんでもないところに来てしまったと葵は再認識した。

 混乱する男が手を探して葵の方へ近付いてきたのを見て、リネはナイフの柄で彼のサングラスを打ち砕いた。欠片が目に入ったのかもしれない。男は目を押さえながら再び地面を転げ回って、やがて端ぎ声は呻き声に変わり、しくしくと嘆く泣き声に変貌していった。

 葵はようやくリネから逃れて、彼の手からナイフを奪い取った。これ以上腕を切られては堪らない。リネは特に反抗もせず素直にナイフを明け渡し、葵の無事を何度も確認した。


「リネったら、そんなに恋人と一緒にいたいのね。いいわ、わかった。特別に、アリスもわたしのビータにしてあげるわ」


 先ほどまで威勢の良かったリネはまた体を硬くして、何も喋らなくなった。

 しかし葵が女王様からリネを隠すように二人の間に体を滑らせたのに気付いて、ありったけの勇気を出して、葵の背に隠れながらではあったが、産まれて初めてぶりに実の姉に抵抗を示した。


「こ、こここ、こ、こっ、この人は、駄目、やめて。絶対に駄目。俺の恋人じゃないです。ちがいます」

 

 リネは葵の肩を押してせめて自分の横に移そうとしたが、その手は力なく震えていて、葵には自分に縋り付いているようにしか見えなかったので、決してそこからは動かず、むしろ女王様と向き合う為に真っ直ぐ立ち上がった。


「ビータがなんなのか知らないけど、あなたの何かにはなりません」

「アリス、もっと光栄におもったほうがいいわよ。誰もがわたしのビータになりたがって、いずれはペットになって、チェバになりたいって、そう望んでいるんだから」

「馬鹿じゃないの」


 自分でも意図せずはんっと鼻で笑ってしまった。

 本気でそう信じているんだったら、とっても可哀相な人だ。でも今はこれまでの苦労も相まって、この女王様がそんな哀れなことになっていたら、滑稽だと、自然と思えた。悲劇と喜劇は隣り合わせとはよくいったものだ。


「あなたとは顔見知りにすらなりたくない。リネのことを色々言っていたけど、鏡を見てみたら? 酷い顔してますよ。さっきのチェバの方を笑っている時なんて、あんまり醜くって目を逸らしちゃいました」

「なんですって!」


 女王様に言ってやりたい思っていた色々をここぞとばかりに言える時が来たと、葵の心は高場していた。

 はやる心臓が声を震わさないよう祈りながら、自分より背の低い彼女をわざと見下ろすように顎をあげながら、そのまあるく白い顔を指さしてさも愉快そうに蔑んでみせた。

 彼女と言い争うというのは、同じステージに()()()行いだ。

 葵もそれは分かっていたが、もう言わずにはいられない。暴力こそ無縁の世界だったが、これでも競争社会で育った負けず嫌いの頑固者なのだ。緊張すると敬語になるのも、昔からのちょっとした癖だ。教師や年上の親戚ばかりに反抗してきた生意気な小娘だったから。


「なんて失礼な女なの! リネ! この女を」

「リネ、聞かなくていい」

「何なの、あんた! 黙ってなさいよ! そいつはねえ、わたしの」


 葵は両手にそれぞれ持っていたナイフを片手に寄せて、右手で彼女の顔を思いっきりひっぱたいた。

 想像以上に小気味よい音がぱしんと響いて、葵の心はいくらかすっきりとした。

 右手を振り上げた時に床に座るリネを鎖が引き上げたせいで、ずいぶん重かったが、気にならなかった。

 女王様が今起こったことがとても信じられないと言わんばかりの頭で、叩かれた頬に手を添えて口を開閉しながら葵を見ていた


「わ、わ、わたしを殴ったわ。見たわね、リネ。ひどい女! ひどい、ひどいわ! やり返しなさい! リネ! この女を、」


 先ほど振り上げた右腕はやっぱりちょっと不自由だったので、葵はナイフニ本を持ち替えて、今度は左手でぱしんと叩いた。


「わー! えっ、えっ、ねえさっ」


 何故か女王様よりも後ろのリネが狼狽して、葵の後ろで右に左にステップを踏む足音が聞こえたが、葵からしてみれば後ろの奇人は相手にしていられなかった。背中から刺される可能性だってあるのに、そんなことは考えもしなかった。

 彼を信頼しているというよりは、やっと巡ってきた『仕返し』の機会にめろめろになっているのだ。


「リネとかチェバだとかにやらせようとしないで、御自分でやったらいかが? 人の手ばかり使おうとするなんて、汚い卑怯者」


 女王様はとうとう目を釣り上げて葵に飛びかかってきた。

 リネは背後にふらつく葵を支えながらも肩越しに見えた女王様の形相に恐れを成して体勢を崩し、三人は床に転がり込んでしまった。

 考えてみれば男性に囲まれているとはいえ裏社会で生きている女性なのだから、女王様の戦闘能力が高かったらどうしよう、とここにきてようやく葵は思い至ったが、先ほど目にしていたリネとチェバ達の壮絶な殴り合い(一方的だったが)を見てしまっていたせいか、髪を引っ張られたり爪で引っかかれたりする程度はあまり辛くなかった。それ以上をやり返していたし。

 女二人の取っ組み合いにリネはどうしたら良いか分からず、横で右往左往していた。

 自分がどうすべきなのか、コーラの前に立つとちっとも判断が付かなくなってしまうのだ。


「リネ! なにぼさっとしてるのよ! このクソ女を八つ裂きにしなさいよ!」

「リネ、聞かなくていいから」


 葵はコーラの腹に膝を蹴り入れて、彼女を退けた。

 女王様はお腹を抱えて咳き込みながら丸まり、苦しそうに何度が唾を吐いた。


「リネはちょっと離れてて」


 葵はゆっくり立ち上がり、女王様に近付いていった。

 リネもついていくしかない、繋がれている。

 でもそのことを葵はすっかり忘れていた。右手の鎖の重みなんてもう感じていなかった。葵に対する心配もあり、這いつくばるコーラへの複雑な想いもあり、左手が引っ張られるのもあり、横についていくしかないリネを見て、葵は何を思ったのか、女王様に叩かれたり引っかかれたりしてちょっと腫れたり傷付いたりしている顔に笑みを浮かべた。


「私がやるから」


 髪の毛もぼさぼさで息も上がっていたが、ナイフを両手に握りしめて笑う姿はきらきらしていた。

 閉鎖された狭い箱から自分を解放してくれる女神のようだ。自分を、地獄の底から、底に追いやっていた魔物から、救い出しに来てくれたのだ。自分には出来ないことを、この人はなんでも出来るし、しかもそれを俺の為に、俺の為に! やってくれようとしているのだ!

 リネは感激に震えてもう葵以外は全く目に入らなくなってしまった。

 先ほどまで自分の世界の全てを支配していたコーラはこの世界から消えて、代わりに葵が世界を端から端まで照らし始めたのだ。


(桜ちゃんを鞭で打った回数分ぶたないと気が済まない。泣いて許しを請うまでやってやる)


 一方、葵の脳内にリネはほとんどいなかった。

 何なら邪魔をするなら切りつけてやるくらいの気持ちだった。

 暴力への嫌悪感は復讐の爽快感に追いやられて、この一日で疲れ切って荒んだ葵の心の色をすっかり塗り替えてしまったのだ。

 広くて寒い倉庫の中で、キャットファイトのゴングが鳴った。

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