にっこり
お人形さんも、チェバも、ペットも、果物も、なあんでもここで買ってくれるのよ。
たまあに、売ってもくれるのよ。
そううさぎさん―――改め女王様から説明を受けた時点で嫌な予感は感じていた。
車から降りて、高い網の柵を見て、その先の暗い広場に並んで立つ無機質な建物を見て、葵は桜を抱く手をちょっと強めた。桜も葵の腕を強く抱きしめ返した。こいつあやべえ。今までだって犯罪組織のアジトで生活していたわけたが、とうとう来るとこまで来たと感じていた。
女王様がスキップしながら案内した先は手前から三つ目の倉庫だった。
じゃじゃじゃあああと大きな音を立ててシャッターが上に開けられて、チェバの一人が安全を確認しながら先導した。他の二人は女王様の隣と、葵と桜の後ろに一人ずついている。この三人は女王様のお気に入りのようだ。お家にいる時も、常にお部屋で女王様を見ていた。
「品物はここに置くの」
肘をぐっと伸ばして女王様が両手で示した先には、冷たい床にゴザが引いてあった。
その横にはこの寂しくて鬱屈した寒い空間に相応しくない立派な二人がけソファが置いてあり、女王様はその真ん中にちょんと座った。二人のチェバはソファの後ろに立ち、もう一人、オレンジ色のサングラスをしたチェバは葵から桜をひよいっと取り上げるとゴザの上にぽんっと座らせた。
どうしたものかその場で右や左を見ている葵を見て、女王様は楽しそうにくすくす笑った。
とりあえず桜の近くの床に山座りして、エプロンにたっぷりついたフリルを指で遊んで周りを見回していた。
(桜ちゃんが誰かに買われるなんてことになったら…、どうなるのか気になるとか言ってついていくしかないかな)
葵の脳内にでっぷり太った異臭を放つ中年男が現れて、大きな葉巻を加えながら札束をどっさり机に山積みにする映像が浮かんできた。
正直、そんな男が桜を連れて帰るなんて言い出したら、ついていきたくない。でも見送るわけにもいかない。そうなる前にリネが―――、かにゃんとかリーダとかそこら辺の誰かとかが助けに来てくれたらありがたい。フリルをぐしゃぐしゃに握りしめてはそんなことを考えていた。
しばらくして現れたのはやせ細った男と小さい男の二人組で、どちらも中年と言うには若すぎる。この街の露店街でよく見かけた、シンプルな薄いシャツに軽そうなズボンを履いただけの貧しそうな男たちだ。
彼らはそれぞれ横に立てかけてあったパイプ椅子を持って来て、女王様とは机を挟んで向き合うように座った。
小さい方の男がズボンのポケットからメモ帳と鉛筆を取り出して、鉛筆の先をべろっと紙めると桜を見ながら何か書き始めた。
「日本人よ。珍しいでしょう」
「足はつかないんだろうな」
「だいじょうぶよ! 親は死んだの。ちゃあんと見たわ」
にっこりした笑みでこちらを振り向いた女王様の顔に、桜はボロボロと泣きだした。
胸の奥で何かつかえるような感覚がある。ごぼごぼと内蔵ごと吐き出てきそうだ。鼻の奥がツンとして、自分が泣きそうなのに気付いた。
葵は唇を噛んだ。恐怖の奥から怒りが沸いてきているのに、何より先に悲しみが飛び出してきたみたいだ。桜のために怒って喚いてあげるべきなんじゃないか、無駄だったとしても、抱き上げて逃げてあげるべきなんじゃないか。でも、そんなことしたら自分の身も危ない。だから、怒りよりも悲しんでいることにして、無気力を装っているような、そんな考えが産まれて、葵は自己嫌悪の渦に埋もれていった。
「隣の女は少し歳が行き過ぎている」
「アリスは売り物じゃないわよ。まあ、でも、どれくらいになるのか聞くくらいならいいかしら」
長身の男が葵に指を向けたので、葵は顔を上げた。
酷い顔をしているだろう。
男の目は魚みたいにぎょろついていて、葵をしばらく見ていたが、やがて興味を失ったように女王様に向き直った。
「まあ、日本人だし、人気はあるだろう。これくらいかな」
「………ヘえ、ずいぶんな値段ねえ。あの子にそれだけの価値があるの?」
「日本人は勤勉で真面目だ。何より礼儀正しくて、貴族なんかは喜んで買う」
後ろの高い位置から、「あっ」と小さい声が聞こえた。
振り向いてみると、葵と桜の後ろに立っていたオレンジ色のサングラスをかけたチェバが両手で口を押さえていた。
「貴族? わたしならいらないけど」
女王様の声がワントーン下がった。葵が今まで聞いていたのは高く語尾が跳ねるような声、もしくはヒステリックに裏返るわめき声だったので、一瞬、誰の声か分からなかった。
喋り方も別人のようだ。
「これのどこが礼儀正しいっていうわけ? なんなの、その値段。わたしよりいい生まれだって言いたいの?」
ふかふかのソファから立ち上かり、女王様は二人の男を見下ろした。男たちは頭を寄せて俯き、女王様とはことさら目を合わせないようにしているようだ。
「アリス! 立ちなさいよ!」
葵は反射的に立ち上がった。
女王様はずかずかと大股でこちらに近付いてきたかと思うと、葵の襟首を掴んで男達に向かってぐいっと突きだした。爪が後ろ首の左右に刺さって血が出たようた。鋭い痛みが一瞬走って、じくじくと痛む。
「ねえ! これのどこがわたしより価値があるって言いたいのよ! どこが貴族が欲しがる女に見えるのか説明しなさいよ!」
女王様は葵をぽいっと前に投げ出すと、地団駄を踏み始めた。
彼女の足の向こうで桜が心配そうにこちらを見ている。
「アリス!」
「うえ、はい」
「座りなさい! ほら、早く!」
葵はその場に正座した。
すると女王様の平手が飛んできて、葵の頭を横に激しく殴りつけた。想像以上の衝撃に葵は姿勢を崩して床に倒れ込んでしまった。
「椅子に座るのよ! 何でこんなことも分からないの! 日本人は頭が良いなんてやっぱり嘘ね! あんたたちは嘘吐きの国よ!」
会ったばかりの頃は、いや、まだ出会って一日も経っていないのだが、あの陽だまりの中で見た彼女は困ったように落ちた眉をしていたのに、今は吊り上がって目も細くして、口を目一杯開いて、まるで別人だ。
葵は考える余裕は全くなく、言われるまま二人がけのソファの端に腰を下ろした。
女王様はそれを横から見ると「ほらね! ほらね!」と大声で葵を指さした。
「座り方もなってない! 駄目でしょ! アリス! 足は傾けるのよ! 内側の足を引くのよ! こんなことも知らないのよ! ねえ?! わかったの?!」
膝を閉じて真っ直ぐ座っていた葵の足を、女王様はどこからか取りだした鞭でぴちぴち叩いた。
服を裂くほどの威力は無かったが、それでも痛くて、葵はやめるよう叫んだが、女王様は低い声で怒鳴りながら暴力を続けた。
「高貴な振る舞いは自ずと現れ出るものなの。よおく分かったわね。もう偉そうな顔しないでね」
疲れて鞭を下ろした後、女王様は葵に目一杯近付いてそう言った。
足は痛むし光のない空色の瞳はとっても怖い。でも葵の負けん気の強さが、頷くことだけは拒否していた。
彼女の行いを、間違っても肯定したくないと、噛み合わない歯の奥で葵の心が叫んでいた。
女王様は葵の服の袖を乱暴に掴んで椅子から引きずり下ろすと、改めてソファに座り直した。
男たちは気まずそうに、「お金を取りに行ってくる」と言うと、倉庫から出て行った。
しばらく静かな時間が流れた。
苛立った女王様の足を揺する音だけが聞こえて、チェバたちは呼吸音も出さないようにじっと立っていた。桜のすすり泣く声がちょっと聞こえると女王様がヒールを床にぶち当てるので、葵は桜の傍まで行って小さな肩を抱いた。
(私にもう少しばかり度胸があれば、言い返してやったのに)
過ぎてしまったことを短い間に葵は何度も悔やみ、こう言い返したかった、ああ言い返したかったと、もしもの自分を想像して鬱憤を晴らした。
(人に暴力を振るってやりたいと思ったことはないけど―――)
知らぬ内に手にカがこもる。桜の肩をもっと引き寄せて、葵は体の震えを止めるように硬くした。
(言葉で殴ってやりたい)
何度も頭の中で彼女を傷付ける最適な言葉を探した。
脳内の女王様がうさぎのように泣き出して、葵はちょっと冷静さを取り戻した。
桜を抱えて外に飛び出して、車を盗んで走り出したらどうだろう。何か武器になりそうなものを手に入れて、女王様を人質にとって解放を望んだらどうだろう。そんなことを悶々と考え続けていた。
外がやたらめったら騒がしく、爆発音のようなものまで響いてきて、さすがにチェバたちも動揺していた。しかし葵の耳にはそんな喧騒はほとんど聞こえなかった。
ずいぶん待たされた後に、また倉庫のシャッターが開いて、男たちが戻ってきた。
「"ローベンハイツのお嬢さん"、お客さんですぜ」
男の人数がぐんと増えていた。手には鉄パイプだとか折れた椅子の脚のような棒を持っていて、ちょっと物騒だ。
彼らの後ろから、頭二つ分くらい飛び出した人影が見えた。
なんだかえらく背の高い人がいる。
葵はそう思って、座ったまま背伸びして一行を見た。
エルロイだった。
「ど、うえっ! わっ!」
助けが、来たのだ。
すぐに葵はそう思い、桜を持ったまま立ち上がり、その存在をアピールした。
葵に気付いたダンは満面の笑みでこちらに手を振った。その横にいるマーロも、泣きそうな顔で驚いて喜んでいる。そして―――
「姉、さん」
もう一人、見慣れた顔は、葵と少しも目が合わないまま、一点を見つめて固まっていた。
不本意ながら、葵はそれを訝しく思った。
きっと自分を血眼になって探していて、見つけ次第また手錠をかけにくると予想していたのだ。それが、隣の女王様に釘付けだ。
「まあ」
女王様は心底楽しそうな声を上げた。
「怪しい奴らだが、知り合いか?」
「ええ! もちろんよ」
綺麗に斜めに揃えてすましていた足を組んで、女王様は背もたれに体を預けた。
苛ついた様子は消え去って、途端に声を高く変えた。
「ひさしぶりね、ダン、エルロイ。うふふ」
笑いを堪えきれないといったロ調で、女王様は顔の横で小さく手を振った。
「リネ、もっと喜びなさいよ。おねえさまとの再会よ」
一瞬、自分のことを言われたのかと葵は思った。
でも、すぐに察した。
部屋に置かれていた小ぶりな洋服、ふりふりでふわふわな天蓋付きのベッド、空色の瞳。
敵が、増えたのかもしれない。
葵は桜を床に下ろして、深呼吸をした。縛られたままの桜は不安そうに葵に上半身を預けている。この重みを、さっきまで助けられると期待していた。だが今や、自分もろとも失われる存在なのかもしれないと、そんな考えが頭をよぎった。
***
『報告が遅れてごめん。コーラがいる。接触した。葵と一緒にいる』
ダンの連絡機から、リーダだけに宛ててそんなメッセージが届いた。実に彼らしくない文面だ。荒い音声だけで状況を聞いている限り、エルロイとマーロと合流したようだから、エルロイの代筆だろう。
地面に埋まってしまいそうなほど頭を抱えるリーダの背中を、かにゃんが優しく撫でた。
彼女の気持ちは嬉しいが、もうこの程度ではなんの慰めにもならない。
かつて船にいた仲間が居るなんて想定外だ。しかも厄介な仲間だ。隣のかにゃんは仲間とも呼ばないだろう。
「コーラってあのコーラかしら」
「あのコーラだろう」
機嫌が悪そうだ。
人目を忍んでいるため殊更声のトーンは落としているが、それでもつまらなさそうな話しぶりが伝わってくる。
しかしいざ隣を見てみると、かにゃんはにっこりとリーダを見ていた。
「人身売買の現場にコーラ。殺していいわよね?」
「………………犯罪行為は、必要最低限内で………」
何よりもリネの精神状態が気になる。
気にしてやってほしいとかにゃんに言うと、彼女は不自然な笑みを消してふてくされたようにそっぽを向いた。
「分かってるわよ」
いつも通りの彼女だ。
足癖の悪さは行く道を切り開き、仲間を思いやる気持ちは帰路へ導く。現場において頼れる仲間だ。
リーダは少しだけ安心して、高い網の向こうの建物をもうー度じっくり観察した。
「氷ぶち込んで炭酸引き抜いて海に撒いてやる…」
大丈夫、パートナーは冷静だ。パートナーは冷静だ。空耳だ。俺が冷静にならなければ。
きっちりしっかり絶対に、全員揃って船に戻らなければならない。それが今回の任務だ。




