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ざっくり

 ふしぎの国に迷い込むアリスは決まってエプロンドレスを着ていて、白い靴下、ふんわり柔らかな金髪と相場が決まっている。10歳前後の少女。葵とはほど遠い。

 この歳になって、こんな格好をさせられるとは思わなかった。


「似合ってるよ、お姉ちゃん」

「……ありがとう、桜ちゃん。君も可愛いよ」


 一方の桜はネグリジェのようなワンピースにふわふわスリッパ。まあるく盛り上がるもこもことしたシルエットが可愛らしい。

 お風呂上がりに用意されていた服だ。自分が着ていた服はどこかへ行ってしまった。清潔な湯船は嬉しかったが、着替えはもう少し選んでくれるとなお良かったと言わざるを得ない。


「さくらんぼうのゴムがない」

「付けていたやつ? どこかいっちゃった?」

「ここに置いておいたのに…。お母さんからもらったものなの」

「ちょっと探してみよう。どこかに落ちちゃったのかも」


 パーティションの仕切りをどかして、葵は桜が使っていた方の脱衣所へ足を踏み入れた。

 だがゴムを置いたという辺りを、タオルを上げてみたり戸棚を開いてみたりして探してみたが見当たらず、こういったものは往々にして床に落ちているものだと思い、地面に頭を付けて机の脚の下を覗いてみたが、見つからなかった。


「ちょっと、なにしているの! チェリー!」


 そんな時に高い怒声が飛び込んできて、葵は猫のように飛び上がってそちらを見た。

 脱衣所の出入り口にうさぎさんが立っていた。彼女はここに来るまでに見せていたニコニコとしたきらきら笑顔を封じ込み、目を釣り上げていた。明らかに怒っている。

 葵の隣で一緒になって床を見ていた桜も小さい悲鳴を上げて、葵の肩に抱きついて彼女から身を隠した。


「床に座り込むなんて、汚いじゃない! なにを考えているのよ!」


 土足を禁じられたはずの脱衣所にずかずかと靴のまま入り込むと、うさぎさんは葵の背後から桜をべりっと剥がして立たせた。

 桜は涙を堪えて震えていて、葵はとても見ていられず立ち上がったが、口を挟む間もなくうさぎさんは桜の服を引っ掴んで喚きだした。


「着替えなさい!! こんな汚い姿でわたしの家を歩き回ったら承知しないからね! アリス! あなた、一緒に付いていたのに、どうしてチェリーを止めなかったのよ!」

「いや、あの、ちょ、ちょっと、脱がすのはやめてあげて。怯えているでしょ」

「答えなさいよ!」


 必死になってうさぎさんの手を止めたが、その力は凄まじく、葵と桜の抵抗も虚しく、とうとう服はビリビリと破れて、下のペチコートが丸見えになってしまった。桜はうさぎさんから離れようと後ろに重力をかけたためか、勢いよく尻餅をついてしまって、堪えていた涙が溢れて遂に大声を上げて泣き出してしまった。

 この騒ぎに廊下に居たのであろうスーツの男たちがぞろぞろ脱衣所に入ってきて、葵はもううさぎさんに構うのをやめて桜にバスタオルを巻いて寄り添うことにした。


「なに泣いてんの! 汚い子! 汚い子は嫌い! わたしに汚いものを見せるなんて悪い子!」

「彼女の髪ゴムがどこかにいってしまって、それを探していたの」

「そんなの、アリスが一人で探してあげればいいじゃない! わたしのチェリーをそんなことに使わないで」


 葵はもうさっぱり言っている意味が分からず、一先ず一言だけ謝ったが、確かな理不尽を感じていた。


「チェバ、チェリーの服をもう一着持っていらっしゃい。チェリー! その下着も全部着替えるのよ。しんじられない。二度とこんなことしないでちょうだい。もう。楽しみにしてせっかくわたしがこんなところまで迎えに来てあげたのに、礼儀がなっていないわ」


 うさぎさんはつんと顎を上げてすたすたと脱衣所から出て行った。

 男たちはすぐに桜の新しい服を持って来て、脱衣所に置くと、そそくさと出て行った。

 道中見ていた姿とまるで違ううさぎさんをどう受け止めて良いか分からないまま、葵は桜が服を着るのを手伝った。今度の服も真っ白なすとんとしたワンピースに赤いリボンがついた可愛い服だ。桜によく似合ってお人形さんのようだ。

 怖がってしくしくと泣く桜を慰めるのに随分苦心したが、いつまでもここにいるわけにもいかず、葵は彼女の肩を抱いて脱衣所を出た。

 ここに入る前に脱いで置いておいたはずの靴は二足ともなくなっており、赤い小さな靴と黒いおでこ靴が置いてあった。つま先が丸く膨らんだ厚底だ。いかにもアリスが履いていそうだ。葵には些か大きく歩くとぱかぱかと足裏が靴から離れたが、チェバの一人が足首の紐をきつく結び直したおかげで、脱げることはなさそうだ。靴下がなければ皮膚を傷付けていただろう。窮屈だったが、歩きづらいこともない。

 うさぎさんがチェバと呼ぶ男たちは揃ってスーツ姿でサングラスをかけている。サングラスの色は様々で、ほとんどは黒だが、赤やらオレンジやら緑やら、個性のある人もいる。髪型も様々だ。ホテルの部屋で葵を出迎えたオレンジ色のチェバは金髪のオールバックで、とても目立つ。偉そうに他のチェバに指示を出す姿を見て葵は彼の立場をなんとなく察した。


「アリス! チェリー! やっと身支度が整ったのね、まっていたわ」


 案内された白い扉の部屋に入ってみると、中ではうさぎさんが待っていた。

広い部屋には真ん中に天蓋付きの大きなベッドがあって、広い窓から外の爛々たる光が部屋を照らしていた。左端の大きな鏡台に備わる白いふかふかの椅子に腰掛けて、うさぎさんは二人を出迎えた。


「よく似合うわ。二人に似合うって思っていたの。気に入ってもらえた?」

「うさぎさん、日本に連れて行くって言う話はどうなっているの?」


 葵は彼女に会ったら聞こうと決めていたことを初めに聞いた。

 先の脱衣所の出来事を見て、彼女のペースに呑まれるのはまずいと考えていた。車中で桜も言っていた。彼女は頭がおかしい。


「アリス、だいじょうぶよ。わたしは近々日本に移動する予定なの。いっしょに連れて行ってあげるから」

「それまではここに居ろって言うこと?」

「そうよ。わたしたちには準備が必要だし、さっきおはなししたでしょ? 今は空港はデモ隊が詰め寄っていて普通にも使えづらいのよ」


 彼女の言葉は筋が通っていて説得力があった。

 とても今すぐ帰せと強行できそうな隙はない。葵は諦めて会話を切り上げた。

 葵が納得したのを見ると、うさぎさんは葵を優しく抱きしめて、頬にキスをした。


「心配しないで、アリス。もうちょっとのしんぼうよ」


 甘ったるいチョコレートの匂い。

 心に安らぎを落とすか、腹から重い吐き気を上げてくるか、さもなくばどちらも引き起こすか、実に微妙な香りだ。

 葵はすぐに反応できず、抱き返すことも突き放すこともできない内にうさぎさんはさっさと離れて、葵の隣に居た桜を抱き上げた。


「チェリー! かわいいわ。とっても似合うわ。あなたもわたしといっしょに日本へ行くのよ。ぜったいよ」

「あ、う……」


 先ほどのこともあってか、桜は体をガチガチに硬くして、うさぎさんの言葉にも応えることが出来なかった。

 しかしうさぎさんはそのことを不快に思った様子は微塵もなく、きらきらとした笑みで桜の頬に口付けると、窓際に置いてあった豪奢な一人用のソファに桜をぽん、と座らせた。

 桜には少し大きすぎる椅子のようで、体を囲う肘置きには手を伸ばさなければ届かなさそうで、背もたれは彼女の座高を優に超えてしまっていた。足は地に付かずに宙にぶら下がったままで、奥まで腰掛けると膝は抱えなければならなさそうだ。まるで彼女を抱いているようなサイズだ。


「チェリーはここ。ここに決めたわ。ね。とってもいいでしょ」

「はい、この部屋にぴったりです」


 葵たちをこの部屋に案内したチェバの一人が声を弾ませてうさぎさんに同調した。

 その声を聞いて、うさぎさんは足早にこちらに近付いてくると、葵の左後ろに居たその男をばしんと鞭で打った。

 ふんわりしたバルーンスカートの中から小さな鞭が出てきたことにも驚いたし、自分より小ぶりな女性が一回り大きい男性を鞭で打ったのにも驚いたし、それを見て桜が悲鳴を上げたのも驚いて、葵は一周回って何も反応できず、隣で行われるその光景を一歩退いてマジマジと観察した。

 男は頬を打たれて赤いミミズ腫れが早くも顔に浮かんでいる。うさぎさんは横から見ても分かるくらい怒っていて、鞭を握る手は細かく震えている。


「わたしの前で汚い言葉遣いをしないでと何度言ったら分かるの! お部屋と言いなさい! わたしのお部屋なのよ! 普通の部屋とは違うの! お部屋なの!」

「申し訳ありません!」

「おまえはしつけがなっていないわ! こんなのを誰がチェバに許したの! おまえはビータからやりなおしよ!」


 床に脆いて頭を下げる男に向かってうさぎさんは人が変わったように鞭を打ち付けて足蹴にした。

 遠くで桜は泣いているし葵も泣きそうだしこんな大人の姿を10歳やそこらの少女に見せてはならないし葵は混乱の中で他のチェバに目で助けを求めた。しかし男たちときたら手袋をはめた手で優雅に口元を隠しながら、近くにいる他の男と互いに何かを囁き合い、この光景を見てくすくすと笑っているようだった。

 あんまり異様な空間にどうしたものか考えあぐねている内に、うさぎさんは疲れ切って鞭を下ろした。彼女が肩で息をしている間に男たちが近付いてきて、何を言うでもなく床に縮こまる男を左右から持ち上げて部屋―――お部屋から連れ出していった。

 うさぎさんはしばらく俯いて深呼吸を繰り返していたが、途端にわっと泣き出して葵の胸に身を投げてきた。

 重量はなかったがあまりの勢いと唐突な接触に葵は二、三歩大きく退いたが、彼女はすかさず距離を詰めてきてぐいぐいと頭を押し付けてきた。


「あんな男がわたしのお家を徘徊していたなんて汚らしいわ! わたしに対するとてもひどい侮辱だわ! アリス、こわかったわ」

「お、おう…」


 とてもじゃないが「あなたの方が怖い」とは言える状況じゃない。

 葵はおずおずと彼女の肩に手を添えた。

 うさぎさんは葵の腕の中で葵を横へ横へと押していき、端から見たらまるで葵がうさぎさんをベッドに誘導したかのように倒れ込んだ。

 腕の中でわんわん泣いている女よりも、視界の端の桜の方が気になる。

 葵はうさぎさんをぽふぽふと軽く叩くと、ベッドの端に腰掛けて落ち着かせた。それから立ち上がり、少しは桜の恐怖を和らげられるだろうと期待して、うさぎさんを桜から隠すような位置に陣取った。この得体の知れない人間を年端もいかない子供に見せるのはちょっと酷だ。


「あー………、ここは、うさぎさんの家なの?」


 葵は現状把握に努めることとした。

 ここでしばらく我慢して、結果的に日本に帰れるなら問題はない。


「そうよ! 気に入った? アリス」


 先ほどまでの涙が嘘のように、うさぎさんはぱっと笑顔を咲かせて顔を上げた。

 変貌の様が葵の背中を冷たく撫でて、顔が青ざめていくのが分かる。


「お城みたいなお家ね」


 葵はチェバが叩かれた時にうさぎさんが喚いていた「汚い言葉遣い」を使わないように気を遣って、

言葉を選びながらゆっくり言った。

 うさぎさんは葵の言葉にそれはとても喜んだ様子で、ベッドの上で腰を跳ねさせながら、「そうでしょ、そうでしょ」と繰り返した。


「わたしは本当はお姫さまだったのよ。でも不幸があって、つまらない生活を強いられていて、でもたくさんのチェバに手を貸してもらえて、ようやくそれらしい生活に戻れ始めたのよ。みんな、本当にありがとう」


 部屋の隅に並ぶ数名の男たちは、照れたように頬を染めて小さく笑っている。

 その光景にも違和感を覚える。大体、チェバって一体何なんだ。


「でも、こんなお家じゃちっとも満足できないわ。わたしのお城はもっと大きいはずなんだから。だから、もっとわたしにふさわしい、本物のわたしのお城がどこかにあるはずなの。それを探して、各地を転々としているのよ。わたしったら、あんまりかわいそうでしょ」


 チェバたちがわざとらしくサングラスを上げ白いハンカチで涙を拭う仕草をしながら、おおう…と悲しげな声を上げた。

 葵は思った。

 お前らは一体何なんだ。


「アリスは、このお家で色々な場所に隠れて、冒険しなきゃならないのよ」

「は?」


 唐突な言葉につい素の反応が出た。慌てて口を押さえたが、特にうさぎさんは気にしていないようだ。


「アリスっていうのは、好奇心たっぷりで、いろんなところに入り込んでは冒険を楽しむ女の子でしょ」

「違った気がする」

「だから、アリスはこのお家をいつも楽しく走り回っていなきゃいけないの。それで、うさぎを見たら追いかけるの」

「うさぎさんを」

「そうよ! わたしを見たらよろこんで走ってこなきゃならないんだから。わかったわね?」


 不満―――というより、不安………、いや、不可解な物体を前にした気分に葵は陥った。

 しかし、彼女のうことがまるっきり本当なら、いずれは日本に帰れると言うことだ。ドーラ号にいるよりは日本に近付いたかもしれない。桜がこの家に居続けるのが良いか悪いかは考え物だが、本当にうさぎさんの言うとおりこの国が危険な状態なら、ここの方が桜の為にもなるかもしれない。

 葵はそう思い、後ろの桜にちらりと目をやると、うさぎさんに促されてお部屋を出て行った。

 外に居たチェバたちは葵に目もくれず、扉の隙間から見えたうさぎさんに興奮していた。アイドルの出待ちをするファンのようだった。

 彼女の言うとおりにするのはどことなく腑に落ちないが、この建物を知るのは無駄にはならないだろう。

 中に残された桜を気にしつつも、葵は建物の中を回ってみることにして、お部屋から遠ざかっていった。


 ***


「エルロイ、大丈夫? 大丈夫? ああ、僕のせいで、ごめんね」

「うるさい。うっとうしい。マーク号が落ちたのはエルロイのせい。事実と違う弁明はうっとうしい」

「でも僕が乗っていなければ、ごめんね。どうしよう。これ、どこに向かっているんだろう」

「連絡機が壊れた。とにかく静かにして。相手に聞こえたら刺激するかもしれない。静かにしないと駄目」

「わ、わかった。僕、静かにするよ」


 葵たちが屋敷に着くちょっと前、葵を乗せた車を追って空飛ぶ小さな円盤、マーク号に乗っていたエルロイとマーロは打ち落とされて何者かに捕獲され、車のトランクに詰め込まれてどこかに運ばれていた。狭い暗い空間で二人は絡み合いながら身動きが取れずにただ揺られていた。

 マーロの体が柔らかくて良かった。

 すぐ隣にあるマーロの顔と足の裏を眺めながらエルロイはしみじみと思った。この謎の生命体がどういう体勢をしているのか、人体に詳しいはずのエルロイにも分からない。

 車のエンジン音が激しいが、なんとか車内で話す男たちの声をエルロイは拾っていた。


「麦をおわんにしゃめるして池におっちゃんしたらしいな。ざっくりじゃ」

「二枚舌じゃさとば沸き立てん。ざっくりだなあ」


 訛りのような言葉で初めは何を言っているか分からなかったが、エルロイはこういったやり取りを聞いたことがあった。暗号だろう。

 日常会話では彼らは普通に喋っている。

 まずいことになった、とエルロイは思いつつも、暗く狭くちょっと匂う箱の中。ガソリンの匂いは懐かしく、エルロイは息を殺すマーロの横ですよすよと寝息を立て始めた。

 それに気づいたマーロはちょっと慌てたが、エルロイの寝息を聞いている内にそれが子守歌に思えてきて、マーロも一眠りし始めた。

 それを咎める人も、呆れる人も、ここには誰もいない。


 ***


 葵はもしもの時を考えて庭を囲う塀を内側からぐるりと回ってみた。

 鉄柵で出来た塀は三メートルくらいはありそうだったが、足をかけて登ることが出来そうだ。逃走を阻むほどのものではない。

 お家に出入りできる箇所もいくつか確認した。台所に繋がる扉と外にある洗い場への扉と、正面玄関。それから、二階のどこかの部屋に扉があって、そこから階段で降りてくることも出来るようだ、窓が随分大きいので、わざわざ扉を使わなくても、一階なら窓から出られそうだ。

 そうして散策していたら、二階の部屋の窓がぱりーんと割れた。

 割れた場所から何かが振ってきて、地面にぶち当たってがしょんと割れた。花瓶のようだった。

 驚いて見上げてみると、窓の先にうさぎさんが見えた。どうやら先ほどまで居た彼女のお部屋のようだった。


 ―――うさぎを見たら追いかけるの。


 そう言われたことを思い出して、葵は散策をやめてお部屋に向けて駆けだした。




 薄く扉を開いてお部屋を覗く男たちをかき分けて入ってみると、お部屋は酷い有様で、窓ばかりか鏡も割れていた。大きなベッドも心なしか傾いていて、その横に桜がカなく倒れていた。


「桜ちゃん!」


 駆け寄ってみると意識はあったようで、葵はほっと胸をなで下ろした。

 光を失ったような瞳で呆然とする様子に彼女の背中を撫でたが、桜はうんともすんとも言わなかった。

 後ろではうさぎさんが涙をぼろぼろ流し、手に鏡の破片を握りしめながら二人を見下ろしていた。


「わるいお人形さんだわ! わたしが動いちゃダメって言ってるのに動くなんて! アリスもひどいと思うわよね!」

「思いませんが」

「あら? アリス? どうしてここにいるの? 好奇心旺盛なアリスはお家を歩き回っているはずよね?」


 彼女はいきなり涙を引っ込めて、きょとんとした顔をして聞いてきた。

 ヒステリックに裏返る声とは裏腹に、きらきら可愛い落ち着いた声だ。心のままに喋るのはやめよう、と葵は決めた。彼女を刺激しないことが、安全な方法だと考えたのだ。


「庭を歩いていたらうさぎさんが見えたので、つい来ちゃった」

「まあ! アリスったら、うふふ、ほんとうにわたしが好きなんだから! 仕方ないわね。わたしも見つけられたごほうびに、お茶でもしましょう」


 うさぎさんがぱんぱんと手を叩くと、チェバたちがたちまち部屋の中央にティーセットを用意した。支度が終わると部屋を隅々まで片付け始めて、桜を元通りの椅子に座り直させた。


「はい、アリス。お茶よ」


 目の前に差し出された三杯のティーカップを見て、恐怖を感じつつも仕方なくその内の一つに口を付けた。

 香りのきつい紅茶だ。

 ほんのり苦くて少し酸っぱい。葵の好みではない。


「おいしい?」

「ええ」

「よかったわ! もっと飲んでちょうだい」


 まだ一杯も飲み終わっていないのに、目の前のティーカップは五個に増えた。葵はそっとコップをソーサーに戻した。

 うさぎさんのすぐ近くに置かれた鏡の破片がきらりと部屋の光を反射している。


「あ―――、の―――、………チェリーのことだけど」


 桜の名前を言ってみようとして、葵はやめた。

 なるべく彼女の世界観に合わせる方が最適だろうと結論づけた。


「ええ! かわいいでしょう。わたしのお部屋にしばらく飾っておこうとおもっているの」

「うん、とってもかわいいけど」

「わたし、かわいいものが大好きなの。あ、アリスもよ。アリスもとってもかわいいわ」

「はあ、どうもありがとう」

「ダメよ! アリス」


 うさぎさんは椅子を跳ね飛ばして立ち上がると、葵の横に立ち、大きな仕草でお辞儀した。


「ありがとうございます、うさぎさん」


 スカートの端を掴んで足をクロスさせるカーテシーのごときお辞儀は一見すると高貴な振る舞いに見えた。

 でも葵は寒々しさを覚えて、彼女が頭を上げる間に紅茶を一口、高速で飲んで戻した。なんだか喉が渇いたのだ。


「こうしないといけないのよ」

「知りませんでした」

「いいのよ! これから知っていけば。アリスはこの世界のことをなんにも知らないものだものね」


 ふと、席に戻ったうさぎさん越しに桜が見えた。

 桜はうさぎさんを警戒しながらも動きだし、椅子を飛び降りると、部屋の扉に向かって走り出した。

 葵は驚いて、思わず立ち上がり、そのあとを覆うとした。

 その葵を見て、うさぎさんも背後の異変に気付き、振り向いた。

 お人形さんとは意志を持たず、ただそこに座り、心を慰めるだけの存在だ。

 動いてはいけないのだ。

 うさぎさんは奇声を上げて鏡の破片を掴むと、桜に向かって振り上げた。葵は咄嗟に間に入り、桜を抱きかかえた。絹を引き裂く音がして、肩に痛みが走った。赤い鮮血が視界の端を飛んでいく。桜の悲鳴が目元で鳴って、今まで聞いたどれよりも大きくつんざく悲鳴だったように思える。空の端まで届きそうだ。

 アリスの服の袖がざっくりと切られて、その先から泉のように血が湧き出てきた。

 白いエプロンドレスをじわじわと汚して、痛みは徐々に強くなった。

 桜は狼狽え、うさぎさんは泣き叫んだ。葵は自分の置かれている状況をどう受け止めたら良いのか分からないまま、桜から自分を引き剥がして抱きしめるうさぎさんを間近で見ていた。

 ふわふわの髪は彼女の言葉や行動に合わせてぽふぽふと上下に揺れる。

 重ねた肌は柔らかくじっとりと湿っていて吸い付くようだ。

 濡れる空色の瞳に、葵は何故か、弟を名乗る男のことを思い出した。


 ***


 日が傾いて街は夜を迎えた。

 光るネオンが日没と共に神の目から逃れたことを示している。

 夜の街からは子供の姿が消え、あらわな姿の女性が増え、あらわな姿の男性も増える。街の匂いもがらりと変わる。ビキニ姿の男が居るのだ、女装している男なんて珍しくもない。


「僕と同じ格好をした女性を見ませんでしたか?! 背はもう少し小さくて、髪は黒色で、ロングストレートで、後ろで結んでいて、顔はもっと可愛くて、もっと美人で、腕と足は枝みたいに細くって」

「そうかあ? 足首はこれくらいはあったぞ。俺は掴んだから間違いない」


 ダンは両手の指で丸を作って葵の足首の太さを再現した。


「ふざけないで! 姉さまの足はもっと細い! それは正確には膝から太股に繋がる辺りの太さです」


 声をかけられたその国の住民は彼らのやり取りに気持ち悪さを覚えて隙を見て逃げ出した。情報は全く得られず、昼間から探しているにも関わらず、進展は得られなかった。


「姉さま、姉さま、姉さま、ああ、必ず見つけます。必ず見つけます。逃がさないんだから、絶対に絶対に逃がさないんだから」

「今頃空の上かねえ」

「姉さまは俺から逃げたりしない! 変なこと言わないで!」

「今逃がさないからって」

「逃げてるわけないだろ!」


 リネとダンは殴り合いでも始めそうな怒鳴り合いをしながらも捜索を続けていた。


 一方ーーー


「日本人かい?」

「そう! 日本人。見た?」

「うーん、どうだかね」

「重っ黒な姿でこれくらいの身長の子供は見なかったか? 逆に、背の高い白いやつも一緒に居たと思うんだが」

「小さな子供かい?」

「そうよ。どうかしら」

「外人かね。まずいんじゃないかねえ」


 かにゃんとリーダは市街地まで出て、葵の他にもエルロイとマーロのことも聞いて回っていた。

 日が落ちるにつれて明かりは減っていったが、それでも住宅街の周りはまだ活気がある。


「最近、この辺、人攫いの噂が酷いんだよ」

「子供とか外国の人とかがよく行方不明になるんだ。臓器売買しているとか、奴隷商人に売っているとか」

「まさか。噂でしょ」

「噂だけどね、神隠しが増えたのは事実だよ」


 リーダは腕を組んで考え込んだ。かにゃんも不安そうにリーダを見て、二人は一度船に戻ることを決めた。

 エルロイの電源が落ちた場所あたりの監視カメラを総当たりして、足取りを追うしかない。


「こういうのは警察の仕事だ」

「私の本業は殴り合いなんだけど」


 二人は一先ず船に集合、とリネにもメッセージを送ったが、返事は予想通り、反発する言葉だった。

 姉が見つかるまで戻ってくるつもりはないらしい。

 マーク号の下に光る街並みに、リーダは不穏な予感を募らせるばかりだった。

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