おとぎ話のきょうだい
姉さんがなんだか冷たい。
戻ってきて二日目の夕飯にしてようやく、空腹を覚えたのか、食事をとってもらえたのは安心したが、部屋に篭って一人で召し上がった。以前なら俺が嫌がっても引きずられて横で食べさせられて、マナーがなってなかったらきつく叱ってくれたのに。
ずいぶん長いことこの船から離れていたから、下の暮らしがすっかり身についてしまったんだろうか。
下の世界が恋しくなってしまったんだろうか。
もしかして、この船に、帰ってきたくなかった…、とか…。
リネはぶんぶんと頭を振った。
有り得ない。きょうだいなんだから、同じ場所で暮らすのは当然なのに。聡明な姉さんがそんなこと分からないはずがない。随分失礼なことを考えてしまった。
不安を吹き飛ばして努めて明るい声で部屋の扉をノックした。
自分の部屋から続く扉。ここが唯一姉さんが出入りする場所。
この扉の向こうに姉さんが居てくれる。綺麗で優しくて慈愛に満ちた理想のお姉さんが―――それだけで、今までの姉さん不在の暗い日々が鮮やかに塗り直されていくようだ。
「姉さん、食事を持ってきたよ。今日は一緒に食べてくれないかな?」
返事はなかった。水を打ったように静かだ。
この二日間、ノック一回で返事が返ってきたことはない。
昨日は中でどうにかなってしまったんじゃないかと半狂乱になって何度も何度も強く扉を叩いたり、蹴り上げたり、大声を上げたり、チェーンソーを持ち出したりしたが、「マジで怖いからやめて」と涙目で言われたのでぐっと堪えることにした。
姉さんは中で泣いていた。きっとここに帰ってこられたことが嬉しかったんだろう。懐かしいお部屋を満喫している時間を無粋な懸念で邪魔してしまった。
「姉さん、あの、お食事です」
辛抱強く話しかける。うるさくすると怖がらせてしまうので、小さいノックと落ち着いた声かけを休みなく続けた。
下の世界にいる間に、姉さんは随分怖がりになってしまったようだ。
コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン
「姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、」
おかしい、昨日はそろそろ出てきたはずなのに。
勢いよく扉を開けて、「いやそれも怖いわ!」と真っ青な顔で出てきたのに。お加減が悪かったらしい。静かに入って良かった。
おそるおそる扉に手をかけてみるとすんなり開いた。
夜中に隣で寝かしてもらいたいと忍び込もうとして開いた試しがないので、常に鍵を閉められる性分なんだと思っていた。悪いと思いつつゆっくりと体を滑らせ中の様子を伺う。
「姉さん…? お食事だよ」
気配がない。
天蓋を外れんばかりでめくるがベッドにも姿がない。
クローゼットを開けて引き出しも全部引き抜いてベッドの下も覗き込んだがどこにもいない。
姉さんがいなくなってしまった―――。
また、また姉さんに捨てられた。姉さんが俺を捨てていった。俺がいい子じゃなかったから。俺が悪い子だったから。
リネは転がるように部屋を飛び出すと姉を呼んで飛行船を駆け巡った。会う人会う人に姉の行く先を聞いたが、正直、団員のほとんどはリネが『姉』を連れてきたことは承知していたが、それがどんな姉なのかは知らなかったし、あまり興味もなかった。
団員の一人が妾を連れ込んだようなもので、詳しく聞くのも野暮、立ち入るのは禁止という不文律があった。どっちにしろ我々に関係あるとしたら、リネの笑顔が爆発してうるさい程度のものだからだ。
「かにゃん!」
「あら、リネ」
同じ飛行船で過ごす仲間、栗毛色の髪を輝く蝶のバレッタでまとめ上げた派手な女性かにゃんを見つけた。彼女はさばさばしていて育ちが悪けりゃ口も悪いが、生来の面倒見の良さでいつでも現場のリネをサポートしてくれる存在だった。居なくなる前の姉さんのこともよく知っている。
「姉さんを見なかった? 部屋に居ないんだ。部屋に、姉さんが、居ないんだ。どうしていないんだろう。俺はいい子にしていたのに」
「お、おう…落ち着いて、リネ。そういえば見かけない女の子を見たような」
「ほんと!? 綺麗な黒髪に綺麗な瞳で優雅で綺麗で美しい女性だった!?」
「人違いだったわ」
「どこに行ったの! お願い、教えて、お願いお願いお願いお願い」
このままでは床に頭を打ち付けそうな勢いだ。息苦しそうに頭を下げる姿が痛々しい。
「そう、確か…蔵書室の方だったような」
蔵書室は飛行船の端っこの階段の奥にある部屋で、二階から三階をぶち抜いて作られている部屋だ。黒くて小さなエルロイが主のように鎮座している静かな場所。
「ありがとう!」
お礼もそこそこにリネは走り出した。蔵書室の横の階段を下りたら出入口だ。来たばかりの姉さんが飛行船から出入りするための小さな乗り物、マーク号を起動する方法は知らないと思うが、うっかり扉が開いて、うっかり足を滑らせて、うっかり飛び出してしまったら大変なことだ。
「エルロイ! いる?! 姉さんいる?!」
蔵書室の重い観音扉を勢いよく押し開ける。
マーク号に乗ったエルロイが瞬時に目の前に降ってきた。
「うるさい。蔵書室では静かに。うるさい。出て行って」
「姉さんいる?!」
「うるさい人の声は聞こえない」
「姉さんいる?」
心持ち声を落とした。そっぽを向いたエルロイが細い目を流してリネを見る。
「あおいって人のこと?」
「! そう! 姉さん!」
「あそこ」
エルロイが指差した先には縦に細長い窓があった。星空が好きなエルロイのために、わざわざ本棚をずらして壁にスペースを作り、我らがドーラ号の船長・リーダが日曜大工で拵えた窓だ。
窓の下にはちょっとしたカフェスペースができている。大きなソファに肌触りの良いふかふかの絨毯。エルロイの定位置に、女性の後ろ姿が一つ。
「姉さん!」
「うるさい」
駆け寄るリネをエルロイが後ろから諌める。葵が振り向いて顔をしかめた。
「姉さん、部屋にいないから心配したんだ。本当に本当に心配したんだ。部屋を出るときは言って。ね、お願い。お願いします」
「あ、あの、ごめんなさい…退屈で…」
「あ~そうだよね! 気づかなくてごめんね! 言ってくれればいつでも僕が本を持ってくるから! 部屋で読もう? ね、部屋にいてください。ね、ね」
リネが必死で言い寄るほど、葵の上半身は仰け反っていく。
腹筋を鍛えていなかったことが悔やまれる。これ以上は後ろに倒れこんでしまう。
「うるさい」
エルロイが後ろからリネを押し退けて葵の隣に座った。
「ここにいたいなら静かにして。うるさくするなら出て行って。葵は静かだからいてもいいけどリネはうるさいからもう駄目」
リネの瞳に涙が浮かんだ。
あ、泣くと煩そう。
ここに来たのは、出口を探そうと部屋を出て、廊下の行き止まりにあった扉を開いてみたからだ。端にあるのだから非常口か何かだと思った。でもその先は、高く細い窓と、その両側をぐるっと壁一面に広がる本棚だった。
奥に行くに連れ狭まる三角形の部屋の中央に、真っ黒な小さい妖精が立っていた。僅かに覗く肌色に薄い鋭い瞳が浮かぶ。
「静かにするならいても良いけど」
部屋に溶け込むような穏やかな声に、葵はすっかり魅入られて、腰を落ち着けてしまったのだった。
(このままここにいたらこの妖精に迷惑をかけるかも)
そう思った葵は部屋に戻ることにした。
「これ、持って行っても良いよ。ちゃんと返してくれるなら」
エルロイは卓越した記憶力で本の並びや貸し借りの履歴を脳内に仕舞いこんでいるらしい。
「あ、ありがとう、妖精さん…」
「? エルロイの名前はエルロイ。葵、静かにしているなら、いつでも来ていいよ」
小さな手を小さく振ってエルロイは二人を見送った。
葵はリネにぴったりくっつかれて部屋への道を歩いた。歩く度に腰が触れる。近すぎる。うっとうしい。
「エルロイと仲良くなってくれて良かった。付き合ってみたら良い子でしょう?」
にこにことリネが話しかけてくる。沈黙を恐れているようにも見えた。
「下に降りて本が好きになったんだ。前は嫌いだったのに。でも、姉さんらしい」
「…元から大好き。誰のことを言っているの」
「あ、そうだったんだ…。あの、知らなくて、すみません。本を見ると虫唾が走るって言ってた覚えがあって…で、でも聡明な姉さんだからあれはほんの冗談だったんだね! 気づかなくてすみません」
リネは青ざめた。
聡明な姉さんを侮辱してしまったかもしれない。それで怒ったかもしれない。嫌われてしまったら、また、俺を置いて、
その夜、昼の内にこっそり盗み取って作っておいた合鍵を使って姉の部屋に入った。
こんなに心配をかける姉さんが悪い。夕飯を召し上がらなかった。籠城を続けて餓死でもしたら大変。これは弟としての危機管理の一環だ。そんな言い訳をして。
もしかしたら、夜の内に息が止まってしまうかも。
もしかしたら、ベッドから転げ落ちて頭を打ってしまうかも。
そうなっていないかちょっと確かめるだけだ。姉の安全確保のため。
音もなく忍び込む。こういうのは本職だ。そっと寝台に近づくと、柔らかな寝息が聞こえた。口元まで布団を押し上げて寝ている。
(……苦しいかもしれないし…)
そっと布団を首元まで落とす。口に触れそうなほど近くに手を置いて、薄く開いた唇から息が漏れているのを確認する。
(綺麗だ)
リネは息のかかった手の匂いを嗅ぎながら、その息を吸いたい、と思った。姉の吐く息で生きていきたいと。
少しかがんで顔を近づけたが、はっとして首を振った。
(息をもらいたいなら許可を得ないと)
了承を得ずに姉のものを勝手に取るなんてひどい裏切りだ。自分たちは悪い人からしか泥棒しないんだ。
言い訳にして入った姉の安全の確認が思いの外早く済んでしまったので、名残惜しいながらもリネは部屋を後にすることにした。本当はもう少し見守っていたいが、いかんせん許可を得ずに作った合鍵で入ってきたので、もし気づかれたらどうも具合が悪い。
踵を返し、扉に手をかけたところで、すぐ隣のチェストに本が載っていることに気づいた。
騎士とお姫様の小説だ。可愛らしい絵本のようなイラストが載っている。
(姉さんはこういうのが好きなのか)
リネはタイトルをよくよく覚えて、音もなく退室した。
小説の内容はこうだ。
王室の唯一のお姫様が、一生懸命に勉強して代々続いた男系王室に終止符を打ち、初めての女王として君臨した。その険しい道筋の影には、常に忠実な騎士の姿があった。お姫様の隣を片時も離れず、常に彼女を支え、常に彼女を守り続けた。しかしてその正体は彼女の腹違いの弟だったのだ。姫様の母親が彼の母親の存在を少しでも認めてくれていれば、彼の母親の身分がもう少しばかり高ければ、王様になり得た立場だったのに、彼は姉を心から慕い、忠義を尽くした。二人のきょうだいは手を取り合い、幸せな国を守り続けた……。
葵の借りた小説のタイトルを覚えていたリネは、姉が蔵書室へ本を返しに行くのを確認するやいなや蔵書室に飛び込み、同じ本を読み始めた。
活字の苦手な彼が今までにない気力を振り絞って一冊を一気に読みきった。
部屋に持ち帰らずに扉付近で座り込んで読み始めるものだから、訪れる人に何度か邪魔者扱いされたが、静かにしていたのでエルロイは許した。ここではエルロイがルールだ。
「姉さま、僕があなたを生涯をかけてお守りいたします」
「ありがとう、わたくしのたった一人のかけがえのない弟よ。あなたを心から愛しているわ」
弟は常に姉に対して礼儀を欠かさず、貞淑であった。
「エルロイ、姉さんはこの本の感想を言っていた?」
「とっても面白かったって言ってた。こんなお姫様素敵ねって」
つまり姉さんはこのお姫様に憧れを抱いたんだ。
きっとこんな弟が自分にもいれば、と思ったに違いない。
「エルロイ、お…僕、決めた!」
「は? なに? うるさい」
「姉さんは下の世界に行って、きっと上品で礼儀正しい人を何人も見てきたんだ! きっとたった一人の弟にも同じことを望んでいるんだ」
リネは両手の拳を強く握り締め、姿勢正しく立ち上がった。
目は爛々と輝いて窓の先に広がる青々とした天をのぞんでいる。
「うるさい」
厳格な主が毒づく。
「これからはこの物語の弟のように、姉さまとお呼びして、一人称も改めて、口調も丁寧にする! 姉さ…まが誇れる弟になるんだ!」
「葵は蔵書室で騒ぐ暴君を嫌いそうだけどね」
リネは慌てて口を両手で塞いだ。
本を大事に扱わない人も嫌いだって、の言葉に、床に置きっぱなしにしていた本をこわごわ持ち上げると恭しくエルロイに献上した。
「姉さま、食事をお持ちいたしました。本日は僕もご一緒させていただいてよろしいでしょうか」
葵の眉間の皺がさらに深くなったことは言うまでもない。