腕の落とし前
隣の部屋に自分を攫ってきた悪しき男がいないというだけで、葵の心はとても穏やかだった。
マットレスはいつもよりふかふかでシーツはさらさら、枕の高さもちょうど良い。微笑むような三日月がこちらを見ている。
そんな満ち足りた睡眠を満喫していたはずなのに、何故か深夜に目が覚めた。
ベッドのすぐ横に置かれている小さなデジタル特計に目を向けてみると、夜も深い2時33分。朝までぐっすり眠ることの多い葵は、何故こんな時間に目が覚めたのか不思議に思いつつ、また目を閉じて眠る努力をした。
しかし、すぐに自分の腰の辺りで、自分以外の何かの力を得て布団が沈んでいる気配を感じて、意識が覚醒した。
左右にずっしりとした重みがある。
よくよく見てみると眠る時に開いていたはずのカーテンが閉じられている。
呼吸音も衣擦れの音も何もないが、確かな存在があるのを感じて、葵は恐る恐る瞳だけを自分の下半身に向けた。
暗闇の中で、大きな人物が自分に跨がっていた。
「ひょえっ、ひんぐぎゅ」
叫ぼうとした途端、手が容赦ない速さと強さで顔を掴んできて、口どころか鼻まで塞がれた。
下部からのそりと影が近付いてきて、葵は慌ててこの場から逃れようと布団をなぎ払ってベッドの中を泳いだ。
「待って、待って、逃げないで。騒がないで、姉さま」
声は静かに、しかしはっきりと聞こえて、葵は不自然に上体を持ち上げたまま硬直した。
「大丈夫、僕ですよ。リネです」
間近に迫ったためにようやく視界に捕らえることが出来た顔は恐ろしく少し不安そうに眉を傾けながら微笑んでいた。
今、口が塞がれていなかったら、「お前が一番怖いわ」くらいは発言していただろう。しかしいくら抵抗しても頭を振ってみても手が顔から離れることはなく、それどころか顔を反らすことも出来ずに真正面に向き合わされるだけだった。
「夕方は…、取り乱して、すみませんでした。もう大丈夫。落ち着きました。リーダにもたくさん叱られたし…。かにやんにも。姉さまを怖がらせて、すみませんでした」
葵が抵抗を諦めて大人しくなると、リネは手を離し、ベッドの中央で正座して深々と頭を下げた。
「あ、あと、これ…、ありがとうございました」
暗がりでもはっきりと分かるほど頬を好調させて、リネが懐から取り出したのは葵のスリッパだった。心なしかふにゃりと形状を歪めている。
ローションにまみれた弊害か、それとも…。
「牢屋で抱きしめていたせいでちょっと形が…すみません……。でも、姉さまが最後にこれをくださったおかげで、離れ離れになっても姉さまを感じられました。名残借しいけれど、姉さまの物だから、返却しなければと思ってお持ちしました」
はい、と差し出されたスリッパを、どう処理したら良いのか分からず、とりあえず指先でつまんでぼいっとベッドの外に投げ捨てた。
何故そうするのか不思議そうなリネに、「もういらない」と言うと、何故か笑顔を咲かせてそれを拾いに行き、何度もお礼を言ってまた自分の懐にしまい直した。葵は考えるのを止めた。
リネはまたおずおずとベッドに上がってくると、元通り正座してもじもじと手先を動かしたり葵を見たりそっぽを向いたり、落ち着かない様子だった。
「もう寝るから出て行ってほしいんだけど」
「あ、はい、そうですよね、すみません…。あ、あの、姉さま、僕、とても反省していて……、反省しました。侮辱、していません。僕………、姉さまのことを、その、誤解していて、すみませんでした」
リネの頭は言葉と共にじわじわと下がっていき、土下座の直前まで来たが、途中で気を持ち直したのか、また姿勢を正して何度か息をついた。
「姉さまから許しを得ないと、夜も眠れないと思って、お許しを頂きに来ました」
「頂けると思っているのか」
眠さと苛立ちが相まって随分冷たい声色になった。言葉も端的で素っ気ない。
その声に息を呑んだリネは、ずいっと葵に近付いて、彼女の手を取った。
「あ、哀れに思いませんか。弟がこんなに苦しんでいて」
「思わない」
「もう許してください。わ、分かりました、許すのは、もうちょっと先でも良いです。だから意地悪はやめてください。お願い、反省しました。もう二度としませんから。ひ、酷いこごとを言うのをやめてください」
「あなたはお願いばっかりね」
「そんなことないです! 姉さまのお願いだって聞きます! でもあんまり謙虚で僕には何も言ってくれないから…、言ってくれれば何だってします。何が欲しいですか? 言ってください、何でもします」
「ここから出て行ってほしい」
「出て行ったら許してくれますか?! 許してくれるんですね!」
「交換条件にしないでよ」
葵は深い溜息を吐いて、リネの手を振り払った。
泣きそうな顔でその手を追ってきたが、無視して遠退き、捕まらないようにベッドの外に出た。
「ねえ、ちょっと聞いて。相手に不快なことを与えて、それを取り除く代わりに自分の思い通りにしようだなんて、最低な行いだと思わない?」
布団の上で座り込むリネを横から見下ろすと、とても小さく見える。現れた時は巨大な悪漢にしか見えなかったが、潤む瞳も相まって弱々しい。
「さっきの愛してるって言えば離れる、といい、そんなのおかしい。それはお願いを聞いているとは言わない」
「そ、それは、だって、そうでもしないと、姉さまは」
「許すか許さないかは私が自分のタイミングで決める、私の采配による。強要することではないわ。リネだって、悪いことをした人を許すかどうかは自分で決めるでしょう?」
リネは足の下にひかれている布団をぐしゃぐしゃに握りしめながら、目をうろうろと泳がせた。
「それを痛めつけたり困らせたりして詳しを強要するような………そんな卑怯者を、好きになるわけないでしょ」
卑怯者という単語にリネは素早く反応し、自分はそうではないと否定を繰り返した。
半腰になって葵を捕らえようと手を伸ばしてきたが、それをすんでで躱して、何とか距離を取った。リネは顔からべちゃりと床に落ちたが、屈することなく起き上がってきて、ベッドから滑り降りると、自分がいかに相応しい弟か語りながら近付いてきた。
「座って」
葵はそんなリネの前にどすんと椅子を置くと、指で命じた。
向き合うようにもう一つ椅子を用意すると、リネより先にそこに座った。戸惑うリネにもう一度指示すると、鼻をすすりながらも大人しく椅子に腰掛けた。目ばかりか鼻もおでこも赤らんで、少し鼻血も出ていた。
それを指摘するとリネは袖で乱暴に鼻下をぬぐい、小さく「出ていません」とだけ言った。
しばらくシンとして、リネの呼吸音が落ち着いてきた頃に、葵はゆっくりと話し始めた。理詰めでいけば、理解できないわけではないと言葉の端々で理解していた。まるっきり頭がおかしい相手ではない。
「自分のやっていることが脅迫と同じだって分かってるでしょ?」
「ちがいます。姉さまを脅迫なんて、そんなことしません。僕がそんなこと、するわけないです。姉さまをこんなに、こんなに」
また吐息が荒くなり、カタカタと震え出したのを見て、葵は爪で音が出るようにトントンと机を突いた。
リネは肩を跳ねた後に静かになった。
「本当は分かっているよね? あなたはこういうことが嫌いで義賊になったんだもの」
なるべく使しい言葉を選んで、相手を刺激しないように―――。
とにかく二度とこんな無理矢理な"商談"が発生しないことを期待して、その為にはこの男に分かってもらうしかないと、その為にはきちんと一から説明するしかないと腹を括っていた。
「私相手じゃなくたって、いつもならそんなこと絶対にしないけど、混乱してやってしまったのよね?」
「……! ね、姉さま…!」
はっきり言って、葵には慈愛の気持ちは全くなかった。
この時間をなるべく穏便に、なるべく早く終わらせたかった。
結果、良い姉を演じていたかつての自分を思い出したのだった。
「寝ているところに侵入されるなんてとっても怖い」
「………はい…」
「スリッパを返却するのだって、朝になってからでも良かったはずでしょ?」
「あ、会いたくて。我慢できなくて………」
「罰で牢屋に入れられたんだから、それは我慢しなくちゃ」
「ね、姉さまが、一秒ごとに俺を嫌いになっていると思うと、と、とても耐えられなくて」
「…………そんなわけ、ないでしょう」
―――もともと大嫌いなんだから。
「姉さま…!」
決定的な言葉を言わなければ、自分は悪者ではないと、一度良い姉を演じて以来、葵は常々自分に言い間かせてきた。
涙をボロボロ零して明らかな好意を向ける相手に対しても、罪悪感を感じるべきではないと。
「分かったら、交換条件なんて出さず、今日はもう牢屋に戻って」
「…はい。姉さま、すみませんでした」
リネは改めて深々と頭を下げて、懐からスリッパを取り出してぎゅっと握りしめた。
背中を少し小さく丸めながら部屋を出て行くリネを、葵はなんとなく扉まで見送ることにした。
部屋から一歩出ると、彼は少しだけこちらを振り向いて、鼻をすすった。
「鼻血はすすっちゃ駄目だよ」
葵は近くにあったチェストにハンカチが仕舞われていることを思い出して、一枚取り出してリネに渡した。
(これくらいならセーフ、セーフ。罪悪感からじゃなくて、良い姉ならこれくらいするってことで、セーフ)
絶対に自分が彼に同情したり負い目を感じたりしてはいないと信じたくなった葵は、歓喜に打ち震えるリネが歓喜の声を上げる前にバタンと扉を閉めた。
向こう側から慌てたように「おやすみなさい」と挨拶が聞こえる。
聞こえなかったふりをして、葵は頭から布団を被ると、布団をばしばし叩いたりげしげし蹴ったりしながら懸命に夢路を探ったのだ。
***
朝からかにゃんは手に縄を持ち、鎖を持ち、デザインより機能面を重視した靴を履いて、万全の体制を整えていた。
もぬけの殻であろう牢屋を覗き込んでみて、とても驚いた。
脱走して一騒ぎ起こすに違いないと思っていたのに、牢人ときたらすよすよと丸くなって眠っている。
鉄格子を叩いて朝の挨拶をかけると、すぐに目を覚まして返事をした。
朝焼けに眩しい晴れ晴れとした表情だ。これはむしろマズい。何かをやらかす嵐の前の静けさだ。かにゃんはそう確信して、リネが朝ご飯を平らげるとすぐに撤収し、この不自然な出来事をリーダに報告した。
リーダはリネを解放し、二人で話し合うことに決めた。昨日の暴れぶりが別人のように穏やかな気性に変わっていて、リーダは寒気を感じた。
しかし横から二人の面談の様子を観察していたマーロは、「いいことがあったんだね」とリネに温かいお茶を差し出した。
「そうなの! ふふ、姉さまが…、姉さまは俺のことを嫌いにならないってはっきり仰ったんです!」
「ああ、とうとう幻聴が…」
リーダは頭を抱えて机に突っ伏した。
泣き出しそうな友人の有様に同情してマーロは彼の肩を優しくさすった。リネは不思議そうにしていた。
「リネ、昨日の騒ぎはともかくとして、勝手に要人の腕を切り落としてきたことについては落とし前を付けてもらう」
気を取り直して、リーダは件の腕を取り出した。
腕は液体の中にとぶんと浸かっていて、大きな瓶の中でふよふよと浮いている。指輪は全て外されていた。
「そう、ですね。ちゃんと罰を受ければ、反省を示せるかも。姉さまにも許してもらえる!」
「あ、葵に許してもらったわけではないんだね」
すっかりそうだと思い込んでいたマーロは、二人が仲直りをしたわけではないと知って些か肩を落とした。
「許すか許さないかは姉さまのタイミングで決めるんです。姉さまの采配です。強要することではないんです!」
殊勝な物言いに、リーダは違和感を覚えた。
葵のスリッパを抱いて眠っていただけでこれほど考えが改まるわけがない。どこから取り出したのか、いつの間にか盗んでいたのか、突如姿を現した女物のハンカチの出所も気になる。
「リネ、夜に抜け出したな」
「う………、で、でも、戻りましたし………」
腰に手を当てて胸を張っていたリネは途端に威勢をなくして小さくなった。
これについては心から反省しているようだ。腕を切ってきたことの善悪については、本質は理解していなさそうだが。
「それで、どんな罰になるの? 謹慎でも、ノルマを与えるでも、何でも言って。厳しいのが良い。姉さまに成果を見て頂きやすいのが」
「腕を返す」
「ん?」
薬剤の中で泳ぐ腕をリネのすぐ前に突きだして、リーダはにっこりと笑った。
「王子に腕を返す。お前には王子の意識を奪ってここまで連れてきてもらう。どうやるかは自分で考えるんだな」
実行は今日の夜。
プロットが立ったら17時までに報告しろ。
そう言ってリーダはリネを部屋から追い出した。
外にはかにゃんを初めとした野次馬がたくさん居て、リネが出てくるなり蜘蛛の子を散らすように端から居なくなっていった。
リネはその内の一人を捕まえて、助力を求めながら、床を引きずられていった。
***
リーダがばっさり立てた計画はこうだ。
1.王子を攫ってくる。
2.王子の腕を結合する。
3.王子を返す。
これを王子の意様を失っている内に行ってしまおうという算段だ。
一日だけ腕がなかったことなど、熱砂が見せた集団パニックということで片付けてしまえと言いたい。
あまりにも雑すぎると昨夜の内に散々文句が出たが、リネはとても綺麗に腕を切り取っていたし、船医のハムの技術力があれば元通りにくっつけられるだろう。もちろん痛みはあるので、エルロイに超局地的に長く効果が続く秘蔵の麻酔を使用してもらう。
処置はともかく彼の輸送はリネが自分で考えて、自分で行う。
それで今回のことは手打ちとすると決まったわけだ。
途方に暮れたリネはたまたま捕まえた足の持ち主―――梁に助力を求めることにした。
「一回忍び込んでるでしょ、助けてよ!」
「いーやーだーよ! 何で俺がそんなこと! めんどくせえな!」
「お願い、お願い! 昨日のローション弁償するから」
「えっ、マジで?」
梁はすぐに動きを止めて、自分が持っていたローションの価値や数について事細かに説明し始めた。
そしてもうーつ、スペクタクルローズの香りがする高級ローションを要望してみると、リネは二つ返事で了承したため、梁は喜んでリネに協力することを承諾した。
その様子を後ろから眺めていたかにゃんも、自ら協力を申し出てきて、ついでにダンの襟首を掴んで輪に加わった。
「俺は隠密行動は得意じゃねえんだよ」
「三谷に協力してもらえないかしら」
「水野のこと?」
「ニンジャでいいだろ、もう」
「ニンジャは船長の言うことしか聞かないから、無理だよ」
「こういうのはタールマギの専門なんだけどなあ」
「あいつもリーダにべったりだからな。リネの尻ぬぐいなんて手伝わねえだろ」
四人で小さく輪になり、廊下に座り込んで始まった作戦会議だったが、気が付くとちらほらと団員が集まってきて、横から前から後ろから口を出してきた。
「リーネ、最強の助っ人連れてきたぜ」
階段を駆け上がって走り寄ってきたのはシェリマニマーニという男の団員だ、染と気が合うのか、大抵二人で行動している。
彼の後ろに手を引っ張られて息を切らす葵が見えて、リネは即座に立ち上がり瞬時に近付くと男の手に手刀を落として跳ね除けた。
「姉さまは怪我をされているんですよ! 乱暴なことを! というが任務にねえさまの手を借りるつもりはありません。姉さまの手を汚させるわけにいかないでしょう! こんな清廉潔白華美可憐まるで天使な方と行動を共にしては我々としても気が取りますし、ば、罰を受けているところを見られるなんて、格好悪いし………」
言葉を失っていくリネの後ろから、葵は顔を出して廊下の様子を見た。
かにゃんがこちらに駆け寄ってくるのが見えて、葵は小さく手を振った。
「話は聞いたわ。元通りに腕を返せるなら、そうすべきだと思う。城の中についてはまだよく覚えているし、やれることであれば―――」
「てっ、手を貸してくれるんですかっ! 俺の為に! ああ、そんな、信じられない。昨日から夢のようなことが起こり続けていて、俺は、俺はもうどうしたら」
内ボケットから取り出したハンカチを両手で強く握りしめて、リネはそこに顔を埋めた。
真っ赤な耳が髪の隙間から覗いている。
深い深い深呼吸を繰り返すその姿は異様の一言で、間近で見せつけられたかにゃんとシェリマニマーニは青ざめて一歩距離を取った。葵にとってはもう日常茶飯事に感じられたが。
シェリマニマーニから話を聞いて、この腕の責任を少しばかり感じていた葵は、贖罪が出来ると考えていた。
彼らに手を貸すなんて全く有り得ない話だが―――。
(私の一言が、あの人の腕を落としてしまった。相手に対する感情は別として、協力する彼らへの感情も別として、この落とし前はきちんとつけないと)
葵なりの責任の取り方を追求した結果だった。
何度も今回だけと言い聞かせて、緊張する心を慰めていた。
周囲の団員たちが、名実共に我々の仲間になったのだと、頷き合っているのも知らずに。




