砂の選択6
地下道を入り組んだ設定にしているのは、牢屋に入れる罪人の逃亡阻害のためだ。
しかしそれは表向きで、主たる理由は一部の限られた者しか知らない王族の"遊び部屋"の場所を知られないため。王が替わる度にいちいち王宮をリフォームするのと同様に、地下道もそれにあわせてどんどん道が加筆修正されており、牢屋を見張る衛兵も全容は知らない。逃い込んだ者は"遊び道具"にされてしまう。
善き王にはストレスがつきもの。
常人には想像も付かない多大なストレスを発敗する為に、常人には真似できない行いが許されるのは、王族の特権だ。
ポルトハーバート・モートの王族は、代々そう信じ、言い聞かせてきた。
しかし、それがどれだけ人から非難されることなのか分かっている。万が一、国の民に地下の"遊び"が知られたら、どれだけの反感を買うだろう。過去に例のないその事態を、自分の代で決して起こしてはならない。ハーメドはそれ故、東屋に落下した客人の居場所を探すのに必死であった。
「ばかっ、右に決まってるでしょ! 声左からするじゃん!」
「でも今光が左にいったじゃないですか!」
「わーだって間違うことある! なにさ! ここまでこれたのはわーのおかげって分かってんの?!」
「分かってます。感謝。ありがとうございます」
「べっ、ベっ、ベ、別に良いけどお?」
背の高い楽器とたまに存在が曖昧になる頼りない細い弦を抱えて、葵は足早に土の道を進んでいた。
手や光や声から指示を受けて歩みを止めずに来た。身を隠す為に飛び込めと言われた先が、えげつない数の刺がついたベッドがあった部屋だったり、天井から垂れたロープと小さな椅子だけが中央に添えられた部屋だったり、何の変哲もないけれど壁一面に小さく文字が書かれた部屋だったり、もう葵の心は死にそうだった。写真がずらりと飾られている部屋に身を隠した時は、恐怖半分にその写真も見てみて後悔した。笑顔満面の写真の隣に、同じ人物の苦しんでいる顔、泣いている顔、そして恐らく―――死亡した時の顔と思われる写真が、整然と飾られていた。それが何十人、何百人分、宝石で飾られたバーテーションに隙間なく貼られているのだ。葵の逞しい想像力はみるみるうちに恐ろしい映像を脳内に呼び起こし、激情に駆られた葵は写真を乱雑に引き剥がしてバーテーションをめちゃめちゃに破壊した。笑顔の写真だけは綺麗な状態で残っているのをどこからか見たのか、「お前、意外と冷静だな」と天井から声がした。
「もうこの国から出たくて堪らないです」
「同感。気持ち悪い」
もう牢屋が近い、合流できるよ。
暗がりのどこかから聞こえる声に安堵を覚え、恐怖によるものなのか、疲弊によるものなのか、震える足を鼓舞して光の方へ走っていった。
しかし―――
突如隣の壁が激しい音を当てて粉々に吹き飛び、その奥から腕が出てきた。
褐色の太い、筋肉質な固い腕だ。辛うじて腰を屈めて走り抜けたので掴まれることはなかったが、突然の出来事に体勢を崩した葵はよろけて倒れ込んでしまった。手に持ったキィを離すまいと片手で落ちていく全身を受け止めたせいか、手首に鋭い衝撃が走り、じわじわと痛みが広がってきた。振り向くと石の壁を砕いて生まれた粉塵の中から屈強な男が現れた。目は細く、聞いているかどうか、どこを見ているのか分からない。肩から二の腕にかけて弾けそうなほどぱつぱつな筋肉がその存在を主張していて、足も、腹も、胸も、首も、どこもかしこも葵の二倍も三倍もありそうなボリュームだ。
「見つけました」
筋肉で潰された喉から絞り出したような低い声が聞こえてくる。決して大きくはないのに、この空間を支配するような声だ。
「よくやった」
男の後ろから、煌びやかな装飾に飾られた男が出てきた。
白い上品なターバンから垂れる手入れの行き届いた長い長い黒髪。彼はこの国の他の民に比べて肌は白い。暗い空間に、白い肌はぼんやりとお化けのように浮かびあがる。
「ハーメド、王子」
葵はなんとか立ち上がって、一歩後ろへ下がった。
膝が今にも笑いだしそうだ。
心臓ははち切れそうで、自分が緊張していることを自覚させられる。無意識のうちに、リストバンドを力の限り握りしめていた。
「葵、キィが欲しかったのか? そう言えば良かったものを。私はもう一本持っている者を知っている。お前が望むなら、そいつから買ってきてやったのに。泥棒とは悪い女だな」
ハーメドは今日の昼に城を案内してくれた時と同じように、太陽のような笑みを浮かべていた。
後ろの従者が持つ松明が揺れる炎の中に彼の笑顔を映し出す。
この道中、彼とは何度かニアミスしていた。本当にハーメドなのかと疑うほど低くドスの利いた怒声を何度も聞いていた。
「お前も、あの牢屋の奴らの仲間だったのだな」
「それは違います」
屈強な男と、従者の男が二人、そしてハーメド。
この四人から逃げる方法をひたすら考えてみたが、思いつかない。ただ地下を彷徨っていただけなら言い訳のしようがあるが、キィを持っているのだ。泥棒呼ばわりも致し方ない。
「葵、この地下道を散策でもしていたのか? 迷子になってしまったのか。よしよし、俺が案内してやるぞ」
ハーメドの口調はいつも通りで、尊大な中に優しさが潜んでいるような声だった。しかし今やもう恐ろしさしか感じない。
「いろんな部屋を、見ました。あれは何なんですか」
「そうか! どうだった? 首つりの部屋は見たか?」
彼が動揺して、口止めでも要求してきて、私を素直に逃がしてくれたら誰にも言わないと約束させようと目論んでみたが、葵の拙い作戦は泡と消えた。上の方から小さく「雑なことを」と蔑みが開こえてくる。
心を揺らすどころか、共有できる趣味でも見つけたように、ハーメドは笑顔を咲かせて声を弾ませた。
「く、くびつり」
あのローブと椅子だけはやっぱりそうなのか。思考を無理矢理停止して出てきた部屋が思い出される。
「東屋から落ちていったと聞いたから、子供部屋を見たんだろう? あそこはまだ掃除が済んでいなくてな。どうにも腑抜けが多い。赤子の声が聞こえるとか言うのだ」
「ああ、なんてこと…」
葵は抱きしめたキィに顔を隠した。
よもやと思っていたことが事実だと本人が認めたのだ。
「葵、俺はお前を玩員とするのはもったいないと思っているのだぞ」
黒い瞳が蠱惑的に歪み、真っ黒な瞳が炎の中で燃えている。腰を曲げて覗き込んでくる姿は妖艶であまりに現実からかけ離れていた。
「お前となら、一緒に"遊べる"。そう思えた女は初めてだ。お前にもとびっきりの楽しみを教えてやる。最高に興奮するぞ」
絶望や焦燥や恐怖や憐憫が続々と耳から喉へ頭部へ足の先へ走っていくような不快感を感じて、やがて怒りを覚え始めた。
どうにも悶々として落ち着かない。
悪いことをしていると分かっているからこんな風に隠しているくせに、罪悪感を欠片も見せない笑顔を平手で叩いてやりたい。
「キィを扱う緑蛇の一族は、襲撃に遭い住んでいた場所を失ったと聞きました。そもそもはあなたが泥棒したのではありませんか?」
「? 何を言っているんだ?」
心から疑問を感じている様子に、葵は的外れなことを言ってしまったのかと自分の発言を悔いた。しかし―――
「あの楽器や音色が欲しいという者が何人も居たのに、金も山ほど積んだのに、なしのつぶてだったあいつらが悪いのだ。私はわざわざもらってやったのだぞ。この私が、恋人という立場で迎えてやったのだ。それを感謝もせず、奏でもせず、泣いて暮らすつまらない女であった。まこと蛇のような細っちょろい体で―――いや、あの体つきは唯一無二である。とても楽しい夜を過ごした」
つらつらと滔々と語る彼は炎が見せた幻覚のようだ。
葵の心はもう激しい感情でいっばいになり、涙がせり上がってきたが、この男の前では決して泣くまいと言う意志が涙ではなく言葉になって飛び出していった。
「信ッじられない! わー! 最低な男! ありえないんだけど! わーわー! 生きてる価値がないんだけど! わー! 田中! やっちゃいなさい!」
「は? 持ち主でもないのに命令すんなし」
今まで感じたことのない怒りに襲われた葵は思いついたままを叫んでみたが、当然いきあたりばったりな言葉を並べてみただけだ。
空中に溶ける声だけの誰かさんも呆れたように言葉を返しただけ、のように思えた。
しかし天井にぽっかり穴を開けて現れた細い手は最後尾に立つ男の首にするりと巻きついて、音もなく後ろにくるんと曲げた。
先ほど石の壁を粒と化した屈強な男は膝からどさっと崩れ落ち、前にいた二人の従者に向かって倒れた。
松明を振り乱しながら叫ぶ従者の異常にハーメドも気付き振り返る。その時には既に従者も二人、頭が首からスパンと切られて、今にも地に落ちるところだった。
「ひええええ」
「何でお前が叫んでるんだよ」
その様子に誰よりも怯えたのは葵だった。
よもや先ほどまで自分の背を撫でてくれていた包帯まみれの細い手が、あのぶっとい首を180度回転させるとは思いもしなかった。
手はすぐにハーメドに巻き付いて、彼を天井まで持ち上げた。ハーメドも腰から抜いた短剣を手に差し向けたが、確かに当たったはずなのに、全属に当たるような甲高い音を立てて弾かれてしまった。天井から現れた二本の手は片方がハーメドの短剣を構えた腕を、片方がハーメドの首を締め上げて、空中で攻防を繰り返している。
あんな細い手のどこに、大の男を一人釣り上げる力がこもっているのか、葵は不思議に思った。
「なにボケッとした面してんのさ。走って! 早く!」
「え、あ、は、はい!」
「まっすぐ行って次を右、真っ直ぐ、右、左、左、真っ直ぐ、真っ直ぐ、右、左、右って行って!」
「え? なんて?」
「本当に馬鹿なの? はい、ダッシュ!」
田中の声は暗号にしか聞こえなかったが、とにかく走り始めた。
とりあえず次が右だったことを覚えていたので右に曲がり、後はもう勘だ、と思っていた。しかし次の岐路に差し掛かろうという時に、とても遠くの方から「右の次は真っ直ぐだからな!」という声が聞こえてきた。
葵もできる限り大きな声で返事を返して、勢いを込めて突き進もうとした角から、半裸の兵士が飛び出してきた。
あちらもこちらも驚き互いに大きな声で威嚇し合うと、葵は思いっきり持っていたキィを男に叩き付けた。反射神経には自信がある。
しかし重量のないキィの威力は低い。男は驚いただけでさほどダメージは受けていなさそうだった。葵も、これ以上叩いたらキィに穴が空いてしまうのではないかと不安に思い、怯んだ隙を突いて再び走り出した。
「何で追っ手が増えてるのかなあ??」
「ああ、田中さん! ご無事でよかったです」
「そこは右! 記憶力もないとか鳥かよ!」
「いや、ほんと、あなたがいて良かったです」
葵はキィと弦を小脇に抱えてリストバンドを力強く撫でた。
次の曲がり角で指示する声は、ちょっと震えて弱々しく、照れているように聞こえた。葵はリストバンドにも撫でられて嬉しいという感情があることに感動していた。
「姉さま!!」
「マーロ!」
木で出来た分厚い扉を押し開けると少しは見慣れた色に変わった。
最初に投げ込まれた牢屋だ。鉄格子に何故かマーロとリネが抱擁している。その隣には何故かかにゃんも見える。
「かにゃん、どうしてここに」
「葵、あんたも無事だったのね! さ、上から出るのよ」
「でも牢屋に入るには鍵が」
「葵、リストバンドをこちらへ」
「あ、リーダ、田中さんをありがとうございました。本当に助かりました」
葵はうやうやしく鉄格子の隙間からリストバンドをリーダに渡した。その時、かちゃん、と音がして、牢屋の扉が開かれた。
すかさずリネが葵の手を掴み、中へ引きずり込む。
「えっ、何で」
「姉さま、早くこちらへ、ああ、会いたかった。会いたかった。姉さま。信じていました。来てくれるって。嬉しい。手を、手を貸しください。僕に抱きついて、あ、いや、捕まってください。さあ、早く、早く」
「リネはいつの間にここまで気持ち悪くなったの?」
「二日ぶりに見るからそう感じるだけで前からずっとこうだぞ」
かにゃんとリーダのやり取りもなんだか夫婦漫才を見ているようで懐かしい。
上からマーク号が三つ降りてきて、それぞれに二人ずつ乗ることとした。
「帰ってきたんだね、葵。エルロイは嬉しい」
三つの内の一つに乗っていたエルロイが、ぴょんと飛び降りて葵の腰にきゅっと抱きついた。
砂漠のようだった葵の心は湖のごとく癒された。隣でリネがきゃんきゃん吠えていなければなお良かっただろう。
葵が通ってきた木の扉がどんどんと叩かれて騒がしくなった頃、葵たちは空へ戻っていった。
「葵、それは…」
「あ、これ、マーロに渡さなければいけないと思って、持ってきてしまって」
「キィじゃないか」
リーダは葵の手からキィを受け取ると、自分の背に抱きついて風に吹かれているマーロに手渡した。
空の上でキィを手にするマーロは月と星に照らされて、物語の中の風景のように葵の目に映った。
「あの王子、キィを盗んだ仲間の一人だったんだな」
「やっぱり酷い人でした! 僕は分かっていました。姉さま、何もされませんでしたか? 酷いことを。あの王子に酷いことをされませんでしたか? 今からでも行って、殺してきましょうか」
リネの問いかけに、かにゃんもこちらを見て心配を顕わにしていた。
葵は―――
「葵、僕の一族が国にいたり、したかな?」
「………ええと、」
葵は、あの国での出来事を、リーダやマーロには黙っておくことにした。
「いいえ、キィだけだった」
「そうなの」
誰もそれ以上の追求はしてこなかった。
マーロはキィを自分とリーダの間に挟むと、キィごとリーダの背に抱きついて、その楽器に頬を寄せて眠るように目を瞑った。
小さな集団は雲に紛れて警備の目を逃れ、砂漠の向こうで帰りを待つ白いドーラ号へと戻っていった。
***
「リーダは僕の一族を集めてまた集落で元通り暮らせば良いと思っているんだ」
「不遇な思いをしているのであればそう願う一族もいるのだろうけど、そうなったら僕はこの船を出て行かなければならないし、そうなったらリーダにも葵にも会えなくなるし、とってもつまらないよ」
戻って次の日、ぐっすりと睡眠を取って彼らはようやく一息ついた。
いや、葵はどうしてもと言ってリネが布団に潜り込んできて、見張り代わりにかにゃんが間に入ってきて、その状況を羨んだマーロが部屋に突入してきて、賑やかさに惹かれたたのかダンまで酒を持って来て、ぎゅうぎゅう詰めの睡眠となったので余計疲れが増したのだが。あの暑い数日間の方がよほど心地よい眠りについていた。
しかし安心感を感じて、朝はほっとした。そんな自分を自覚して頭を壁に打ち付けるなどしていつも通りの自分を取り戻したのだった。
そうして事後処理にリネが駆り出されたのを機にマーロと共に件の楽器を改めて鑑賞に来た。
リーダとマーロの二人部屋に置かれた綺麗なキィを見て、マーロは溜息を吐きながらリーダの愚痴を語り始めた次第。
「リーダはマーロのことを思って言っているんだと思うよ」
「うーん、そうかなあ。本当は僕を厄介払いしたいんじゃないかなあ」
「そんな、どうしてそう思うのよ」
「団員の人がそう言っててさ」
あからさまに肩を落とすマーロを見て葵は慌てた。
マイナス思考がいやに似合わない。
この話はやめよう。
「あ―――――、マーロって、婚約者がいたのね」
「婚約者?」
懐かしそうにキィを眺める瞳に、替話でもしてみたら気が楽になるのではと思いついた。
「ああ、番のこと?」
「つ、番?」
「僕たちの種族は一つ前に生まれた子か、一つ後に生まれた子と番になるって決まってるんだ。そう。僕の番の子のキィだよ」
マーロは手に持っていたキィを持ち上げて、装飾の部分を顔の横に添えると笑みを咲かせた。
「えっ、あっ、それ、マーロの、婚約者の方の、つ、番の方の、えっ」
「うん。この装飾は僕の番の子のものだ。キィと離れ離れになって、悲しんでいるかもな。いつか会えたら渡してあげよう。幸い葵が弦を手に入れてくれたし、僕のキィが直せるから、聞かせてあげるね」
その言葉に、葵の心臓はずきずきと痛んだ。
しかし真実を告げることはもっと恐ろしい。葵はどうにか穏やかな方へ話を持って行こうと自然と口数が増えていた。
「婚約者って言っても、じゃあ、自分で好きになった相手とかではなかったのね。もちろん、マーロの婚約者だから素敵な人だったでしょうけど」
「うん、素敵な子だよ! 外に出て、好きな人とか出来ていると良いなあ」
「え、自分の婚約者なのに?」
「僕たちは生まれた時に番が決まって、夫婦になってが当たり前だったから、外に出てみるまで、恋をしてから番になるなんて考えてみたこともなかったんだ。すっごく驚いたよ。僕がリーダのことを好きになって、リーダと子供を作る、みたいなことだよね? それって素敵なことだよね」
「えっ、あっ、うん、そうね?」
混乱しながらも葵は適度に相植を打っていた。
過去にマーロが住んでいた場所の世界観がうまく掴めない。
それでも頭の隅の方から、マーロの婚約者が子供を産んでいたことが引きずり出されてきた。これだけ付き合ってきて、まだ不鮮明だった性別がもうはっきりしている。
「でも、男同士じゃ子供は作れないのよ」
「大丈夫だよ。僕が女性種になるから」
「じょせいしゅ」
「あ、そうか…。君たちは産まれてすぐ性別が決まるんだよね。僕たちは番うまでは決まらないんだ。まだ中性種だから、僕はどっちにでもなれるよ」
なめくじみたいな、と言いそうになって、葵はきゅっと口を結んだ。
蛇も大概だが,失礼が過ぎる。
「だから、葵と番ったら男性種になるよ」
「何を言っているんだ、お前は」
リーダがマーロの影から現れて、指の先でべしっと頭の後ろを叩いた。
疲れたような顔で執務机に向かう背中が一段落を告げている。
「マーロの種族は出産すると亡くなってしまうんだ」
「え………」
「女性種は子供を一人生んで、その後死んでしまう。俺はマーロと番う気はないからな」
「フラれちゃった」
じっとりとした目つきで頬を付くリーダとは裏腹に、マーロはあははと笑ってみせた。
あの城でマーロの"番"がハーメドと子供を成したこと、あの血だまり、ソファの下の弦、綺麗に飾られたキィが、葵の心をぐるぐるとかき混ぜているのも知らずに、マーロは彼女の手を引いて部屋を飛び出していった。キィを直す道具をヤットラーに借りに行こうと。
空を映す天井は、先日の襲撃が嘘のように綺麗にガラスがはめられてすっかり元通りになった。
しばらくして梁が軽い調子で入室してきて、リーダまで真っ直ぐ進むと懐からネックレスのような物を取り出して机に置いた。長いチェーンの先にロケットが付いている。開けてみると二人の男女が描かれた小さな写真が納まっていた。
「依頼人のご夫婦だ」
「彼女、亡くなっちゃったんだって」
写真を指でなぞるリーダを、机に軽く腰掛けた梁が悲しげに見つめている。
「この国に嫁いですぐに、王子様が横取りして、ちょっとあとに少年趣味が始まってポイ。元の国に帰すなんて以ての外だから、"遊び道具"にしたみたい。お城に立っている塔の中から見つけたのがコレ」
「よく調べてくれたな」
「もうちょー怖かったよ。完璧に変装したのに、会う人、会う人ぜーんぶから『見かけない顔ね』って言われんの! ひええ。城の神官は顔を隠す装束だったから割と簡単に忍び込めてラッキーだったよ。ニンジャも手伝ってくれてさ」
「田中か」
「お呼びですか。主君」
足下から声がした。少年のような女性のような、はっきりとした聞き心地。
「田中。今回はお疲れ様」
「お疲れ様でした、主君。ちゃんと片付けしておきましたよ」
「ああ。あの国に俺たちが捕らわれていた履歴が残ったら因るからな。連絡係も兼ねさせてすまなかった。葵が日本に戻る方を選んでいたら、あのリストバンドを操って誘導してもらおうと思っていたが―――」
リーダは葵が置いていった赤い輪を手に取り、自分の腕にはめ直した。
「使わずに済んで何よりだ」
床下からのリアクションはなかった。用事が済むと、この声はいつもすぐに消えてしまう。
「なんだか嬉しそうだね、リーダ」
机からぴょんっと飛び降りた梁は床に膝を付き、机に置いた両腕に顎を置いてこちらを見上げている。
悪戯な笑みが実に彼らしい。
「葵はあの国が悪事を働いていると知らなかったのに、うまれた矛盾からあの国の王子と俺たちを天秤にかけて、俺たちを選んでくれた。リネも喜ぶだろう」
リーダは手に隠した口元を緩ませて目を組めた。
持ち主の満足げな様子に、床の下の忍びもまた、あの国での出来事を黙っておくことにした。
葵と自分、同郷の二人きりの秘密として。




