おかえりなさい
「おかえりなさい、姉さん」
開かれた扉の先は淡いピンクと白色で彩られていた。広い部屋ではないが大きな窓が開放的で、その傍には天蓋付きのベッドがある。正面奥の壁にはロリータと言って差し支えないぶりぶりのドレスを着たマネキンが立っている。のっぺらぼうのお出迎えだ。
照れたように頬を染めチラチラと顔色を伺ってくる男に反して、葵の顔色は死んでいた。
まだペラペラの布団だけが鎮座する牢屋に通された方がマシだ。目が痛まないし、この男もいないだろう。
一つ扉を挟んではいるが、その先がこの男の部屋だなんて考えたくもない。廊下に出るには彼の部屋を通過しないといけないわけだ。自分の足下から身長を超えて天井まで続いている窓は葵くらいすんなり通してくれそうだが、その先は雲の上。
「べ、別の部屋がいい…」
「何を言ってるの、姉さん。姉さんが出て行った時のままにしてあるんだ。いつ帰ってきても良いように、毎日毎日…、心を込めて掃除して…。あの、外で仕事して帰って来れない日は出来なかったけど…」
俯いて喋らないで欲しい。自分より背が高いから顔がよく見えてしまう。うっかり目が合うと花が咲いたように笑顔になって、やがて焦って逸らす。
いっそはたいて逸らせられたらどれだけスッキリするだろう。
でもこいつは犯罪集団の一員だ。今は気まぐれで親切にみせているけれど、今まで何人もつれ込んで飽きたら殺すような残忍な性格をしているかもしれない。下手に抵抗するのはやめておこう。
「じゃあ家具をそっくりそのまま別の部屋へ」
「いやだ!」
激しく両肩を捕まれ無理矢理向き合わされる。
「なんでそんなこと言うの! お、怒ってる? 掃除を怠ったから? ごめんなさい、謝るから、謝るから別の部屋なんて行かないで」
掴んだ肩に額を載せて懇願してくる。
やめろ、鼻先が胸に当たる。貧乳でよかった。触れる程度で埋もれるほどではない。このくそやろう。
「わ、私はー、ほら…、一応ここの人間じゃないから…牢屋とかに入れた方が…、そのーあなたの立場的にも」
考え抜いてなんとか理由を搾り出す。
肩から顔を上げた彼は驚いたように目を見開いていた。先程まで青かった頬がまた赤い。そして近い。
「お、俺の立場のことを考えて…? 本当に優しい…! さすが姉さんだ!」
ぎゅうっと抱きしめられる。若干持ち上げられて爪先立ちになる。腕から腰から、みしみしと音がする。
「いった」
「あ、すみません! すみませんすみません!」
リネは慌てて離すと距離を取った。
少し乱れた前髪越しに腕をさする葵を惚けたように見る。その瞳にゾッとした。
一体どうしてこうなったのか―――、葵はあの一生で一番酷い一日に思いを馳せた。
ただ免許の更新に、5年にたった1回限りのイベントに、警察署を訪れた日だった。
順番待ちをしていたロビーに迷彩服を着て顔を隠した人々が雪崩込んできて、手を上げろだの床に這い蹲れだのと命令してきた。手には大きな銃を構えている人もいた。
警官らしき人々が、一般人はこちらへ、と事務所の後ろに隠してくれたが、それでもとても怖かった。
彼らは電話を繋がせて何処かへ何かを要求しているようだった。
一人、迷彩服の男が受付で震えていた制服姿の女性をつかみあげた。
「長引きそうだからお相手しろよ」
若い女性だ。周囲の勇敢な何名かが止めに入ったが、その内の一人が撃たれた。鮮血にパニックが走る。
「何してるんだ。人質に乱暴はしない、そういう約束で手を組んだはずだ」
2階からまた違った服装の、黒いスカーフを巻きつけた男が降りてきて、銃を振るう男の手を掴んだ。一瞬、女性を捕えていた迷彩服の男の意識もそちらに向いた。
葵は今までで一番の勇気を振り絞って彼女に近づくと、思いっきり引っ張った。
弾みで男から手が離れ、もつれる彼女を必死に衝立の奥へ連れて行った。彼女は泣いていた。共に奥で隠れていた子供も母親にしがみついて泣きだした。
「どの女だ! そこにいる女は全員殺してやる!」
そんな声が近づいてきた。
私の責任だ。
葵は自分を責めた。震える膝を押さえつけながら立ち上がり、「私よ」と衝立から姿を現した。
「偉いな~おねえちゃん。ご褒美に可愛がってあげような」
男が腕を振り上げた。殴られる! 咄嗟に目を瞑るが衝撃が起こらず、恐る恐る目を開けた。迷彩服が床に倒れ口から泡を吹いていた。
「おねえさん…」
男が居たはずの場所に、さっきの黒いスカーフが見えた。青い瞳が真っ直ぐに葵を見下ろしている。
彼の仲間のはずだが、さっきも銃を撃った男を咎めていた人だ。もしかしたら、助けてくれたのかもしれない。葵は反射的にお礼を言おうと口を開いた。
「ど、どうも…」
「姉さんだ。やっと見つけた。やっと、やっと見つけた」
青色の瞳が涙で潤み、ぼろぼろと零れ始めた。口元を覆っていたスカーフを首まで降ろし、男は葵の肩に手を置いた。
「姉さん、俺です。リネです。ああ、ああ、ずっと探していたんです。ずっとずっとずっとずううーーーっと、あなたを探していた」
感無量といった様子でがばっと抱きついた。
弟の存在なんて聞いていない。自分は生まれつきの末っ子気質だ。成人して働きだしてからも実家の味が未だに恋しい末っ子だ。
周りの人質達も困惑してこちらを見ている。
男は「ねえさん、ねえさん」と回らないろれつで一生懸命何かを言いながら何度も何度も力を締め直してくる。涙か涎か分からない液体で葵の肩はべったり濡れていた。
結局何かしらの解決があったらしく、数時間後に男たちは鮮やかに撤退していった。
この時、葵は近くにいた警察官に、スカーフの男は仲間らしき者たちに、それぞれ引き離され無事に葵は保護された。
念のために一日入院することとなり、窓から夜空を眺めているうちに深い眠りについていた深夜、窓から男が現れた。
「遅くなってすみません」
もうスカーフで顔を隠す気はないようだった。感極まった顔で葵を抱き寄せると、そう耳元で囁いた。
半ば夢だと思っていた寝ぼけ眼でもさすがに覚醒する。
葵は声を上げて助けを求めたが、その時にはもう体は宙に浮いていた。頼りなげな細い手すりがついている、人一人がやっと乗れるかどうかの丸い台が浮いている。男はしっかりと葵の腰を抱き寄せると、その乗り物を大きく傾けて上昇した。
同室の患者がナースコールをしてくれたらしく、看護師さんが窓からこちらを見上げているのが小さく見えた。
台はぐんぐんと上がって行き、星空の中をしばらく遊泳したあと、大きな飛行船にたどり着いた。真っ白な楕円形のその船は音もなく空に浮かんでいる。大きな雲に囲まれていて、目前に現れるまで葵もその存在に気づかなかった。
楕円の下端がぱかりと口を開けて二人を飲み込む。
そうして葵は、この可愛らしい部屋までたどり着いたのだった。
「迎えに来ました」
言葉と共に開かれたあの窓が夢だったらよかったのに。
あの漂った空が、夢だったら。
「心配しないで、絶対に落としたりしないから」
ぎゃーぎゃー喚いて台を揺らす葵をリネは何度も優しく諌めた。腕は細身の割にしっかりとしていて、いくら暴れてもびくともしなかった。
「俺は絶対に、もう二度と、あなたを離したりしないから」
近くなる月の明かりとは裏腹に、彼の青色の瞳は海の底のようにどんどんと黒ずんでいくように見えた。
おかえりなさい、葵。いましばらくは、この空が、あなたのおうち。