いいわけ2
エルロイが出てきたということは、治療終了の合図だ。
中で何があっただろう。ちょっと騒がしい時もあったが、ゆったりと出てきたところを見るに、落ち着いた状態になったということだろう。
「やあ、かにゃん」
軽く伸びをした後、エルロイは扉のすぐ隣に立っていたかにゃんに気がついた。
「エルロイ、容態はどう?」
「命に別状がないところまではきたみたい。ハムは休んだ」
ハムとは、このドーラ号にいる唯一の医師だ。エルロイの優秀な薬はちょっとした怪我や病は治すが、手術を要するような大怪我となると彼のカが必要となる。変わり者で医務室の奥の自室からほとんど出てこないが、団員全員の命を預かる重要な存在だ。
「そう、よかった…」
話は終わったようだが、かにゃんはその場を立ち去ろうとも、医務室に入っていこうともしなかった。
「リーダの指示で葵は残っている」
何故分かったのか、とでも言いたげにかにゃんの大きな瞳が見開かれた。目は口ほどにものを言うというが、彼女の場合は態度のすべてがものを言っている。
「葵はリーダに脅されずともリネの手を取った。エルロイが頼ますずとも彼を落ち着かせる努力をしていた」
「そ、 そうなの」
かにゃんの燈色の瞳はみるみるうちに水浸しになっていった。先ほどまでも大泣きしていたのに、 よくもまあ休の水分が残っているものだ。エルロイは感心してその目をじっとりと見ていた。
「私、葵に謝らなくちゃ」
かにゃんは狭い範囲を右に左にうろうろしながらそう言った。
「どうして?」
「全然彼女が悪くないことを責めちゃったの。 完全にハつ当たりだったわ」
「ああ、そうなの」
通常の精神状態ではなかったことは誰の目にも明らかだった。散々泣いて、葵が医務室に来る頃には混乱も涙と一緒に流れていたらしかったが、後ろで我らのボスがらしくないことをしていたのに驚いてそれどころではなかったのだろう。
「今は安静の時間。かにゃんも休んだ方が良い」
エルロイは戸惑う彼女の背を押して、二人でその場を立ち去った。
***
腹から下が土に埋もれてしまったのかと思うほど重たい。胸にも得体の知れない塊が乗っているように息苦しい、 吸った空気がなかなか胸まで届いていないように感じる。口元を誰かに塞がれている。でもその手は甘く爽やかな香りがして、このまま鼻まで塞いでくれても構わないと思えてしまう。吐いた息が手に当たって戻ってくる。熱い息は自分が吐いたと思えないほど優しく顔を包んでくる。
誰の手だろう。
今まで知り得なかった芳しい手だ。体全体が鉛のようで、指先すら硬直してしまっているようだが、なんとか瞼は動く気がする。
誰の手なのか、 それだけ知りたい。
それだけ知ったら、手の先にいるのが死神でも構わないんだ。
「………………姉さま…?」
ぼやけた視界はゆっくりと目前の彼女にピントを合わせた。
不自然な体制でぐったりと項垂れるように首を落とす女性の頭が見える。
葵は手をリネに取られたまま、ベッドに乗せた肘に休重を預けて眠ってしまっていた。突っ伏すだけの広さがなく、頭が浮いてしまう苦しい体制だったが、睡魔は体の節々が上げる悲鳴よりも強かった。
(姉さまが、俺の手を握っている。お、 俺の寝顔を、見に来たんだ)
体の重みやら痛みやら昨日の記憶やらはすっかりなくなっていた。今まで姉の寝室に忍び込むことはあれど、逆はない。それが今、自分が寝ているところに姉がやってきて隣で寝ているというのだ。しかも手まで握っている!
リネはぐいっと体を姉の方へ近づけた。
繋いでいた手の上に頭がいくことになってしまうので、肩や手に力を込めて姉の負担にならないよう注意した。ちょっと前進しただけで、俯く姉の顔の真下に自身の頭を滑り込ませることが出来た。
しばらく、そこから姉をまじまじと鑑賞していた。一定のリズムで寝息を吐く姿が美しい。
変な体制に肩は震えるし、なぜだか腹のあたりがじくじくと熱してきた気がするが、そんなことはどうでもよかった。
少し心に余裕が出てくると、姉が両肘をベッドの脇ギリギリに乗せて体を支えていることが分かった。
(この肘を片方落としたら、この顔が俺のところに落ちてくるかも…)
想像した途端、脳に血液が勢いよく上昇したのを感じた。
(そっ、そっ、そうなったら、それは、 姉さまからキスされたと言うことになるのでは…? なるに違いない!)
脳を満たしすぎた血が、いつも悪いリネの頭をより悪くしていた。
期待が体中を燃やしている。全身が心臓になったように鼓動する。じりじりと少しずつ姉の肘に手を近づける。
ちょっと押せばこの瞳が、この唇が、自分に降ってくる。
下腹部が熱い。
荒い呼吸を繰り返す度に血がどばどばと出ていくようだ。
「実際、出てるよ」
背後から聞き覚えのある落ち着いた声がした。
「言っておくけど、全部声に出てるからね」
視界が瞬時に暗間に落ちたかと思うと、頭をぐいっと後ろに引かれ、枕に沈むと共に首に細い小さな衝撃を受けた。
何が起きたのか考える暇もなく思考は停止し、瞼は意思と関係なく閉じられて、意識はどこかに消えていった。
「…………さいあく、傷が開いてる」
葵を呼ぶのも一長一短だな、と、 リネの荒ぶる独り言を最初からずっと聞いていたエルロイはしみじみと思った。
とぷん、と水中に落ちていくような感覚の中で、 リネは考えていた。
姉はどうして自分のところに来てくれたんだろう。
そういえば、今日は自室で寝ていなかった。
仕事に行って、失敗して、怪我をして……、ハムの治療を受けたのだとしたら、医務室にいたんじゃないだろうか。
じゃあ姉さまは見舞いに来てくれたんだ!
えー! うれしい! 俺のことを心配してくれたんだ!
「うふふうふふふふふ」
「患部が震動している!」
「黙って治療して、 ハム。 葵とリーダが起きちゃう」
「大丈夫だ、 俺はもう起きてる」
リーダは小さくあくびをすると、上着を脱いで葵の肩にかけた。白いジャケットを毛布代わりに、 葵はすやすやと眠っていた。
「リーダももうちょっと休んだ方が良いんじゃない。葵もこれだけ寝ているし、放っといても大丈夫」
「いやしかし」
「心配なら葵に睡眠薬打ってあげる。三日後までぐっすり夢も見ない」
「やめろ」
「せっせっせっせっ」
「何を背負っているの、ハム」
「拙宅でよければリーダにお貸ししますがねえ!」
手元の器具をがちゃがちゃ振るわせて、歯をかちかちと小刻みに鳴らしながら、口角を上げてハムがリーダを奥の部屋へ誘った。不器用な誘いに乗ることとしたリーダは医務室の奥に彼と共に下がっていき、エルロイはその姿を見送った後、ちょっと葵の顔を覗き込んでから自分も医務室を去った。
思えば、昔から姉さんはいつも俺を守ってくれた。
風邪なんぞひこうものなら、父親の鉄拳と母親の罵声が飛んできて、「稼いでくるまでは家に入れない」と放り出されたものだ。そんな時は姉がいつも手を引いて、お金を稼げるところまで連れて行ってくれた。両親から手酷く折艦された後は慰めてくれて、同じ布団で寝たものだ。
そうだ、姉さんはいつも優しかった。
俺には姉さんしかいなかった。
俺を置いてどこかに行ってしまったのは何かの間違いだ。気まぐれなところがあったから、ちょっと気の迷いが出てしまったに違いない。
そうだ、姉さんはいつも優しい。姉さんはいつも俺のことを考えている。いつも俺と共にある。
母さんが俺を吊るしても父さんが俺を殴っても姉さんだけは違う。姉さんだけは俺のことを思っている。いつも俺の為にいろいろ考えている。俺を想ってる、愛してる、愛してる愛してる、姉さんは俺を愛しているんだ!
「リネ!」
今まで見ていた景色が眩しさの中に溶けて消えていった。かと思えば、辺りは暗く明かりらしいものはどこにもなくて、ほんの僅かの近場しか視界に入ってこなかった。それでもその僅かな範囲に、あまりにも美しい女性が存在した。
「ねえ、さ…」
「すごいうなされてたけど、だ、大丈夫?傷が開いたりとか、したんじゃ…。人を呼んだ方がいいかしら」
手が握られている。カが込められているようだが、まったく痛みを感じない。それどころか温かく包み込むような心地よい刺激だ。この手は殴ったり、切りつけたり、ひどいことをしない手だ。
もう片方の手が伸びてきて、自分の頭の下に敷かれていた布巾で顔やら首やらを拭いてくれる。
汗をかくのはとっても不快なことだったのに、今は水分が尽きるまで出続けてほしいと思える。こんなことをしてもらえる日が来るなんて、考えたこともなかった。
これは誰だろう。姉さんじゃない。
「頼むから私の目の前で死なないで。寝覚めが悪いから。別に心配してるとかじゃなくて、目の前で死なれたら後味悪いからよ。いいわね?」
そういえば、体中痛みでいっぱいになっていた時にも、誰かがこうして手を握っていた気がする。
とても心地のよい良い香りがして、どうしようもなく惹かれる声がした。
真っ暗な視界が急に開けて、そこに待ち侘びた人がいた。
どんな表情をしていたっけ? 笑顔だった気がする。そうだ、 笑顔だった。微笑んで俺を見つめていた。そうに違いない。
「奥の部屋にお医者さんがいるはずだから、呼んでくるわ」
手がするりと離れていく。
そんな、あなたがいなくなったら、またあの家に戻らなきゃいけなくなる。
あなたと離れたら、俺はまた姉さんを探さなきゃいけなくなる。あなた以上の、 姉さんを―――
「ま、待って」
「どぅわ」
「いかないで、行かないでください。ここに居て」
「いだだだだだ、 腕はずれる、 私の腕が」
「俺を置いていかないで」
「オーケーオーケー、 薬の打たれすぎね、オーケー。 痛い。混乱しないで。無理しない、無理しない。痛い」
節々の痛みをおして肩まで掴んで縋ったら、ベッドの緑に腰掛けて腕を優しくぼんぽんと叩いてくれた。後を引くような痛みもなく、じんわりとした温もりが残る叩き方だった。
もっとやってほしい。
どうしたらもっとしてもらえるだろう。
もう一度起き上がって肩を抱き込みたかったが、体が言うことをきかず、押されるままべッドに沈んだ。全身が痺れるようで足先を動かすだけでも一苦労だ。細い腕を弱い力で掴み続けているのが精一杯だ。
「とても痛い」
「行かないで。ねえ、俺、良い子にしています。一人にしないで」
「分かった分かった。腕が痛い」
隠やかなリズムで今度は仰向けの胸を叩いてくれる。
ああ、なんということだろう。これは姉さんじゃない。
「姉さま」
俺が夢見ていた人だ。
いつもいつも、心に望んでいた人だ。
ようやく見つけたんだ。
「姉さま、大好きです。ここにいて。俺と一緒にいてください」
「分かった分かった」
「愛してる、愛してる。大好きです」
「寝て良い?」
はっきりと分かった。
あなた以上の人はいない。
探したって無駄だ。こんな人は他にいない。唯一の人だ。
「痛い! いたたたた折れる折れる! メーデーメーデー! お医者さん、助けて! 離してよ、この馬鹿!」
この人は、もしかしたら俺のことを愛していないかもしれない。でも、今はそんなことどうでもいい。俺はこの人を愛している。この人を大切にしないと。この人の望むとおりでいないと。
もう二度と、この人を一一姉さまを、離さないようにしないと。




