いいわけ1
難しい仕事ではなかった。
いつも通りのやり方で、すっかりマニュアルが出来上がっている仕事で、仲間たちの連携も問題なかった。
罠にかかった仲間を見ても、あまり焦燥はなかったはずだ。負傷したのは腕のようだったし、追手がかかってきたが軽く処置したら走って逃げれば済む話だった。
ただ、気を取られすぎていた。
ドーラ号に置いてきた姉に。
悪友のマーロも一緒に居る。
リーダは船に残っている仲間も多いし、今回は地に停泊しないから抜け出す心配はいらないって言っていたけど、それでも気がかりだった。
落ち着かなくて、手が滑って、明かりのただ中に姿を現してしまって、あっという間に血みどろになってしまった。
懐の中から飛び出したレコーダーが床に打ち付けられる瞬間、視界の端でその姿が姉そのものに変貌して見えた。
***
「見張り」
語尾にハートマークが付きそうなほど弾んだ声でマーロが部屋に入ってきた。
満面の笑みで葵の手を引くと、自室に連れ込んだ。リーダと暗い瞳の男が同時にこちらを見たが、男はすぐに興味なさそうに机に視線を落とした。タールマギだ。話したことはないが、ついこの間一時間も正座して見ていたからさすがに覚えている。リーダはマーロに軽く手を振り返して、彼との会話に戻っていった。
二人から離れた部屋の隅に葵を座らせると、「ここから動いちゃいけないんだよ。そういう決まりなんだから」と、マーロは楽しげに言った。
葵のすぐ左隣に肩をぴったりとくっつけて座ると、ニコニコと葵を見始めた。
「見張りだからね! 見ていないと」
マーロはすっかりごっこ遊びに夢中になっているようだ。
ちょっと高い位置にある笑みを見ていると、どうにも毒気が抜かれて行く。付き合ってやらなければ悪者になってしまう気がする。
「じゃあ私が逃げ出そうとしたら捕まえなきゃいけないのよ」
「もちろん! 見逃さないよ」
ちょっとしたタイミングで唐突に腰を上げてみたり、ばっと手を上げてみたりして、マーロの反応を楽しんでみた。自分の動きに反応して飛び跳ねる姿がちょっと愉快で、行動をふさぐように抱きつかれても腕を掴まれても嫌悪感はなかった。
犯罪行為には一切関与していないという先入観があるから、という単純な理由では説明が付かないくらい警戒心が湧かない。この人は緊張を和らげる魔力を持っている。
しばらくして、話しているのか黙っているのか分からないほど静かに向かい合っていたリーダとタールマギがにわかに落ち着きをなくし始めた。離れたところに居るので仔細は分からなかったが、タールマギが部屋を飛び出して行って、間もなくリーダもその後を追っていった。
「二人とも、ここにいろ。俺が戻るまで部屋を出るな。いいな? マーロ」
リーダは部屋を出る直前に力強く念を押していった。マーロは心配そうにちょっとだけ後を追って廊下を去っていく姿を見送ったが、すぐに葵の隣に戻って腰を下ろした。
「……皆が帰ってきたのかしら」
「きっとそうだね。ここで待っていよう」
落ち着かない様子が見て取れた。
白い腕がぽすぽすと葵の足を叩いたので、思わずその手を握った。叩いたのは無意識だったのか、マーロはちょっと驚いて握られた手を持ち上げてまじまじと観察し始めた。
こう見られるとちょっと恥ずかしい。
葵は握った指を開いたり閉じたりしてみた。マーロはぎゅっと握り返して自分の膝の上に置くと、「えへへ~」と小さく笑って葵と向き合った。
ちょっとは空気がほぐれたらしい。葵も取り留めのない世間話を軽く初めて、二人の間にゆるゆると穏やかな時間が戻ってきた。
そんなに時間を経たずして、廊下が複数の足音で騒がしくなった。ばたんと勢いよく扉が開かれて、軽く目を配った後、すぐさま葵とマーロを見つけた。
かにゃんは見つけるなり真っ直ぐ進んできて、椅子に座る葵の足元に膝をついて手を置いた。
「こんなこと言う権利はないって分かってる、でもお願い、リネが、リネがあんたを呼んでるの。お願い、傍にいてあげて。お願いよ」
土下座せん勢いでかにゃんが縋り付いてくる。いつも気丈な彼女のこんな姿は初めてだ。葵は思わず少し体を引いてしまった。
「リネが大怪我したの。ずっと葵を呼んでるの。お願い、一緒に来て。お願い」
橙色の瞳から流れる涙も透明なんだ、と何処かで思った。
かにゃんから壁を作るようにマーロの腕が葵の肩に回される。
「わ、私」
「酷いことを言っているのは分かっているの。でも少しでいいから、お願い。リネは私にとっては大切な仲間なの」
ボロボロと大粒の涙が流れる。
今日まで親切にしてくれた女性だ。
女性の存在を喜んで受け入れて、閉じ込められた自分を退屈させないように気遣って、何度もリネを自分に代わり制裁してくれた。
恩を返すべきなのかもしれない。リネの為とかではなくて、彼女の為だ。
「葵、無理することはない」
横からマーロの声が掛かる。
思考が一瞬停止し、胸元でかにゃんを遮る腕に少し震えながら手を添えた。
「いくら傷ついているとは言っても、葵をたくさん傷付けた人なんだから。無理に近付かなくてもいい」
かにゃんが顔を伏せて地を見ている。
「誰も葵を責められない」
マーロが僅かに力を込めて肩を引き寄せる。葵の体はほとんど抵抗することもなく、マーロの薄い胸に頭がぽすんと落ち込む。細い柔らかい腕が守るように頭を包んで、その上に頬が重ねられた。
「かにゃん、戻ろう」
部屋の出入り口で成り行きを見守っていた梁が恐る恐る近付いてきてかにゃんの肩に手を置いた。
葵の太ももの上で褐色の拳が震えている。がばっと上がった顔は涙で濡れていて、いつもきらきらと輝いていた瞳は色を失って真ん丸にこちらを睨めつけている。
「死にそうなのよ! これが最後かもしれないのに! 5年も一緒に居るのに他の仲間より、たった数日のあんただけだって言っているのに! 何が駄目なのよ! 何が嫌なのよ!」
後ろから何名か男の団員が連なってきて、かにゃんの手や足を掴んで引き摺って出て行った。彼女は絶えず何かを叫び続け、部屋を出る頃にはすすり泣きに変わりながら遠ざかった。
頭の上のマーロが小さく出て行った女性の名前を呟いた。
葵の口からも名前が漏れそうだった。
ひどく胸が痛い。押し潰されるようだ。
(そんなにひどい状態なのかしら…)
安穏な生涯で、知人が死に近づくことなど滅多にない。今朝まで鬱陶しいくらい元気だった人物が、今や息絶え絶えなど到底信じがたい。いや、受け入れがたい。
右耳に添えられていた手がよしよしと頭を撫でた。
「葵、嫌なことはしなくて大丈夫。僕は君の選択を応援するよ」
もしも誰かを傷付けてここを抜け出すことになったとしたら、一番欲しい言葉だ。安寧を得るために乱暴に扱った犠牲を、誰かに許してもらいたい。
でも何故か、今はその言葉がこころに落ちてこなかった。
ぞわぞわとしたものが腹から胸にこみ上げて、脳を侵食していく。かにゃんの涙が自分の眼球の裏にまで入り込んで、自分の目を借りて出てこようとしている。
そんな感覚の中で、葵は優しく弧を描くマーロの目を至近距離で眺めていた。先ほどまで穏やかに心を癒していた笑みが今は不安を煽ってくる。
大きな音を立てて、部屋の扉が開いた。
二人はまたしても驚いて音の方へ顔を向けた。今度はリーダが立っている。この部屋の主。
「リーダ」
「マーロ。………まだ一緒に居たのか」
マーロが葵から手を離して立ち上がり、数歩彼に近付いた。
扉の向こうに立つリーダは少し俯いて、足元を見ながら一度ぎゅっと強く目を瞑った。いつもより少し険しい顔で葵を見ると、迷うことのない足取りで歩み寄ってきた。手が懐に滑り込み、するりと出てくる。
真っ白な装いに異様に映える、鈍い黒を纏った拳銃がその手に握られていた。
「リーダ、なに、どうしたの?」
マーロも手元に気付き、一歩踏み出して体を葵の前へ置いた。
銃を左手に持ち帰ると、リーダは右手でマーロを押し退けた。乱暴と言うにはほど遠い、明らかに力のこもっていない押し方だったのが、葵の目にも見て取れる。
それでもマーロは後ろに倒れこむように仰け反り、一、二歩後退した。
「葵、一緒に来い」
銃はいつの間にか右手に握りなおされていた。
丸い銃口が目より少し高い位置に向けられている。
この道具がどんな風にして利用され、どんな風にして人を殺すのか、さすがの葵も知っていた。しかし、向けられた時の恐怖や緊迫感など、今この時になるまで知らなかった。映画で見るよりもずっと大きくて深い穴だ。
「リーダ! 何考えてるの。すぐ下ろして」
マーロが横からリーダの腕を掴む。がくがくと銃口が目の前で揺れている。
「マーロ、奥に行っていろ」
「そんなものしまって。葵が怖がってる」
「怖がらせているんだ。いいからどこかに行っていてくれ」
リーダは左手を伸ばしてマーロの頭を掴んだ。手に目が隠されて、リーダの腕を掴んでいた手を慌てて離して抵抗している。
「葵、一緒に来い。足を撃って持って行ってもいいんだぞ」
「リーダ!」
目元から手が離れずに、マーロは適当な場所を叩いていた。リーダの頭や肩や目の間近を細い指がぺしぺしとはたいているが、金色の瞳は揺れることなく葵を見降ろしている。
当の葵は、目前の黒い深淵の底に胸元に淀んでいた空気が吸い込まれていくような感覚を感じていた。いつの間にか手が背もたれを握って、力を込めて体を押し上げていた。
「マーロ、大丈夫だから、落ち着いて」
リーダの指の隙間から、マーロの瞳がこちらを見た。白い手は白い顔から離れて行き、黒い銃口に合わせて葵は歩を進めた。
「葵」
「マーロ、お前はこの部屋に居ろ」
「ぼ、僕も一緒に行く」
「マーロ、この部屋に居ろ」
後ろから聞こえるリーダの声はいつもより異様に鋭く冷たかった。
ぺたぺたとした裸足でフローリングを叩く足音が戸惑ったように止まり、蹄が鳴らすような堅い足音だけが後ろから自分の足の動きに合わせてついてくるのが分かった。
途中、テレビで見るように両手を上げてみたが、「武器を持ってないことは分かってる」とちょっと吹き出すように後ろから言われて、ぱたんと音を立てて下げた。
後ろからかけられる声に従って角を曲がっていくと、あまり葵が足を延ばさない、三階の一角に案内された。白い引き戸を横に引くと、中には大勢の団員たちが揃っていた。こちらに気付いた者から順番に隣に声をかけて、部屋に数歩足を踏み入れた時にはもう全ての瞳が葵に注目していた。
部屋の中央あたりに備えられたベッドに膨らみが見える。それを挟んだ更に奥で、真っ黒なエルロイと真っ黒なもじゃもじゃ頭の人間が器具をごちゃごちゃといじって作業をしている。手前では見覚えのある女性が泣き崩れていたが、気配を感じたのか勢いよくこちらを振り向いた。かにゃんだ。
「……、葵…? リーダ、え、どうして」
振り向いたかにゃんはすぐにリーダの手元に気付き、飛び上がるように立ち上がった。
激しく瞳がうろうろと彷徨って、手を上げたり下げたりと忙しない。
「皆、見舞いは終了だ。全員医務室から出てくれ」
静かなざわめきの後、団員たちはまばらに姿を消していった。ベッドの近くにいた小柄な団員は躊躇いを隠せずにいたが、他の団員に肩を押されて出て行った。
「あの、葵、わ、私、さっき、その、あの」
最後の最後までかにゃんは何かを言おうと真っ赤に腫れた瞳で葵の前に立っていたが、リーダが言葉を制し、ダンを呼んで彼女を引き取らせていった。
葵も彼女の姿が扉に消されていくぎりぎりまで何か言おうと努力してみたが、瞬きがいつもよりずっと多くなるだけで、口からは期待した言葉は一つも出てこなかった。
「座れ」
ベッドの横に置かれた丸い簡易な椅子に葵は腰を下ろした。
白い毛布の向こうでエルロイが点滴に入った液体を下から眺めているのが見える。その隣でボリュームのある髪を上下に揺らしながら、双眼鏡がくっついたようなデカい眼鏡をした男性が機械のようなものを人差し指を高速で叩きつけながら操作している。布団の膨らみに隠れて手元はよく見えないが、彼の向こう側に見える機械は病院などでも見かける心拍数などを表すものであることから、医療器具の一環だろうと想像できた。
枕の方には案の定、リネが居た。
厚いタオルで額から目元まですっかり覆われているが、それでも土気色と言って差し支えないほどの酷い顔色が見える。呼吸は浅く短く、何度も肩を上下している。
「声をかけてやってくれ」
背後の上の方からリーダの声がかかる。
まだ銃口が向けられているのが、なんとなくわかる。冷たい空気が出されているようだ。
「………リネ」
ずいぶん長いこと考え抜いた結果、名前を呼ぶことにした。
かちかちと爪で機械を叩く音だけが響く沈黙が続く中で、リーダは催促することもなく辛抱強く葵の一言を待っていた。
「………もう一度」
変わらず息を荒げている様子に、反応がなかったことに動揺しているのが見えずとも伝わってくる。後ろの人がどれだけ目の前の怪我人を心配しているのか、空気が教えてくれるようだ。
いつの間にかベッドを挟んで向かい合っているエルロイも、点滴ではなく葵を見ていた。
「リネ」
変わった様子はない。
ちょっと不安になって後ろを振り返った。リーダも僅かに葵に目を向けて、一瞬目が合う。銃口を向けて以来見上げたリーダの顔は、先ほどとは打って変わって頼りなげに眉を落としていた。
「鎮静剤の影響か?」
「エルロイのは麻酔と相性が悪くて使っていない」
「氏の薬は優秀です」
もじゃもじゃした髪が、細かく機械を打ち付ける人差し指の動きと連動するように激しく上下運動している。
「しかして痛みで頭が煩いなどと通常ではあり得ぬ体験を得られるのが怪我人というもの。患者もその状態かも知り得ません」
「体の内側のことで脳がいっぱいになっている。仕方ない」
エルロイは首の下に敷かれていたタオルをするすると抜き取った。汗なのか、びっしょりと濡れている。似たようなものを同じように細長く畳んで改めて差し込もうとしたので、葵も反対側から手伝おうと少しばかり首を持ち上げた。薄い服越しに体中湿っているのが伝わってくる。
無理に肩が持ち上がった違和感からか、横たわるリネが少し右肩をねじって抵抗したようだ。
(触られているのは分かるのか)
どうも怪我を負ったのは下半身らしい。先ほどから度々頭髪が爆発した彼が眼鏡にくっついた双眼鏡を布団の中に突っ込んではぶつぶつ呟いている。葵の知っている治療とは大分様相が異なるが、おそらく患部を見ているのだろう。
葵は手前に落ちている布団の端を持ち上げて、中からリネの手を取り出すと、両手で握って胸元に寄せた。
(風邪を引いた時、お母さんがこんな風にしていてくれた気がする)
片方だけはみ出た肩が大袈裟なくらい跳ねるのが見て取れる。
冷たいタオルを滑らせて、リネの頭が少しだけこちらに倒される。
「姉さま…?」
「お」
「リネ!」
エルロイが興味深そうにリネに顔を寄せ、リーダは後ろから覗き込んできた。
銃口がもう自身に向いてないことが、横目でよく分かった。もう葵に関心がないとでも言うかのように、リーダの右手は下に向いている。
「姉さま? 姉さま、いらっしゃるんですか」
「何か言葉を」
リーダに促されて、葵は反射的に目の前の男の名前を呼んだ。
「姉さま」
頭こそこちらを向いているが、額に置かれたタオルは大きくその顔を覆っていて、少しずれた程度では瞳が現れることはなかった。
リネはもう片方の手を懸命に布団から出して、体全体を声のする方へ傾けた。
「あー! あああー! 患部が消えてしまいもうした! ああー!」
ぶるんっとヤシの木のような頭が双眼鏡と共に布団から飛び出てきた。
「リネ、安静に」
「麻酔したんじゃないのか」
「リネは耐性がありすぎる。治療が終わったら鎮静剤を打つ予定」
エルロイが立ち上がってリネの肩を戻そうと手をかけるが、リネは力なく手を振り回し続けている。
仕方なく葵がその肩を押し留めようと手を添えると、すかさず空を暴れていた手が葵の肩を加減なしでつかんだ。
「うわわ」
「葵!」
「姉さま! 姉さま姉さま姉さま、あああ、姉さまああ」
リーダが反対側へ引っ張ってくれたので怪我人の上に倒れこむことはなかったが、逆に怪我人の上半身が浮上してきた。
手は服を乱暴に掴みながら確実に回されていき、額のタオルを枕に落として、真っ青な色とは正反対に熱く滾った頭を葵の鎖骨あたりに押しつけてきた。
「患部が! 患部が何処にもありません! 患部が消えもうした! 悪魔の布団め!」
もじゃもじゃ髪が再び布団の中に埋もれて行ってすぐに、リネの体は元通りにびたんっと上を向いた。
痛みに喘ぐ声が僅かに漏れる。
土気色の肌に瞳だけが異様に爛々として葵を見上げている。エルロイがすぐにろくに絞っていないタオルをびちゃっと乗せて視界を妨げた。
「姉さま! ああ、すみません、おれ、あなたを落としてしまって、ごめんなさい、ごめんなさい」
「え、え、リネ、え? 何の話? 落ち着いて」
弾けて離れたリネの両手はまごまごと葵を探して空を彷徨っていた。今にも起き上がってきそうな威勢を感じる。
葵は先ほどと同じように奥の肩を布団に押し付けながら、手前の手を掴みとった。異様な力で手を握り返しながら、リネは荒い呼吸を繰り返していた。
「ごめんなさい、許して。許してください。お願い。嫌いなんて言うつもりなかった」
「いつの話なの」
脱走した時に確かに言われたが、葵の記憶には正直そこまで強く残っていなかった。
リネの足下でもぞもぞと布団がうごめき、飛び出した頭髪が「患部の復活を讃えよ!」と叫んでいた。
「リネにちゃんと横になっているよう言ってくれ」
「リネ、横になっていて。今、治療中のようだから」
たぶん…。
葵は自身なさげにリーダを振り返った。肯定するようにリーダが首を振る。
手にはもう銃は握られていなかった。そんなことは分かり切っていたが、何故かリーダの指示に反射的に葵は従い続けていた。椅子に座り直したエルロイがそんな二人を瞳だけを使って交互に見つめている。
「姉さま、許して。嘘ついてすみませんでした。ひどいことしてすみません。傷付けるつもりじゃなかったんです。ごめんなさい。許して、お願い、お願いします。許して」
肩に置いた手も掴み取られる。重症者とは思えない力強さだ。痛みと共に、がくがくとした震えが伝わってくる。
「どこにも行かないで…」
それっきり、人形のようにパタッと全身から力が抜けた。休みなく動いていた口は開いたまま止まり、痛いくらいだった手の強さはすっかりなくなって、葵の手の中でぐでんと垂れていた。
「眠らせた」
エルロイが手に注射器を構えたままそう言った。
後ろでリーダが長い溜息をついている。
「讃えよ」
大きなガラスが二つこちらを向いていた。医師と思われる男は布団の中や手元に構えていた機械たちをかき集めると、キャスター付きの椅子を滑らせながら奥の部屋に続く扉に激しい音を立ててぶち当たり、口でノブを回してその扉の奥に消えて行った。
圧倒されたようにその姿を見る葵に、「あれがハムの治療が終わった合図なんだ」とリーダが教えてくれた。
「エルロイもお疲れ様だったな。もう休んでくれ」
「リーダ、珍しいものを持ち出してどうしたの」
突拍子もなく、エルロイがリーダの懐を指差して聞いた。葵にとっては死角に当たる背面にリーダは立っていたが、エルロイが何を示しているのかはよく分かった。
「………葵も、もう部屋に戻っていい。俺が様子見している」
少し沈黙を落とした後、リーダは葵の肩に手を置いてそう言った。
「一般人に銃を向けたなんて知られたら格好のネタになるね」
平和な土地に暮らしていた葵にもそこそこの知識がある程度に、彼らの存在は有名だ。賛否両論を呼んでいることも知っている。エルロイは否を唱える人々のことを言っているのだろうか。仲間なのに、と、葵はちょっと不思議に思ったが、重たい空気に黙り込むしかなかった。
「仲間たちに言い訳する気も、葵に謝る気もない。今すぐこの船を追い出されても構わない」
リーダの声は凛として、いつも通りだった。謝るという発想があったのかと、葵は顔に出ないようにびっくりしていた。
「エルロイは部屋に戻る。ちょっとしたらまた来る」
「葵を送ってやってくれ」
「いいよ」
ひょい、と椅子から飛び降りたのを見て、葵も指示に従おうと腰を上げた。
瞬間、ぐいっと反対側に引っ張られる。
いつの間にか、握っていた手に力が戻ってきていた。
間違いなく寝ているはずなのに、顔を傾けて口元に自分の手と葵の手を寄せている。凄まじい強さでびくともしない。
力尽くで抜き取ることも考えたが、起きてしまったらまた厄介かもしれない。傷が開く恐れもある。
「あー…、葵、まだここに居ろ」
険しい顔で葵の手元を見ていたリーダが絞り出すように言った。
「それは脅迫?」
「いつでも撃てるぞ」
自分でも随分度胸が据わっていると思ったが、なんとなく聞かずにいられなかった。
エルロイが自分が座っていた椅子を持ってきて、リーダの背後に置いた。
「ちゃんと脅迫し続けないと、葵がリネをぶすっとやっちゃうかもよ」
「……さっきから言い方が意地悪いぞ、エルロイ」
「そうかな」
じゃあね、また後でね、とエルロイは小さな手を葵に向けてぶんぶんと振って、てとてとと去って行った。
部屋はすっかり沈黙に包まれて、葵は横たわる人間をじっと見るくらいしかやることがなかった。
顔色は少しづつ元の色に近付いてきたように見える。呼吸も正しく、穏やかだ。寝息と時計の音がいつもより大きく感じる。
首元に垂れた汗が気になって、その下に引かれているタオルで軽く拭いてやった。
「……悪いな」
「………」
何でやってしまったんだろう。
葵はちょっと後悔した。これでは労わっているようだ。
「……やらないと撃たれちゃいますからね」
さっきの会話を聞く限り、リーダの耳には痛い言葉だったかもしれない。葵は今度はちょっとした罪悪感を感じた。
短いようで長いような沈黙の後、後ろから「そうだな」と小さな言葉が聞こえてきた。
葵の心は潰されそうだった。
しかし―――
「額のおしぼりを裏返してやってくれ、でないと撃つぞ」
「布団を肩まで上げてやってくれ、いつでも撃てるからな」
「髪が肌に張り付いてるからよけてやってくれ、撃つぞ」
「語尾に不穏な言葉を付けるのやめてくれます??」
私の心は何のために押し潰されたのだろう。葵はちょっとの安堵と苛つきを伴いながら、言われるまま患者の世話をしていた。
(結局、犯罪集団の長だ。脅迫なんてなんともないんだわ!)
葵は認識を改めた。
「寝顔が穏やかだ。葵のおかげだな」
ちょっといい人かもしれないなんて、何で思ってしまったんだろう。
夜闇が真っ白なドーラ号をすっかり包み込む頃には、葵の手を縛る拘束は自由の利くほど穏やかな力に変わっていたのだが、誰もそれに気付かないまま、寝息はいつの間にか三つに増えていた。




