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頭にダメージを負ったことは間違いない

 せめて葵の部屋で寝かせてくれと泣き叫ぶので、二日目の夜、リネは葵の部屋の床で寝ることを許された。

 扉のところで、体の下半分だけを部屋から出して横になり、「これで部屋にいるとは言えません」と主張した。彼の意味不明ぶりに恐怖を感じた葵は、エルロイにしっかりと抱きついて夜を過ごした。黒いローブに隠された小さな体は細くごつごつとしていて、抱き心地がいいとは言えなかったが、閉じられた瞳と零れる寝息があまりに可愛らしくて、葵は穏やかな安眠を得た。


 次の日、葵は風邪をひいていた。


「ごめんなさいね、私が水道を破壊したから」

「いや、俺の責任だ。濡れたまま正座をさせるべきではなかった。すまなかった」


 かにゃんとリーダがベッドの横で頭を下げた。昨日の鬼ごっこで彼女が破壊した水道から吹き出た水で濡れ、その後怒りと悲しみにくれた彼の命で着るものもそのままに一時間正座していた。

 水をもろに浴びたダンと水たまりの中にダイブしたリネがぴんぴんしているというのに、自分のもろさに腹が立つ。とはいえ、微熱がある程度でそこまでのだるさはない。リネが大袈裟に騒ぎすぎているだけだと、葵は二人に頭を上げてくれと言った。


「ああ、姉さま。姉さま、お可哀相に。エルロイ、さっと治る薬はないんですか」

「風邪に薬はない。睡眠が特効薬」


 でも、解熱剤。と言って、オブラートに包まれた濁った緑色のジェル状の物質を取り出した。飲み込める大きさだが、得体の知れないものに体が拒否反応を起こしている。


「葵、抵抗するな。エルロイの薬は効くから。見た目は悪いし味も悪いが、いや、味はたまに癖になる味をしているから。見た目が良かったことはないけど、たまに美味しいから」

「リーダ、味じゃなくてよく聞くほうを強調しないと」

「なんかもっと嫌になってきたので、それ以上は結構です」


 葵は目を強く瞑って薬を飲みこんだ。喉の奥で包みが取れて中身がどろりと出てきた感触がする。水で流し込んで目を開けると、黒いつり眼がこちらをじっと見ていた。


「グロテスク…」

「良い感想だね。今後の参考にする」


 エルロイはローブのどこかから小さなメモ帳を取り出して何かを書き足した。


「姉さま、申し訳ありませんでした。申し訳ありませんでした、申し訳ありませんでした」


 リネは床に膝立ちになり、ベッドに何度も頭を叩きつけて謝ってくる。

 うっとうしい、やめてって言ってるでしょ、と言ってその頭をぐいっと押した。彼はその手をすかさず握ると、今度はその手めがけて頭を打ち付けてきた。恐怖でしかない。


 しばらくベッドの周辺で行われる会話を聞いていたが、やがてうとうとと眠くなってきて、エルロイの手に目を塞がれて眠りについた。

 手をリネに握られたまま、額に僅かに冷えた布の感触を感じながら、体がずっしりと闇の中へ沈んでいくようだった。


「……………………今なら指先を舐めるくらいじゃ起きないかも」

「殺すわよ」

「リネ、そういうことは俺たちが居なくなってから呟いてくれ」


 自分に握られた細い手が、無防備に目前で垂れ下がっている。

 細い指。あまりに華奢で、力を込めたらぽろっと落ちてしまわないか心配になる。じっと見つめていたら、かにゃんが腕の装飾の音を鳴らして頭を叩いてきた。


「私、性犯罪者は嫌いよ」

「俺も嫌いだ。現行犯でたたき出すからな」


 リーダまでそろって呆れたような目で見下す。


「葵が起きるようなことは、風邪を長引かせる害悪となるからね」


 隣で椅子に座っていたエルロイの目は、二人に比べるとリネに近い。

 「そんなことしない」とリネは姉の手に顎を乗せた。

 寝息を立てる姉の顔は、いつもよりちょっと赤らんでいる。


 水を張った桶を置いて、かにゃんたちは部屋を出て行った。看病は弟の仕事だ。


 リネは定期的に額のタオルを取り換えては、もう一度手を握りなおして姉の顔を見つめる、という作業をひたすら繰り返していた。

 一度、葵が寝返りを打ってこちらを向いた。心臓が跳ね上がり、思わず椅子から立ち上った。思考の隅で握っていた手を引っ張らないようにしなければ、と気が付いて、半腰のまま後ろ足で椅子をたぐり寄せて座りなおした。


(だ、駄目だ、この間、足を舐めてとても怖がらせてしまったし、ああ、でも、手にキスするくらいなら……、いやいやいやいやいやいやいや)


 リネは姉の手で自分の額を小突きながら危うい思考を逃がそうと努力した。


 すると、細い指が、するりと手の甲を撫でた。

 ばっと顔を上げた。

 明らかな意思を持った動きだった。

 瞼が僅かに開かれて、揺れる瞳がこちらを見ていた。


「あっ、あ…っ、起こしてしまって」


 謝ろうとリネは咄嗟に手を離して布団に手を付いた。頭を布団に叩きつけるとほぼ同時に、頭頂部に手がぽん、と置かれた。

 慣れない感触に、目だけを上に向けて姉を確認する。細い腕。向こう側に顔が見える。こんなに優しい顔をする人と、産まれてこのかた出会ったことがない。


「よし、よし…」


 髪が少し潰れる程度に酷く優しく一、二度頭部を叩くと、そのまま輪郭をなぞるように横にするりと降りていき、ぱたんと布団の上に落ちた。溶けるような笑みは寝顔に変わっていた。

 リネは言葉もないまま、姉の手を布団の中にしまい、肩まで覆い、足音を殺して部屋を出た。

 そのまま廊下に出て、他の団員と談笑するかにゃんを見つけるまで全速力で廊下を走り回った。彼女の姿を認めるやいなやスライディングして足元へ滑り込み、奇声を上げて転げまわった。


「うあああああ、姉さま! 姉さまああ! かにゃん! 俺を殴ってください!俺を殺してください!!」


 かにゃんは彼が性犯罪者に堕ちたと確信した。

 制裁は30分に及んだが、一向に気絶することも奇声が衰えることもなく、「こんなもんじゃ俺は姉さまのところに戻ってしまう!」という言葉を聞いて、リーダが迅速にエルロイの注射を投げた。

 眠る彼をリーダの部屋の柱に縛り付け、葵の部屋には定期的にエルロイが行くこととして一段落となった。


 ***


 目が覚めると朝だった。すっかり丸一日眠っていたようだ。それなのに頭も体も重くない。だるさも微塵もない。エルロイの薬が効いたのかもしれない。

 葵は大きく伸びをして、爽やかな日の光を満喫した。


「良い夢を見たわ」


 実家で飼っていたポメラニアンと、久しぶりに会った。ふわふわの耳を触れるか触れないかの位置で撫でると、頭を摺り寄せて「もっと」とねだる愛嬌に溢れた犬だった。

 それまで、母が手を握っていてくれる夢も見た。熱いくらいに暖かい手で、小さい頃は悪夢を見た日などはどんなに深夜でも眠るまで手を取ってくれていた。


「うん、早く帰らなきゃ!」


 葵は決意を新たにした。

 清々しい気持ちで扉を開けると、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の隅にリネが居た。

 こちらに気付くと瞬く間に首から耳まで赤くして、壁に貼り付いた。ごちゃごちゃ言いながら距離を詰めてくるのだろうと身構えた葵は肩透かしを食らった気分だった。リネは目を反らしたり横目で見てきたり、その場で小さく足踏みしたりして落ち着かない。


「お元気になられたようで…、っ、良かったです」


 しゃっくりでもしたかのように、声が一部裏返った。


「ええ、うん、あ、これ、……ありがとう」


 葵は桶とタオルを差し出した。


「どういたしましてです!! あっ、すみません。そ、そこに置いてください」


 大きく声を張り上げる姿は見慣れたものだが、振り返って壁に顔を押し付けて静かになる様は初めて見た。これはこれで不気味だ。

 葵は恐る恐る近くにあったテーブルに一式を置くと、「食事に行くから」と言って扉に向かった。

 ぎこちない足音が距離を取って付いてくるのを感じた。


(何か、何か後ろめたいことがあってこんな態度なのでは…?)


 自分は昨日一日、途中ほとんど目覚めた記憶もなく寝ていたのだ。

 これはやばい。

 葵は思わず体を見回した。特段の変化は感じないが…。


「あっ、わっ、あっ、はあっ、ああ、ねえさま…っ」


 これはやばい。

 後ろから聞こえてくる声がなにがしかの変化を告げている。なぜ人の後姿を見ているだけであんな謎の声を出しているんだ? 横目で確認してみると、自分の髪の存在を確認するかのように、頭頂付近を手で撫でたりふわふわと振ったりしている。葵がこちらを見ていることに気付くと、慌てて手を後ろで組んだ。


 なんだ? もしかして一夜の内に禿げたのか? カツラになったのを気付かれたくない…、とか…?


 腑に落ちた。

 髪がなくなるということは、男女を問わず人を苦しめる変化だ。可哀相に。葵は同情した。


「リネ、朝食に行こうと思うのだけど、一緒に行く?」

「! も、もちろんです! はあっ、姉さまから誘って…っ! はいっ、あっ、はっ、行きます、俺、行きます…!」


 扉の先にかにゃんが居た。葵の様子を見て、元気になっていれば朝食に誘うつもりで訪れたのだった。

 しかし、中から聞こえたリネの大声に、彼女の目的は吹き飛んだ。

 昨日、微かに浮かんだ疑惑が確固たるものへと変わっていった。


「未遂だって言ったくせに! やっぱり嘘だった! 信じるなんてリーダもどうかしてたのよ! この性犯罪者!」

「違います、違います! かにゃん! 今のは違います!」

「お、落ち着いて、かにゃん。どうしたの?」

「葵! 下がってて。仲間だった者へのせめてもの情けよ。首を突いて殺す」


 かにゃんはヒールの中に隠された細いナイフを手に取った。


「違います! 今のは、姉さまから誘って、」

「被害者に責任を転嫁する屑の中でも最下層の屑! リネ…! 信じていたのに…」


 大粒の涙を光らせながら、かにゃんはリネに飛びついた。




「かにゃん、駄目よ。あんな風に髪を掴んだら。可哀相な人の可哀相な部位をあんなふうに扱うべきではないわ」

「葵、あんたって優しいのね…。確かにあいつは頭が可哀相な奴だけど、庇う必要なんてないのよ」


 葵が助けを呼んで二人のもみあいはすぐに収束を得た。

 しかし、葵の勘違いが解けることは、ついになかった。

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