旅役者こまの助一座
大正、昭和初期は娯楽が少ない時代でした。
みな祭や劇団を楽しみにしていたそうです。
当時の劇団も現代と同じで、人気が高ければ大都市の常設劇場で公演できますがそうでないなら旅をしながら町や村をまわる事になります。
祖母の村にも、もちろん来ていたそうで中でも人気があったのが
「こまの助一座」です。
劇団を呼ぶのは興行師で村では、こいでさん、という豆腐屋のおっさんが兼任していました。
このおっさんが連絡をとり劇団を呼んで公演させて、入場料金の中から自分の分け前を貰うそうです。
このあたりは現代と変わりませんね。
だいたいいつも人気のある、こまの助一座を呼んだそうで、
みな荷物を持ち汽車に乗って来ます。駅からは人は歩いて、荷物は馬の曳く荷車にのせます。
一座を呼ぶ季節は秋。稲刈りが終わり農作業が一段落した時です。
その稲の切り株の残る田んぼに、村の青年団や村の人たちが舞台をつくります。少し屋根のついた舞台だったそうです。
田を貸すのはすぐ横に家のある一家、祖母の村では、かわのさん、という人です。
その家の牛小屋が泊まる所と楽屋を兼ねていたそうです。
牛小屋の中にある、あいた場所に藁をひいて座員みんなで寝ます。
すると日頃見慣れない人がいるから興奮するのか
牛が、座員の寝ている時に囲いに向かって体当たりを繰り返すそうで、
うるさくて寝れないので牛は他の場所に預けられたそうです。
食事は泊まっている所の人が用意してくれます。
毎日麦の多い御飯にみそ汁と漬け物、この食事代は雇い主が払います。
お風呂は交代で五ェ門風呂に入るそうです。
舞台の回りと客席は農家の人が持ち寄ったむしろ(わらを編んで作ったしきもの)で囲います。
タダ見を防ぐためなのですが、子供はむしろをくぐって大人は舞台の横から、結構入っていたそうです。
劇団がくる時期になると、興行師のこいけさんが「ハルしゃん、カマボコ板とっといちゃんないな」と、頼みにきます。
うどん屋ですから、毎日カマボコ板が出ていたのでしょう。
カマボコ板をよく洗い乾かして表面に、「大人」「小人」と書きます。
木戸銭(入場料)を払うとこれを渡します。今でいうチケットですね。
お昼、農家は皆忙しいので芝居は夜の興行です。
時間前に化粧をしますが今のように良い化粧品があるわけもなく、
顔の下地には松ヤニを塗りその上から鉛入りの白粉をつけ、眉墨、口紅で仕上げたそうで、
鉛のせいか顔は赤くなり身体を壊す人もいたようです。鉛中毒ですね。
お芝居するのは夜の田んぼですからもちろん真っ暗です。
そのため舞台の上からは十しょく、と呼ばれる電球を下げ、
前には炭坑で使うガスカンテラを並べます。
十しょくの電源は遠くから線を引いてきます。
音を出すのも電気で動く蓄音機(レコードをかけていたと思われます。)です。
時々電気が途切れるそうで、そうすると鳴っている音のテンポがしだいにゆっくりに…
それに合わせて踊りもゆっくりに…
それを見てお客さんも笑ったそうで、
またカンテラのガスが一時間程で無くなるのでお客さんが入れ換えてあげます。
役者と観客がいっしょに舞台を盛り上げるという感じでしょうか。
舞台の内容は太鼓と三味線に生声で芝居、
踊りといったもので
芝居の筋書きは継子いじめ。義理の息子、娘を親がいじめる、この芝居が大はやりだったそうです。
芝居は他に、国定忠治、石川五右衛門など。
踊りは今もあります「かっぽれ」や、「やっこさん」、そのほか人気があったのが
子供の踊る「ずんべら節」です。
「向こう横丁のお稲荷さんへ、一銭あげてさっと拝んで、おせんが茶屋に
腰をかけたら渋茶を出した、渋茶よくよく横目で見たら麦の団子か、米の団子か、団子団子でそんなこっちゃいけね、ずんべらずんべら……」
と、いうような歌です。
ちなみにこの歌CDで現在も発売されています。
田舎まわりの一座ですから見る観客もお金持ちは少なく、農家の人ばかり。
大根や芋を舞台にあげます。プレゼントですね。
役者にはお花(お金、チップのことです)をあげたら喜ぶと聞いたおばあさんが、勘違いして田んぼから野の花をいっぱい摘んであげたそうです。
雨が降ると悲惨です。
客席といえどただの田んぼ。
すぐぬかるみます。しばらくはお客さんも新聞紙をかぶったりして雨をよけますが、だんだん一人帰り、二人減りして、最後には誰もいなくなります。
このように舞台を勤め、そして一週間ほどでまた違う土地へ去っていく。
現在の我々からは想像ができないくらい大変な仕事、旅だったようです。
彼らはどこに行っても旅人だったのですね…
昭和初期の旅一座の話でした。