6 夏の終わり
九月五日。江ノ島の海岸で花火をした。藤沢のダイソーで、玩具みたいなバケツと、大量の手持ち花火、それからほんの数本の打ち上げ花火を購入。それでお金はほとんどなくなってしまった。
砂浜にならんで座り、みんなで出し合って買ったファーストキッチンのフライドポテトをくわえながら、夕日が沈むのを待った。夜になるまで僕らは話をしていたけど、どういう話だったのか、うまく思い出せない。大切な何かを話しあった気がする。とても繊細で恥ずかしい、今の僕が覚えていては汚れてしまうような。
夏が終わっちゃうね、と電話の向こうで昔の友だちが言った。
深夜高速バスの利用客はまばらで、携帯電話で通話をする僕を咎める者はいなかった。ついつい昔話に花が咲き、気づいたときには充電容量が十パーセント以下を示していた。そこで僕は電話口に向けて初めて、江ノ島に向かっていることを告げる。
ちょうど横浜へ出張でね。
バスがサービスエリアに入る。スマホに携帯充電器を挿し、シートに放り投げる。外で缶コーヒーを飲み、煙草を吸って、渇いた咳をする。ガソリンスタンドの青年が疲れた顔でトラックを誘導している。深夜にも関わらず、合宿帰りらしい野球少年数名が大声でじゃれあっていた。高速道路の照明は目に痛く、空を仰いでも星は見えなかった。
僕はバスに戻り企画書に目を通した。自社のコンビニチェーンとコラボする和菓子屋へ向けて作った資料は、我ながらおどろくほどつまらなく冗長で、なにを伝えたいのかいまいち分からない。作っている最中はなんとも思わなかったのに。こりゃ現地へ着いたら見直す必要があるなと、頭をひねった。
雨上がりの夜。夏でも空気がつめたい。
江ノ島シーキャンドルがピンク色のライトを灯す。それを見計らったように、彼女が保冷バッグからカクテル缶を人数分取り出した。その場に居た誰もがびっくりした。そのバッグに入っているのは、いつもみたいにサンドイッチとか、おはぎとか、そういう野暮ったい差し入れだと思っていたから。
「真面目ちゃんキャラはどうした?」
誰かがそう言って笑う。彼女は顔を赤くして、照れくさそうに笑った。
「キャラじゃないし。……だって、皆でこんなこと、あと何回もできないでしょ」
僕はその言葉が聞こえないみたいに花火を手に取った。ターボライターで直接、三本一気に火を点けた。
風除けの蝋燭は役立たずだと思う。小さな器の底に蝋を押し込めた茶碗蒸しみたいなあれ。器そのものが風をふせぎ、何時間も燃え続けるといううたい文句。これって、『消えずの霊火』にも似たもどかしさを感じる。炎ってのは一瞬だから奇麗なんだ、と僕は思う。
パチパチと火薬臭が鼻をつく。光が幾重にも混じり合って砂浜へ吸い込まれていく。ぼーっとしてたらすね毛焦がしちまうぞと、友人が笑う。
バスを降り、タクシーで江ノ島へ乗りつけた。地下通路を通って東浜海岸へたどり着く。彼女へ電話を掛けなおす。
「わたしはそんなに真面目じゃない」
第一声がそれだった。僕は煙草をくゆらせる。海風が西方向へ吹きつける。
知ってるよ、と僕は言い返す。返すのではなく、言い返す。まるで吐き捨てるように。彼女とは何度となく惹かれ合い、別れ――それこそ自分の尻尾を食べる蛇みたいに消耗しあった。だからそれは、吐き捨てるような過去だっただろう。
彼女に大きくなったお腹を見せられた。膨らみすぎて、見覚えがないって感じのお腹。その隣を歩く、彼女よりいくらか若い男性に微笑みかけ、僕は駅のプラットホームから逃げだす。先月の暮れだった。
その頃僕は職場の後輩の女の子とよく遊びに出かけていた。入社まもない、歳も九つ離れた、あどけなさの残る田舎の少女のようだった。社外に出会いがないからといって、手近で弱い立場の異性をたびたび食事に誘って嘘の満足に浸った。どうせ付き合うつもりもないし、おそらく向こうもそんな気はない。そんな自分を恥ずかしく思いはじめたのは、駅で彼女と再会してからだった。
夏が終わる。
誰かが捨てていった、せんこう花火の小袋を手に取る。ライターの火をともす。そうだ、僕らはここで花火をしたんだ。僕は自然と口を開いていた。
「何年前だっけ」
「なにが?」
「なにがって……」
相変わらず華のない、じめっとした火花。ささやくような笑い声。
「うそ。五年前だよ。おぼえてる」
「五年」
僕は笑ってしまった。
「早すぎるよな」
「そうかな?」
彼女の笑い方は軽々しく、僕は少し打ちひしがれた気持ちになった。革靴と靴下を脱いで、砂に素足をつける。足もとから底冷えするようで、指と指とをぎゅっとしめつけた。せんこう花火がポトリと落ちる。
「ところで、どうして急に電話してきたの?」
彼女はどこか言葉を選んだような言い方だった。
「わからない。男の僕がこういうことを言うのもあれなんだけど、もしかしたら僕は、寂しいのかもしれない」
「寂しくて、結婚してるわたしに?」
「だめかな」
「だめじゃないけど、変わらないなあって。ねえ、江ノ島って言ってたけど……もしかして君、海にいるの?」
辺りには潮風が吹きつけていた。ライターを置き、携帯の送音口を手で覆う。
「花火をしているの?」
僕は黙っていた。
「音を聞かせて」
花火を一本手に取り、火を灯した。バチバチと、いささか乱暴な燃え方だったが、火花は控えめな単色だった。なるべく花火を携帯電話に近づけるようにした。十秒とたたず火花は消えたが、それまで僕は一言も喋らず、じっと筒の先端を見つめていた。
「奇麗」
ため息まじりに彼女は言う。
「思い出したいことも、思い出したくないことも、色々考えさせられちゃうよね。この時間が永遠に続けばいいのにって、そういうの、君は思ったことない?」
「ないよ」僕は言う。「一瞬だからいいんだよ」
自嘲する。その割りには浸ってるよな、俺。
夏が終わる。
いや、もうとっくの昔に終わっていたのだ。認識が遅れていただけ。終わったあとで終わったのだと気づくことが人生には幾度もあり、これも間違いなくそういうことなのだろう。
だから今回も潔く、僕は認める。終わったことを認めようと思う。
ビジネスホテルに到着してノートパソコンを開いて企画書をおおまかに修正する。ロビーのプリンターでA4に印刷し、部屋に戻る。サインペンで誤字脱字にチェックを入れる。腕時計を見ると夜0時を指していた。
狭い風呂に湯を溜め、深く肩まで浸かる。頭の中で明日のシュミレーションをする。微調整を繰り返す。湯船の栓を抜き、身体を洗う。濡れた髪をドライヤーで雑に乾かす。どうせ明日も洗いなおす。
歯磨きしながらネットのニュースサイトを流し見ながら、先方と雑談になったときのネタ探しをする。酒でも呑もうかと思うが、たったいま歯を磨いたばかりだった。
備え付けのデジタル時計でモーニングコールをセットする。ベッドに潜り、何度か寝返りを打つ。
意識がまどろんでいく。ふと頭に引っかかり、シーツから手を伸ばして携帯電話を手に取った。薄く瞼をひらく。
電話帳から彼女の名前を引き出す。飽きるほど見慣れた名前だった。指先でこつこつと画面を叩く。しばらく眺める。編集欄から削除を選び、彼女の名前を消去した。
これでゆっくり眠れるはずだったけど、たっぷり二時間は寝付けなかった。