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5 廃墟と草原の世界で

挿絵(By みてみん)

 うー、うー、うー、うー。

 あー、あー、んんっ。

 あーっ。


 ずっと人間の姿を見ていない。

 青臭い丘がどこまでも続いている。ときおり、春風に草原がたなびいた。遠くには山々の連なりがあった。夜になると、山の方から野良犬らしき遠吠えが聞こえてきた。

 丘と草原はどこまでも続くが、完全な真っ平らというわけじゃなく、蔦や木々に浸食された廃屋の残骸をたまに見かけた。さきほどなどは駅舎の跡地のようなものがあったし、草の下を避けてみると、線路の錆びた鉄片もある。斜め四〇度に傾いた信号機は思い出したようにそこへ佇んでいるし、かつては公園であったのだろう、ジャングルジムの立体造形が過ぎた時代の残り香を匂わせる。

 ある日目覚めると、景色は一変、見渡す限りの大自然と化していた。

 目覚めたとき、わたしは栃木の田舎にいた。苔だらけの電柱に表示された所在地を確認したので、ここが栃木県の隅っこなのだと分かった。さすがは栃木、なんて楽観的になれたのは初めの数十分だけ。いくら田舎だからって周りが緑と廃墟だらけなのは、現代人を自負する者として、不自然と自然が錯綜し過ぎていると感じた。

 わたしがこの世界にやってきて、二日が経つ。いや、やってきたのはわたしじゃない。きたのは世界のほう。目が覚めるとこうなっていたという、ただそれだけのことだった。


 あ・え・い・う・え・お・あ・お。


 この二日間、人間の姿を見ていない。こうしてたまに発声練習をしなければ、わたしはそのうち言葉を喋れなくなってしまうと思う。

 南へ向けてずいぶん歩いたので、そろそろ埼玉辺りに居るんじゃないかと踏んでいたのだがしかしやはり人はいない。都会へ行けば何か分かるかも、というのは甘い考えだったのだろうか。

 道端でする排泄にもいい加減慣れてきた。人がいないのだから何を恥じることがある。喉が渇けば小川の水を飲み、身体を洗い流し、お腹が空けば動物を狩る。狩ると言っても大したもんじゃない。葉っぱやら茎やらが絡みつくバット、よく分からん金属の排管などを拾い上げ、弱った兎や鼠を叩いて殺すだけだ。原始的な狩猟欲が満たされる気がする。女だけど。

 さらに二日歩くと、元はスカイツリーであったと思しき折れた巨塔を見つけた。ツリーの根元も例に漏れず木々や草に覆われ、しかも猫の棲み家となっていた。近未来的建造物たる堂々さはもはや倒壊していた。文字どおり、外見も実情も。

 数時間ほど猫たちと戯れた。その時のわたしの身体は狩った獣の血で剣呑としていたはずだったけれど、不思議と怖がらずに懐いてきた。

 こんな風に東京観光をする日がやってくるとは夢にも思わなかった。気に入った猫を一匹たずさえ、東京の地へと足を踏み入れる。朽ちた浅草寺、むき出しの両国国技館、皇居の平たい敷地、半壊した高等裁判所、ミッドタウン、ヒカリエ、109……。

 ロゴの失せた109のたもとで、わたしは猫を抱えて腰を降ろす。建物に阻まれ百メートル先も判然としなかった渋谷はほぼ跡形もなく、こうして見ると狭いものである。ここから西に数キロ進むと神奈川、さらに歩くと、故郷横浜へと到達する。

 わたしは家族のことを考えた。お母さんと、お姉ちゃんと、愛犬マッキー。そして、それらを打ち消すようにぶんぶんと首を振った。考えても仕方がないと腹をくくる。でないと、気がおかしくなってしまいそうだったから。

 それに今のわたしには、この猫がいる。


 まーままー、まー。

 まみむめ、まみむめ、まみむめにゃーにゃー。


 順応、という言葉がある。今のわたしに求められているのはまさにそれだ。

 立ち上がり、猫を肩に乗せて歩を進める。

 ここのマツキヨでよく麻美と待ち合わせしたっけとか、あそこのスタバで男にビンタ食らわせてやったなとか、様々な思い出が浮かんできたけれど、お得意の発声練習でふっ飛ばした。

 やがて、方角を見誤ったのか、わたしは築地市場の跡地に来ていた。向こうに見える海が信じられないほど澄み渡っており、あれが本当にかつての東京湾なのかを疑った。砂浜まで出来ていて、質感がさらりと浄化されている。うみねこがミャアミャア鳴くと、それに合わせて猫もまおまお鳴いた。

 わたしはコンクリート片を掻き分け食べられそうな乾物を集めていたのだが、猫があまりにも海に興味津々なので、ちょっと遊んでいくことにした。

 砂を蹴って、海水を浴びて、ばしゃばしゃやって、むしろわたしの方が夢中で遊んでしまった。


 三週間が過ぎた。

 夜になると、わたしと猫はとある工場の廃墟で一晩を明かす。ポリタンクがいくつか打ち捨てられており、それぞれに灯油が少量ずつ残っていたので、木の枝をくべ焚き火をした。

 場所は川崎より少し北西の辺りだろうか。その一帯は食べられそうな野草や果物が生っていたので、食糧の心配がなかった。わたしはしばらくそこを拠点に生活した。暇を持て余すと、川崎駅の周辺地域へと赴いた。そのあたりにわたしの通っていた学校があったのだけど、いくら探しても見つからない。学校は唯一わたしの好きな場所でもあった。ラゾーナらしき建造物は見つけられたものの、いい思い出があまりないので近寄らなかった。

 そんなふうにして工場の周囲を探検しながら暮らしたが、ある日目覚めると、相棒の猫が血だらけで横たわっていた。どうも野犬に襲われてしまったらしい。頭の右半分がそっくり食べられてしまい、こぼれた脳みそにハエがたかっていた。

 わたしは猫にすがって泣いた。この時はさすがのわたしも、あまりの悲しさに苦しみもだえた。孤独という名の恐怖が全身を包んだ。わたしは、ひとりぼっちになってしまったんだと。


 さよならー、さよならー。

 さよならーっ。

 ああぁーっ。


 その日、わたしは鶴見川沿いを南へと下り、海のよく見える丘で猫の亡骸を埋めた。

 ひとりぼっちになってしまったわたしは、それから猫を見ると悲しい気分になってしまい、彼らのことを避けるようになった。相棒との短い思い出が詰まったあの工場にも、もう行かなくなってしまった。遊ぶのも一人きりだ。放置された自家用車やガラスの抜け落ちた電話ボックスで秘密基地ごっこをしてみたけど、ぜんぜんおもしろくなかった。


 あるこう、あるこう。

 わたしは、だいじょうぶ。

 あ・か・さ・た・な。

 は・ま・や・ら・わ。


 導かれるようにわたしが訪れたのは、横浜のとある住宅街だった。といっても、微かな土地の勾配の造りと、崩れたスーパーの看板によって特定したのだが、おそらくここがわたしの住んでいた地だろうと推測した。

 そしてここに多分、わたしの家があった。はずだった。でもそこは目が痛くなるほど真っ黄色なセイタカアワダチソウがあるだけで、自宅の痕跡は一切見当たらなかった。

 わたしはその場にひざまずき、両の指をからませた。天を見上げ、そっと目を閉じる。

 人は窮地に追い込まれると決まってこの姿勢を取るという。現代人も古代人も、本能として、皆等しく。きっと神さまが、わたしたちの全てを内側から支配しているからなのだろう。この世界に落とされて初めて、わたしが神に祈った瞬間だった。

 わたしは心のどこかで期待していたのだ。家だけは、わたしの家だけはと。

 目尻の間から、頬を伝って一筋流れる。瞼の裏側を情景が脈々と流れ、流れては消えゆく。


 玄関を開けると、愛犬のマッキーが尻尾を振ってわたしの帰りを待っていた。

 リビングを横切ると、お姉ちゃんがこちらを見てあからさまに嫌そうな顔をした。

 廊下の脇には空のコンビニ弁当が積み重ねて置かれている。

 腐ったスーパーのお惣菜、日本酒の空瓶、父の遺影、暗いキッチンで、頭を抱え込むお母さん。

 わたしの散らかった部屋、穴のあいたクローゼット、破れたアイドルのポスター、あたたかい布団、あたたかい、あたたかい……。


 決して良い家庭じゃなかった。確かにあたたかくなんてなかった。いつだって家出してやる覚悟でいた。

 母が包丁を手にしたとき、姉がマッキーをいじめたとき、コンビニのお弁当に飽きたとき、父が亡くなったとき。

 あのとき、何がわたしを繋ぎ止めただろう。そしてあのとき、何がわたしを突き放しただろう。いったい何が、わたしに「幸せになりたい」と思わせた?

 誕生日のときだけ優しくしてくれたお姉ちゃん。お母さんが気まぐれに作ってくれた手料理。遺影に映る父の笑顔。唯一、最後まで友達でいてくれた麻美。いつまでも信頼を寄せてくれるマッキー。家と、街と、人と、人。

 これ以上の、なにを望む?


 いつの間にかわたしは地へと突っ伏していた。顔に春の朝日が降り注いでいた。流した涙で土が湿っており、わたしの顔は泥だらけだった。近くの川で泥を洗い落としながら、頬をばしばし叩く。

 もういいだろう、とわたしは目を開く。一晩中泣き、一晩中後悔した。今はそれで充分だ。草根を掻き分け、わたしは喉を震わせる。


 あ・え・い・う・え・お・あ・お。


 わたしのする発声練習は、人との決別を意味するものじゃない。人だからこその発声だ。言葉こそ、人間が人間でいられるたった一つの術だから。

 わたしは生きなければならない。水を飲み、排泄し、髪を洗い、実を噛み、歌い、叫び、たまに泣く。そして、この悪い夢が覚めるその日まで、生きていく。

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