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3 血液と記憶

 私は死人の血を舐めたことがある。人身事故があった翌日のことだ。

 T線H駅は急行通過駅で、投身自殺の名所らしい。特にこの時期になると月二の事故は覚悟した方がいいという。

「うちの友達の知り合いがさ、あの駅のホームに立ってたとき掴まれたんだって、足首。だれもいないのにだよ」これはクラスの子の証言。友達の知り合いってところが怪しいから私は信じていないけれど。ともかくそんな話もあって、「どうしても今日は学校行きたくない」なんて思っていた私は、ちょうど事故のあった翌日、登校すると見せかけてH駅へ向かった。

 駅のホームは閑散としており、通勤ラッシュ直後だというのに人っこ一人いなかった。そもそもラッシュなんて関係ない駅なんだろう。屋根はトタン葺きで穴ぼこだし、点字ブロックが一部剥げてるし、向こうに見える景色は麦畑一色だし。

 私は色落ちしたプラスチックのベンチに学生鞄を降ろし、後ろで手を組んでホーム上の白い線をたどって歩いた。そのうちに電車が一本来たが、停車せず通り過ぎていった。時刻表の看板に目をやる。一時間に一本停まるかどうかという駅らしかった。

 あるものを見つけて、私はその場にしゃがみ込む。ポツ、という効果音が似合いそうな黒いかたまりが地面にへばりついていた。たぶん直径三センチくらい。足先を伸ばして、そっと表面をつついてみた。まだ固まってから日が経っていないため、若干の粘り気を残している。ローファーのつま先に、少量の粘液が着いてきた。痕跡らしきものはその丸いかたまりだけだった。このとき私が持った感想は、本当にここであったんだ、というものだった。本当にここで死んだんだ、という実感にまでは辿り着かない。

 陽は間もなく頭上を抜けていくところ。日光が屋根を避けて直射すると、黒っぽいかたまりは色彩艶やかに、紅色に変貌を遂げる。これは血だ、と認識する。網膜を通してはじめて、脳が再確認した。

 人身事故による被害総額について考えてみる。日本では年間何百何千という人が電車に撥ねられて亡くなっている。単体の損害額だってかなりのものだろう。とても遺族個人では簡単に払いきれないかもしれない。全国の遺族が可哀想だと純粋に思った。親族が死に、なお負債を残されていくなんて。

 ぽうっと、私の中に小さな怒りが沸く。安っぽく、他人行儀な怒り。もし私が自殺するなら、絶対、電車による轢死は選ばない。他人に迷惑を重ねて終わる人生なんて、まっぴらごめんだっ。

 本能の赴くままに人差し指を立て、血のかたまりをぐりぐりやってみた。衛生面の心配など一切なく、むしろ、「偉そうに血なんかまき散らしちゃって。公共物を汚してんじゃないわよっ」とさえ思った。日の暖かさによるものか、それとも私の体温のためか、みるみるうちにかたまりは柔らかくなり、指先にべっとりと付着した。私は満足する。死人を蹂躙する背徳感にも包まれた。

 人差し指を太陽に向け、手のひらを裏表にしてみる。先っぽだけ染まっている様が、ちょっとチョコバナナっぽいな、と思う。陽光を受けてきらきらと輝き、美しくもあった。私はそのとき、あんまりまともじゃなかった。それが少しでも美味しそうに見えてしまうこと自体、倫理感を欠いている。血の持ち主であった者の生死など、思考の範疇になかった。気づけば指先は、私の咥内にすっぽりと収まっていた。

 舌の上でゆっくりと溶け、唾液に混ざり、薄く薄く引き延ばされていく。ドン、と後頭部を叩かれるような衝撃を受けた。現象として、私が捉えたものは「どういう味か」なんて生ぬるいものでなかった。「記憶」とか「光景」とか、そういう現実味を帯びた類の感覚。一種の怪奇とでも呼ぶべき出来事だった。

 喉の奥からせり上がってくるものをこらえる。ベンチの鞄を拾い上げ、駅の外へと出る。胃に到達しようとするもの全てを路上の草むらに吐き出した。一通り嘔吐すると、自販機でミネラルウォーターを買い、一滴残らず飲み干した。するとまた熱くこみ上げてくるので、もう一度戻した。胃も、頭の中も、ぐちゃぐちゃだった。

 私は一体、なにをしにきたんだっけ。

 もう出てくるものがなくなると、ひとしきり寒さに震え、下を向いて嗚咽した。もう映像は流れてこなかった。さっきまで見ていた光景は体内から蒸発し、記憶の残滓は一片もない。

 私はきっと、いけないことをしてしてしまったのだろう。理由は分からないけど、確信があった。いまだ舌根に残る鉄の味が悲痛な叫びをあげる。「ぼくを返してくれ」。膝を抱いて耐える。目眩が治まるのを待ち、ゆっくりと立ち上がる。ちゃんとさよならを告げに行こう、と私は考える。

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