1 誰かがここに居た
テーブルを二つくっつけて、椅子を四脚置いて、わたしたちは喫茶店の一角を占拠する。一杯三〇〇円のアイスコーヒーを、安くて量が多いからって理由でオーダーする。
「今日、なんで佐奈いないの?」
結衣子が言った。「さぁ」と、わたしはストローをくわえた。ガムシロップとコーヒーミルクを混ぜて、やっと飲める味。
誰ともなく教科書を開いて小テストのヤマを当てはじめるのだけど、一〇分で飽きてしまった。冬休みはどこそこに行ったとか、彼氏がどうとか、残業代が出なくてバイトの給与がいくらで……とか、そんな話がはじまった。
客観的に、第三者的に、それらは本当にどうでもいい話だったが、わたしの周りにはどうでもいい話しか持ち上がってこない。ときどきそれに気づいて、大いに焦るし、息が詰まる。わたしは相づちをしながら、佐奈が座っていたはずの椅子を見詰めた。
居なくてよかったんだ、とふいに思った。同時に、誰が居てもよかったのだ、とも思う。
最近こんなことをよく考える。たとえば喫茶店のこの椅子も、今まで何百何千の人間が座ったに違いなくて、彼ら彼女らの中には今の自分では想像もつかないような人生を送った人も確実にいるわけだ。生きている人もいるし、もう亡くなってしまった人もいる。椅子は様々な人と出会っている。そんなものに身体を密着させることは、とてつもなく愛おしく、そして息を呑むほど戦慄するし、そんな、なにか途方もない気分になる。椅子のどこかに彼らの痕跡が刻まれていないかと、思わず探してしまう。
彼らはどこへ行った?
誰が認めてくれるだろう。ここに居たという事実。ここに座っていたという記憶を。急にわたしは、彫刻刀で椅子に落書きをしたくなった。十年後、またここを訪れたときに、「この落書きはわたしがやった」と胸を張って周囲にふれ回りたい。少なくともそれまでの十年間、わたしはこの栓もない不安にかられることはないだろう。だけど、この椅子が撤去されてしまったらおしまいだ。するとこの椅子という個体に保存性は約束されない。だから、もし床に落書きしたとしても、万一リフォームされたり、お店自体が潰れて解体されたらと考えると、もはやこの喫茶店にわたしの存在は確立されないということになる。結局、わたしの思惑は、無駄な足掻きでしかない。
「ずっとこのままだったらいいな」誰かが言った。
なんでもない一言だった。半分賛成で、半分反対だった。だってここには佐奈がいない。でも彼女はそんな風に言う。どういうつもりで発言したのか知れない。なにも考えていなかったのかもしれない。あるいは、その言葉をあくまで幻想と割り切っているのか。
ひとり、ひとりと、人がお店を後にし、空いた空間をまた別の人が埋める。空のグラスにはコーヒーが注がれ、また空になっていく。一緒だ。全てがうつろう。無機物有機物関係なく。わたしは急に家に帰りたくなった。家に帰って、恋愛漫画のたぐいを破り捨てたくなった。甘い恋心も、永遠の愛も、今この瞬間、なくなってしまったのだ。恋や愛に嫌悪感さえ抱いた。誰も信用できないとすら思う。でも、こんな自分がいちばん嫌いだった。そんなとき、わたしは誰かの手を握る。
「うわー、由香の手あったかい」
冗談混じりだった。実際、彼女の手はあたたかい。「なに、いきなり」と彼女は笑う。それでわたしの不安は少しだけ拭えた。体感に勝るものはないと証明された気がした。彼女のネイルの具合を点検するように眺めて、褒めて、羨ましがるふりをして、しばらく触らせてもらうことにした。
いつか、彼女もどこかへ行ってしまう。
ならば今のうちに、彼女になにかプレゼントでもしようかな。私は思う。できれば一生残るものがいい。ピアスとか、髪飾りとか、手作りのキーホルダーとか、そういうもの。数十年後、わたしがきみのとなりに居たという証拠を残しておきたい。きみがいなくなるのは構わないけれど、わたしを忘れることだけは許せない。ぜったい許したくない。わたしはいつか、大きな声で言うだろう。「由香のことずっと忘れない」。でも今は我慢する。
友人との会話にも気を使うようになった。出来るだけ相手を傷つけまいと注意をはらった。特に言葉は大きな責任をはらんでいる。相手を傷つければ、いつか後悔する日が来るかもしれないからだ。相手が不慮の事故や病気で亡くなってしまってからではもう遅い。そのときになって後悔するのがもっともこわい。自分の言葉や振る舞いは必ず自分に返ってくるもので、なにもそれを返すのは相手と決まったわけではない。後悔は自分の中でしか生まれないのだ。いずれやってくるかもしれない、その「いずれ」が不安でならなかった。もし相手を傷つけるとすれば、この「いずれ」を覚悟した上での、最終手段だ。言葉の持つ責任とはそういうことだと、わたしは思う。
みんないつか、どこかへ行ってしまう。甘いアイスコーヒーをすすって、友達の冗談に笑って、教科書をしまう。そのうち結衣子の携帯にメールが届く。佐奈かららしい。「もうすぐ来るって」嬉しそうに告げた。
わたしは、空いた椅子を見詰めた。すると途端に、泣きたい衝動におそわれた。
さようなら、どこかへ行ってしまった人。
佐奈が店内に入ってくると、空席は埋まってしまった。溢れるものを堪える。「もうすぐ卒業かぁ」、誰かが言う。いずれ居なくなってしまう誰か。彼女らの行く末を阻むことは出来ないけれど、本当の意味でわたしの中から居なくなるわけじゃないから、まぁそれなら、いいのかな。談笑をしり目にわたしは洗面所へ向かう。ハンカチに涙を染み込ませる。鏡を見るとひどい顔になっていた。何度も冷水を肌にぶつけた。わかった、もう認めよう。すべてはうつろっていくんだ。
席に戻るとわたしは一度、友人たちの顔を見回した。今度みんなで写真を撮ろうよ、そう言ってみた。