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基本的に、僕は後悔をしない。
だけど、こうなった今なら考えなくもないのだ。
「ねえ、そこまでこのコが望んでるなら、いいじゃない。僕は構わないよ、ばあさん」
あの時、僕があんなに簡単に許したりしなければ、彼女は、こんな残酷な目に合わなくても済んだんじゃないかと。
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古の一族の中にあって、僕の存在は特別だった。
――――“神”。
本質がなんなのか、自分でも全く分からないというのが本当のところなのだが、まあ、代々の長をはじめ、一族のみんなが僕をそう呼び、奉って来たのは事実。
他人様にはおいそれと言えないような、特別な力も持っているしね。
ただ、僕を神たらしめている一番の理由は、〈記憶〉があるっていうことだと思う。
この世界の生物ならば、みな記憶を持っているじゃないかと言いたいだろうが、ちょっと違う。
僕の中には、“僕以前”の“僕”の記憶が、全て蓄積されている。何代前とか、そんなレベルじゃない。――― 全部だ。
“僕以前”の記憶を思い起こすのは、書庫にある本の内容に目を通す時の感覚に似ている。
自分でも、よく混乱しないなあと感心しているのだが、僕が今の身体で実体験して積み重ねた記憶と違い、過去の記憶は感情を伴わない。まったく、上手く出来ているものだと思う。
さて、そんな僕だが、肉体が不滅なわけじゃない。
代々の“僕ら”は、伴侶を得て子を為し、命尽きたと同時にその近しい血族に生まれ変わるという行程を繰り返してきた。ちなみに僕の前身は、曾祖父に当たる人間。
伴侶は、なんというか直感のようなもので分かる。相手が一族の人間である必要はない。遠く昔に迎えた伴侶は、別の大陸から渡って来た男であったりもした。
もっとも、現在の僕の場合は、幼馴染として隣で育った、同い年の女の子であった訳だけど。
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「僕は、お前にあのコを渡すべきじゃなかったんだね」
怒り滾らせた目でこちらを睨んでくる男にではなく、僕はどこか独りごとを呟くような感覚で言った。
5年前のあの日――― そう、この国の世継ぎが、慣習通り僕への拝謁へと赴いた日。
この男は、僕の伴侶である娘を、舞台上で見初めた。
戯れで人間の前で舞うというこの遊びは、王が変わる度、“僕ら”が好んで行っていたもの。
あの年も、僕はあのコとともに舞い、その結果、彼女は男に目を付けられた。
それだけならまだしも、彼女自身が想いを返したというのが、本当に驚きだった。神であり、婚約者でもあった僕を差し置いて、ね。
『お前は、自分に課せられたものが何なのか、理解しているはずだろう!』
あの日、男と一緒に、一族を離れたいと願ったあのコ。
長である彼女の祖母が孫娘を叱責するのを前に、僕はどこか他人事のような思いでいた。
歴代の“僕”が抱いていたように、僕は伴侶である彼女が愛おしい。
何者にも代え難く、誰よりも幸福を願う。
…… だから、今でも不思議なのだ。
なぜ、あんな言葉を、簡単に口にしてしまったのか。
『ねえ、そこまでこのコが望んでるなら、いいじゃない。僕は構わないよ、ばあさん。あの男の元へ、行かせてやりなよ』
僕の言葉に、長は驚愕の表情を見せた。まあ、無理もないけど。
神様の言葉に逆らう権利なんて、この一族の誰にもありはしない。
あのコが森から出ることは、それからトントン拍子に決まっていった。
相手だったこの男は、貴族の中でもかなり上位の家の出であったらしい。なので、王太子に話をつけ、彼らの権力で二人の仲を周囲に認めさせるようにと厳命した。
それであのコは、幸せになれる。
そのはずだったのに。
「どうもさ、僕が考えていたほど、人と人との幸福ってやつは簡単なものじゃなかったってことだけど」
「…… 貴方は、俺があいつを不幸にしたと、そう言いたいのか」
「いや、そこまでは思ってないさ。お前たちの仲が最期まで上手くいかなかったのは、あのコにも至らないところがあったからだろうし」
夫婦とは、違う人間が寄り添い立って成るもの。
「お前だけのせいじゃないはずだよ」
行動や感情の選択は一方的に為し得るものでなく、互いに選び、与え合う。関係が壊れゆく責任は、双方にある。
だが、
「でもさ、お前のやったことにはさぁ、反吐が出そうだよ」
僕は、どかりと椅子に腰かけ、立ったままこちらを睨み見下ろす男を、斜めに見つめた。
多分、今の僕の表情は、これまでになく怒りに歪んでいるだろう。
僕に憎しみを叩きつけ続けていた男が微かに息を呑んだ気配がしたが、知ったことではない。
「あのコ以外の女の味は、あのコ以上に甘美だったかい?」
途端、男の貌に浮かんだ明確な怯えに、僕の心が仄暗い歓喜を上げた。
「なぁ、あのコではない女に触れたんだろう? どうだった? ずいぶんゆっくりと時間をかけて、お楽しみだったみたいだねぇ」
「……ゃめろ」
「そんなに具合が良かったのかな? まあ、分からなくもないけど。どうせ嘗めまわすなら、若木みたいなあのコより、妻持つ男にでも平気で股を開き慣れた女の身体の方が―――――、」
「やめろ!!」
激高した男が、強い力で僕の胸倉を掴んだ。
椅子から引き摺り上げられ、立たされてもなおある伸長差。
男は怒り狂った、でも、今にも大声で泣き出しそうな表情で僕を見下ろしているが、それで気を削がれてやるほど、僕もご機嫌な気分じゃなかった。
「…… お前さ、言ったよな」
彼女と二人、僕に結婚の赦しを得にやってきたとき、この男ははっきりとほざいたのだ。
「『この女性でないと、駄目だ。この女性が傍に居てくれさえすれば、他に何もいらない』」
その時の台詞を、一言一句違えず繰り返してやる。
「嘘吐きめ」
青ざめた男は、空の呼吸を小刻みに繰り返しながら振るえた。
僕は胸元を握る、自分より大きな“大人の手”を叩き落とし、陰鬱な笑みとともに、口元に言葉を乗せる。
「何が、彼女さえ、だ。お前は、あのコ以外の女とでも、平気で一緒にいられるじゃないか」
床を共にしたこと、それだけを指したわけじゃない。
わざわざ口にはしなかったが、こいつにはちゃんと伝わったはずだ。
あのコであればいい。
共に、時間を重ねていく相手が。
だが、相手があのコでなくても、たぶん、この男はそれなりに幸福な時間を共有できた。
―――― ならば、
「盗らなければよかったんだ、俺のあのコを」
5年間。
人生の中では長いようだけれど、たったの5年間。
その短過ぎる時間ですべて泡に帰す、戯言の様な時間を望んだだけというのなら。
「僕は、お前を、彼女に二度と合わせない」
これは、神の罰じゃない。
彼女を愛する男からの断罪。
この男は、多分知らないだろう。
長が孫娘に与えた、指輪の力。
あれは、現世の中で最も強いとされる、神との縁を無理やりに断ち切るための、唯一の術だった。
本来、繋がれるべきだった僕と彼女の糸を、僕からこの男へ。
そのようして無理やりに繋ぎかえられた歪な縁だったが、その崩壊による反動により、さらに捻じくれてしまった。
もう、取り返しがつかぬほどに。
「……なあ、まだ気付かないか?」
僕は、自らの全身を指し示す。
伸長、面差し、声音。
初め、男は何を言い出されたのか理解出来ていない様子だったが、はっと顔を強張らせたのち、傍目にも分かるほどに震え始めた。
――― ああ、そうだろうとも。
そうこなくては、面白くない。
僕は、この5年を経て初めて、自分が人間とはかけ離れた存在であるという、自覚を得る羽目になったのだから。
「なあ。次は、僕が彼女を抱いてもいい番なのかな?」
唯一無二の伴侶を見失った僕の身体は、15の数え歳のまま、時を止めている。
伴侶を失った捻じれのせいなのか、それとも、子を為し得る別の伴侶を得るまでの猶予のためなのか。
原因となった伴侶が解き放たれたこの先、どうなるかは神であるとされる僕でさえ知らない。
「やめろ! やめてくれ!」
そんな絶叫を浴びせられても、ただ愉しいと思うばかり。
ああ、こんな僕を喜ばせるなんて、本当に愚かな男だね。
「やめてなんか、やるわけないだろう?」
ああ、愉しい。この先のことを想うと、腹の底から。
だって、そうだろう?
なにしろ、僕の記憶は過去の分だけで、未来のことは何も分からないんだから、ね。
+ + + + + +
あのコを手放す選択をした愚かな僕。
蓄えられた長い記憶をたどっても感情は読み取れないのだから、生まれて初めて抱いたこの“後悔”は確かに僕だけのものだ。
この先、彼女と僕がどうなっていくのかは全然わからないけれど。
ただ、一つだけ言えることがある。
僕は、
「もう二度と、君をあいつに渡したりはしない」