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「お嬢様! お願いです、もうおやめくださいませ!」
屋敷の廊下、裏庭に面した窓の傍を通り掛かったとき、その叫び声が聞こえた。
ほとんど悲鳴に近い嘆願。見ればやはり、声の主はあの“お嬢様”の家庭教師だった。
まあ、今は付添人としての役割の方が主なのだろうけど。年若い主に対し、淑女の見本となるべき女が、他人の家であんな大声を上げるなんてね。
主であるあのお嬢様の質も知れたものだと、あたしは鼻で嗤った。
お嬢様と呼ばれた現当主の従姉妹に当たる娘と、その家庭教師が居たのは、一つの小さな花壇の前だった。
この広大な庭園の中にあって、屋敷から近過ぎず、かつ遠くもないその場所。
ついこの前まで、あたし自身、毎日通っていた花壇。
あたしと、あたしの若奥様が大好きだった――――。
『――― ねえ、みて。もうこんなにも花が咲いたわ。きれいでしょう?』
あなたが、一緒にお世話してくれているおかげね、と向けられたあの笑顔。
この庭園に咲き誇るどんな豪奢な花よりも尊かったあの微笑みは、もうこの屋敷で咲くことがない。
あたしたちが丹勢込めて慈しんだ花壇の花々も、今は無残に枯れ果てて……。
「お嬢様、いいかげんになさいませ! 」
家庭教師は、まだヒステリックに喚いている。庭仕事のまねごとなど、はしたない、と。
そんな女を無視して、お嬢様は必死に何事かの作業を続ける。骸の山と化した枯草の中で、お高いドレスとお綺麗な手を泥だらけにしながら。
(あーあ、あんなに顔を涙でべたべたに汚しちゃって)
――― みっともない。醜いことこの上ないわね。
かつて、花の手入れで汚れた若奥様の手を目にしたあの女は、そう吐き捨てた。
花を、若旦那様を慈しみ、慣れない環境でただひたすらに枝を伸ばそうとしていた若奥様。そんな彼女に毒を注ぐが如く、周囲は嘲りの言葉を浴びせ続けた。
悔しかった。
悔しくてたまらなくて、幾度も泣いた。
父が亡くなったため家族と別れ、この屋敷で働き始めたばかりだったあたし。
いきなり、若奥様付きの侍女に任命されたことに驚き、戸惑って。
…… 今思えばそれさえも、若奥様を認めない屋敷の人間たちによる嫌がらせだったのだろう。
不慣れだから、当然、あたしは失敗を繰り返した。連中の思うつぼだったはずだ。
だけど。だけど、若奥様は。
『わたしもね、初心者なのよ。半人前にすらなっていない、奥様初心者。一緒ね?』
カップを落したあたしの手を取り、火傷していないかと真っ先に確かめてくださった若奥様。
『頑張って、一緒に一人前を目指しましょうね』
あの方は、そう仰った。
念のためにと、冷たい水に浸した布であたしの手を包んでくださった、あの温かい掌。
たしかに、その手の肌は日に焼けていて、とても貴婦人のものと呼べるものではなかったかもしれない。
けれど、あたしにとっては伝わってくる体温――― それ以上の温かさを持った手だったのだ。
「ああ! やっとみつけたわ」
窓辺に立ったまま、思い出に浸っていたあたしに、声が掛かる。
声の主は、侍女頭。足早に近づいてきた彼女は、ひどく息を切らしていた。探していたのよ、と気が立った様子であたしを詰る。
「あなた! ここ最近、若様にお出ししていたあの香茶をすぐ用意なさい。たった今、捜索からお戻りになったところだから」
「………」
「疲労にとても効く薬草茶なのでしょう? 料理場の人間が、あなたがいつも用意していて、若様の侍従に渡していたようだから、あなたに頼んで欲しいと」
若奥様が屋敷から姿を消して、早一月。
年若い夫人の痕跡は一向に掴めず、もはや捜索に加わっている大方の人間が、その帰還を諦めている状態だ。
そんな中、若旦那様だけは、今でも狂ったように探し続けている。
倒れそうなほどに疲弊した身体で無茶な捜索を続けているため、ご家族をはじめ古参の使用人たちは随分心配し、心労を募らせているようだが……。
「ご用意できません」
老いた目の下に濃い隈を作った女を真っ直ぐに見据えて、あたしは応えた。
拒絶を聞くとは思いもしなかったであろう。侍女頭が、驚きののち、怒りを露わにした。
「用意できないとはどういうこと?! 仮にも主人が―――!!」
「誤解なさらないでください。なにも、用意をしたくない訳ではございません。無い物は準備できない、と申し上げているのです」
冷静に。相手の感情につられないで。穏やかな口調で。
若奥様のために、必死に勉強した侍女としての心得。
言い知れぬ努力を続けていたあの方のお傍に居たかったから、あたしも地反吐を吐く思いで勉強し、マナーを、仕草を身に付けた。
この数年間のあたしは、すべてあの温かな女主人のもの。あの方だけの。
「あの香草茶は特別な品。もう手に入らないのです」
「そんなに珍しいものだったの? あなたが用意したということは、あの方が……若奥様が若様の為にお取り寄せになったということよね。意外だわ。あの方に、よくもまあそんな金銭の余裕があったこと」
「………」
「まあいいわ。あのお茶のことは、若旦那様だけでなく、大旦那様もいたくお気に召していらっしゃるの。伯爵家の出入り商人たちは商売の手も広いから、珍しい品でも取り寄せ可能かもしれないわ。あなた、産地くらいはわかるのでしょう?」
多少値が張る商品でも構わない。産地さえ分かれば、なんとでもなるから。だから、教えなさい。
傲慢にそう言いきった侍女頭。
あたしは、破裂しそうな嗤いを堪えるのに必死だった。
「産地なら……」
努めて平坦な声で答えを伝えた。
「産地なら、いつもご覧になっているじゃありませんか。ほら。あそこでございます」
呆けた声で侍女頭が視線を向けたのは、私が指示した先。
恥ずかしげもなく泣き叫び続けているお嬢様とやらが荒らしまわっている、あの花壇。
「あの香草は、若奥様が故郷からお持ちになった種からお育てになったもの。とても希少な種で、地元の人間でもなかなか手にすることが出来ないそうです」
その上、収穫してから数刻以内に飲用しなければ、薬としての効能は消えてしまうという、とても不思議な代物。だから、茶葉としては流通しない。
「とてもお忙しい若旦那様のお身体を気遣い、若奥様は懸命に育てていらっしゃいました。少しでも旦那様のお力になりたいからと。失礼ですが、侍女頭様。異国の土地で、植物を育てることがどれだけ大変なものか、ご存じでしょうか?」
「あ、だけど、そんな……」
「けれど、それももう無意味なお話ですね。あなた様の進言で若旦那様からのお叱りを受け、若奥様はあの花壇を手放すことになったのですから。いまはもう、あんな状態ですし」
薬草と、そのほかに沢山植えられていたハーブや花々は、雑草の波に呑まれて、もはや見る影もない。ひとつ残らず、無残に枯れ果ててしまった。
いまはただ、遅すぎる罪悪と後悔を垂れ流す人間に、蹂躙されるだけの場所。
「わたしへの御用がお済みならば、これで失礼させていただきます」
呆けたまま、窓の外を見ている侍女頭へと、あたしは丁寧にお辞儀の姿勢を取った。
女はあたしが去るのに気付いていないようだが、どうでもいい。
近頃、社交界でまことしやかに流れる、若旦那様と男爵未亡人との噂。
――― 今さら、過労で倒れるほど妻を探したところで、何だというのだ。
散々陰湿な態度をとり続けてきた屋敷の人間たち。
――― 自らの行いを省み恥じ入っている癖に、謝罪のひとつもなく、ただ相手が歩み寄ってくることばかりを願う甘えた連中に、これ以上何の期待ができるのか。
期待することも、絶望することも、失望することも。
それらは、とても疲れることだと、あたしはここで嫌というほど知った。
ここでのあたしのすべては、あの若い女主人とともにあった。
歓びも、悔しさも、楽しさも、悲しさも―――― 全部、ぜんぶ。
今のあたしを形作るのは、あのお方。
だから、わかる。
あのひとは、もう二度と、ここには帰って来ない。
もう、あの唯一の主人がここを永遠に離れるというのならば。
「もう、いらない」
もう、ここはいらない。
あたしにも、ここは必要ない。
「もういらない」
あたしは、そう唱え続ける。
そうしていないと、寂しくて、悲しくて、疲れ切ってしまうから。
何も云わず、あたし一人を置いて行ってしまった、あの温かいお方。
大好きなあの人を、恨んでしまいそうになるから。
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その日、職を辞した一人の侍女は、以降、二度と屋敷に姿を見せなかった。