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 息子が、狂いかけている。

 屋敷に居る誰もが、それに気付いていた。





 我が伯爵家は、国内でも有数の古い名家だ。

 代々、優秀な高官を排出してきたことから王家の覚えも目出度く、後継ぎである息子も幼い頃より王太子の学友として、王宮へ出入りしていた。

 社交界の花として名高かった妻の面差しを受け継ぎ、学業や政務でも優秀な成果を残してきた彼が、私は自慢だった。

 本人には伝えたことはないが、我が誇りと感じていた。


 その息子が、ある日突然、どこの誰とも知れぬ平民の娘を連れ帰るまでは。




 王太子の随行として、地方視察に派遣された時のこと。

 1か月に亘る公務を終えて帰宅した息子を出迎えた私は、彼の隣で戸惑うようにして佇む若い娘の姿があることに驚いた。

一見して、貴族の娘でないことは分かった。

 ほっそりと清楚な形ではあるが、日に焼けた肌色は浅黒く、目鼻立も取り立てて美しいとは言い難い。息子が買い与えたのであろう上等なドレスが余りにも不似合いで、いっそ滑稽な程だった。

「彼女を、私の妻として迎えます」

 案の定、そう切り出した息子。

 それも、許可を乞うのでなく、宣言だ。救いようがない。

 私は、娘を見据えた。険を孕み、苦々しく歪んでいるであろう私の視線を受け、小娘は小さく身を震わせる。

 その様は、昔、舞台の幕間で目にした、陳腐な見世物を思い起こさせた。

 あれは確か、森で捕えた野生の子猿にゴテゴテした衣装を着せ、無理やり舞台に放り出すというものだった。

 周りを囲む道化の男たちに囃し立てられ、怯えて動けなくなった、小さな動物。

 ――― この娘は、あれに似ている。

 こちらに向けられた目は、まさにそのものじゃないか。

 馬鹿げていると思った。

 こんな娘を、この由緒ある伯爵家の嫁にしようだとは……。

「我が息子は、いつから道化になった?」

 私は、はっきりと拒絶の意を下した。



 息子は怒りを露わにし、娘を引き摺るようにして部屋を出て行った。

 去り際、自分たちの婚姻は、王と王太子によりすでに認められたものであること。そして、近い内に式が執り行われることは、決定済みなのだと言い捨てて。

 

 何がどうなってそのような事態になったのか。

 すでに当主の座を譲り渡しているとはいえ、長らく自分が守ってきた伯爵家がこのような事態に見舞われたことに、沸々とした怒りを覚える。

 誇りだと思ってきた息子に、私は初めて失望した。


 寄りにもよって、何故あんな無様な娘を選んだのか。

 この部屋に居る間中、ビクついてばかりいた、気品の片鱗すら感じさせないあの小娘。

 その瞳に、始終浮かんでいた怯えと傷心の色を思い出して、私は嘲りに口元を歪めかけた。


 だが、その時、ふと思ったのだ。


 何故、こんなにもあの娘の瞳を強く覚えているのか、と。


 答えには、すぐに行き当たった。

(逸らさなかったな)

 目を、一度も。

 あの娘は、自らを貶める私の視線から一度も逃げなかった。


 そのことに対し、一瞬とはいえ、無意識に賞賛の念を抱いてしまった自分をも、私は嫌悪した。

 




 + + + + + +



「あなた……、あのの手掛かりはまだ見つからないのですか?」

 奥が――― 私の妻が、心痛な面持ちで縋るように聞いてきた。

 やっと得られたはずの手掛かり。だが、それもすぐに途絶えてしまう。有益な情報が、何も得られない。

 その事実を遠回しに伝えると、やはり、彼女は顔を両手で覆って泣き崩れた。

 何度も繰り返される、娘の名。

 くぐもった嘆きを、涙とともに零し続ける連れ添いを宥めながら、私は心なしか肉の薄くなった彼女の背中を目にし、胸を刺されたかのような痛みを味わう。


『――― 旦那様』

『――― もう、おわかりでしょう? 旦那様のことが大好きな、奥様のお気持ち……』


 脳裏に、生意気にもそう告げた時の、あの娘の声が蘇る。







 いつからだったのか。

 何がきっかけだったのか。


 初めは、私以上に娘を嫌っていた奥。

 辛辣な態度を取る彼女を、私は諌めなかった。


 だから、ある日突然、子供の様に泣きじゃくる奥を伴った娘が、私の執務室を訪れた時、心底驚いたのだ。

 奥の手を引く娘。結婚して以来、奥の涙を目にしたことがなかった私は、何事かと娘に怒鳴った。

 すると、なんとあり得ないことに、奥が娘を庇うではないか。

 しゃっくりで、涙の理由が言葉にならない奥に代わり、娘が静やかな落ち着いた声音で語る。

 ……そうだ。あの娘の声は女にしてはやや低く、どこか人を穏やかな気持ちにさせる音を持っていた。

 奥を泣かせた原因かもしれない、普段毛嫌いしている娘の話を大人しく聞くになったのは、今にして考えれば、あの声のせいかもしれない。



 娘の話は、意外なものだった。

 かつて、社交界の華と謳われていた奥が、仕事一筋だった私に、知り合う前から恋焦がれていたこと。

 家同士の結び付きのためという名目であれ、結婚を申し込まれた時、どれほど嬉しかったのかということ。

 なのに、結婚後も仕事ばかりで、全く向き合って貰えなかった悲しみと寂しさ。

 息子に恵まれて喜びに満ちた日々が訪れた反面、それでも変わらなかった、奥への姿勢に対する失望……。



「なぜ、そうならそうと言わなかったんだ?」

「……言えるわけないじゃないですか」

 狼狽えながら問うた私に返されたのは、長く連れ添ってきた女性の、涙に濡れた答え。



 若き日、彼女はまるで、艶やかな大輪の薔薇のようであった。

 気高くも甘やかな芳香を放つ、一輪の高貴な花。彼女に魅了された男は数知れず。

 一方、そんな美しさを自ら守ろうとするかのごとく、とても気が強いことでも知られていて………。

 奥に焦がれた男たちが手酷く袖にされている様を、いつも遠くから見つめていた私は、結婚を申し込む日の朝に思ったのだ。

(決して、彼女に必要以上に愛情を押し付ける真似はすまい)

 家のために尽くすのも貴族の務めであるとはいえ、望まぬ結婚を強いるのだ。それ以上は望むべきではない。そう、自分に言い聞かせた。

 だが、そんなものは欺瞞に過ぎなかった。

 ただ、怖かっただけなのだ。――― ずっと想ってきた女性に手酷く拒絶されて、自分が傷付くことが。


「旦那様。もう、おわかりでしょう? 旦那様のことが大好きな、奥様のお気持ち」

 何もかも分かって諭したような台詞が、癇に触る。

 だが、娘のその言葉は、間違いなく私の背を押した。

 娘の隣で嗚咽を零しながら涙を流し続けていた奥に、私は真っ直ぐ向き合い、そして――――………。






+ + + + + +



 今も、あの時と同じように、涙で濡れた奥の頬に触れている。

 目元に影を落とす悲しみの色が痛ましく見えれば、私の胸もまた、切り裂かれたかのごとく痛む。

 齢を経てなお美しい貴婦人であると名高い奥は、ここ数週間で一気に老け込んだ。

 そんな彼女を悲嘆から救い上げる術もなく、ただ抱きしめるしかない私は、本当に無力な年老いた男に過ぎない。


(何をしている。早く、早く戻って来い)


 胸の内で、見失った娘を叱る。

(妻を大切にしろと言ったのは、お前だろう?)

 連れ添いの涙を止める術を、私に与えてくれ。あの時のように。





『――― 旦那様』

『――― もう、おわかりでしょう?』


 ああ、分かっている。

 本当は、分かっている。


『――― 旦那様』


 決して、“義父”とは呼ばせなかったから、ずっと“旦那様”と私を呼んでいた娘。


 本当は、もう随分前から待っていた。

 あの声で、“義父”と呼んで貰える瞬間を。

 しぶしぶながら、それに応じる自分。

 その場面を夢見て。



 だが、もう二度とそんな日は来ない。

 娘が消えたと知らせを受けたあの夜。なんとなく、覚悟が伴わないまま、心の奥底でそう確信していた。




 奥を胸元に受けとめながら、ふと思い起こす。


 あの、娘と初めて対面した時に連想した、見世物の小猿。

 観劇を終えて劇場を後にし、馬車に乗ろうと外を歩いていたとき、私は偶然に見たのだ。

 逃げ出した小猿。

 窮屈な衣装をそこ彼処に破り脱ぎ捨て、走り去ってゆくその姿を。

 あの劇場の裏手は、広大な森。

 だが、猿は塀を飛び越え、暗い闇夜に落ちた街の中へと消えて行った。

 ――― 一度、森から離された生き物が、再び故郷に受け入れられることはとても難しい。

 いつか聞いたそんな言葉が頭を過る。



 あの小さな生き物は、あれからどうしたのだろう。

 きっと、本能的に、もう生まれた土地には帰れないと知っていた。

 二度と戻れないと、分かっていた。


 あの、己の運命から外れ、人の手に囲われた哀れな生き物は、どうなったのだろう。




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