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妻は、森に暮らす民の出だった。
“古き一族”
そう呼ばれる民の、長の孫娘。
俺と夫婦の契りを結んだことで、彼女は5年前、この国の王都にやって来た。
伯爵家の一人息子である俺の妻となったのだから、彼女は必然的に伯爵夫人となる。
森の外をほとんど知らない娘が、その地位に立つのは容易なことでない。それは元より予想出来たことで、覚悟もしていた。
彼女なりに、慣れない貴族の生活に馴染もうと努力しているようだが、案の定、父を筆頭に、母や俺の従姉妹とも上手くいっていないようで……。
まあ、彼らがあそこまで妻に辛辣に当たるのは、未だ、自分たちの間に子が無いことが原因だろう。
姿を消しているのは、それらのストレスからだろうか?
そういえばこの間、侍女頭が「若奥様の土いじりをお止ください」と訴えに来たので、彼女を強く諌めたことを思い出す。
――― 貴婦人は、手を汚すことなどしない。いい加減、自覚をもってくれ!
ここは森とは違うのだから、と冷たく言い捨てた。
(あれは、仕方がないことだ)
今言って置かなければ、妻の為にならない。
俺はそう考えて苦言を呈したつもりだったのだが、あの時、彼女は肯定の返事を返さなかった。目を伏せ、唇を閉ざしていただけ。
…… 前は、何でも笑って頷く、素直な女だったのに。
最近、ずいぶんと扱い辛くなってきた妻。
(それを思えば、今日抱いたあの女は扱いやすくて良かった)
俺は、口元を笑みの形に歪めた。
相手は、極秘の政務調査に協力してくれた男爵未亡人。
これだけ尽くしたのだから、と引き換えに望まれた行為だった。
とはいえ、男遊びに慣れた未亡人の豊満な肢体は、未だ青さを感じさせる妻の身体では得られぬ快楽を、十分に与えてくれた。
真昼から続いた、淫靡で享楽に満ちた時間。
他の女と床を共にしたのは、妻と出会って以来初めてのことだったが、背徳的とも云える目合いの一時は、中々に楽しいものだった。
散々堪能させて貰った、蕩けるような肌の味を思い起こしながら、そういえば、と俺は気付く。
――― しばらく、妻を抱いていない。
(仕事が、立て込んでたからな)
夜半までに帰れないことなど、ざらだった。
結婚したばかりの頃、毎日欠かさなかった午後のティータイムも、ずいぶん長い間、共にしていない。
彼女の生まれと、俺の身分。
とんでもない苦労の末、一緒になることが出来たある日、彼女は言った。
『あなたとこうして居られるなんて、ほんとうに夢みたい』
陽光にけぶる庭の東屋で、茶を差し出しながら、頬を染めて微笑った彼女。
“幸せ”という言葉を、本当の意味で知ったのは、多分あの瞬間。
「…… あーもう、仕方ないなぁ」
本当に仕方ない男だ、俺は。
無意識に浮かんでくる笑みを噛み殺しながら、俺は整えていた髪を手櫛で掻き崩した。
部屋を出て使用人を一人捕まえると、着替えを済ませた後に、自分も妻を探しに出ると言い渡す。
伯爵家自慢の広大な庭。
どのあたりを捜索し終えたのか知らないが、まずはあの東屋に行ってみよう。クラバットを緩めながら、そう考える。
あそこは、彼女が一番好きな場所だから。
今日の浮気が妻に知れることは、この先もあるまい。
たった一度の遊び。
俺は彼女を誰より愛しているし、彼女もまた、俺を愛している。
きっと、拗ねているのだ。
当分相手出来なかったから、拗ねて隠れているのだ。
寂しがり屋で、可愛い女。
男なら誰でも構わないあの未亡人とは違う、俺でなければいけないと泣く女。
心配した俺が迎えに来るのを、きっとあの東屋で待っている。
「暗いところが嫌いなくせに」
真夜中の庭は暗いから、怖くて震えているに違いない。
もしかしたら、めそめそと子供のように泣いているかも………。
突然、一人で吹き出した俺を、近くにいた使用人が怪訝な目で見てくる。それを適当に誤魔化して、俺は西庭へと向かった。
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結果として、妻は見つからなかった。
東屋だけでない。
庭を含む屋敷の敷地内の、どこにも。
侍女が、彼女の部屋のクローゼットが空になっていることに気付いたのは、翌朝のこと。
王都の孤児院から、多額の寄付に感謝するとの礼状が届いたのは、昼前のこと。
私兵を投入した捜索により、彼女が王都から完全に姿を消しているのだと判明したのは、翌日の夕時のこと。
探して探して、狂ったように探して。
眠ることすらせず、再び探しに出ようとした俺を止めようとする家令と、ひと悶着起こしていた3日目の夜のこと。
突然に、妻宛てに届けられた、遠い地に観光に出掛けているはずの従姉妹からの手紙。
妻を一方的に嫌っていたはずの女から送られてきた手紙だ。碌な事が書かれていないだろうと思いつつも、何かの手がかりがあるかも知れないと、藁をも掴む思いで封を切った。
『おめでとう』
手紙の始まりに踊る優美なその文字の意味が、頭の中に伝わらない。
『おめでとう!
今日、旅先でメイソン医師の奥様に偶然お会いしたの。
ついに、お子を授かったのね。あまりに嬉しかったので、聞いた途端に泣いてしまったわ。
旅行を切り上げ、帰途の路に着くことにしました。貴女に会える日が、待ち遠しくてならないわ。
ここは花の都と呼ばれるだけあって、綺麗で可愛いものが沢山あるの。貴女と、生まれて来る赤ちゃんへ、お土産を目一杯買ったので覚悟してらっしゃい。
親愛なる貴女の友より』
手紙を持つ手が、震えた。
やはり、碌なものじゃない。
封筒の中には、罪なき無垢な悪意が込められていた。
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しかし、その時の俺は、更なる絶望が待ち構えていることに、まだ気付いていなかった。
男爵未亡人と床を共にした際に、外しておいた金の指輪。
あの日身に着けていた、上着の胸ポケットに仕舞われたままでいるそれから、二人で愛を誓ったはずの石が失われている事実を。
妻が消えて一週間経った日の夕刻。
俺は夕日が差し込む自室の窓辺で、空になった指輪の台座を食い入るように見つめていた。
まるで、そうしていれば、再び石が湧いて出るとでもいうくらいに。
脳裏で、声がする。
意識とひどく遠い場所で、過去に告げられた言葉が響く。
『その石は、本来ともに出来ぬはずだった、そなたたちの生を繋ぐ。だが、覚えておいで――――、』
昔、与えられた言葉。
真に受け取っていなかった言葉の恐怖が、俺を徐々に蝕んでいく。
『捧げられたはずの想いが、真が潰えたと石が判断した時には………、』
あの時、妻は加護だと言ったが、俺には違うものに聞こえた。
『潰えたと石が判断した時には………、お前たちは、もう二度と合えない』
救いの無い、呪いのようだ。
そう感じたのだ。