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俺が屋敷に帰り着いたのは、すでに日付が変わりかけた時間だった。
朔の夜闇は深い。
篝火を頼りに馬車から下り、俺は疲れた息を吐きながら玄関ホールへと向かった。
大理石を使った階段は、夜目にも白く映える。
重く感じられる足を一歩ずつ進めていたのだが、ふと、靴底に僅かな違和感を感じ、足元に目をやった。
白い階段上に転がっていたのは、黒く小さな甲虫の死骸。
砕かれた虫の外殻は潰れ、翅も千切れている。
「旦那様!」
入口に入るとともに呼び止められ、俯け気味だった視線を上げた。
何だ、うるさい。
俺に声を掛けてきたのは、長年我が伯爵家に仕えている家令だった。
小走りにやって来た初老の男を見て、少し意外に思う。普段、人一倍、礼儀や作法に厳しい男が、屋内で駆ける姿を目にする日が来るとは。
「お帰りなさいませ」
「ああ。すまない、遅くなった。騒がせたか?」
「いえ。旦那様、お疲れのところ申し訳ないのですが、大旦那様がお呼びです。至急、お部屋にお越しください」
「父上が?」
「お早く」
舌打ちを、辛うじて押さえた。
疲れていると分かっているなら、急かすな。
「どこに行っておった」
「仕事ですよ。他に何が?」
とぼけてみたが、目の前の父親は気付いているのかもしれない。
香水の残り香でもあるのだろうか?
先ほど廊下で出くわした侍女長も、妙な表情をしていた。やはり、一度部屋に戻って着替えた方が良かっただろうか。
父は、頭痛を堪えるように眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえた。
「…… このような時に、よくもそのような」
「何かあったのですか? そう言えば、屋敷内が騒がしいですね」
廊下を行き交う使用人の数が多い。
庭にも、複数の松明が灯されているようだ。
「お前の妻が、いなくなった」
父の言葉に、俺は首を傾げた。
「どういうことです?」
その質問に、深い意味はなかった。ただ、居なくなったとはどういうことなのか、それが聞きたかっただけだ。
しかし、父はそう受け取らなかったようだ。
「お前は、私が何かしたとでも言いたいのか!」
「悪意的に取らないでください。俺は、今どういう状況にあるのかをお聞きしたいだけですよ」
本当にそれだけだ。
父は訝しげに俺を見た後、深々と椅子に背を預けた。
「…… 今日の午後、心の蔵が痛いと奥が言い出してな」
「母上が?」
「結局、大事は無かった。医師の見立てでも、もう心配はないということだ」
「そうですか……」
容体が落ち着いた母は、そのまま薬で寝入っているらしい。
夕刻まで続いたその騒ぎが落ち着き、その後、メイドの一人が報告のために妻の部屋を訪れた段階になって初めて、彼女の不在が知れたらしい。
「つまり、いつから居なくなったのか分からないということですね」
姿が見えないと気付いたのが夜とは…… 遅すぎるだろう。
「どこかに出掛けているということは?」
「屋敷の敷地からは出ておらんと、門番から報告が上がっている」
「わからないでしょう。正門以外から出ていく方法なんて、いくらでもあるはずだ」
例えば、生垣から…… と言いかけたところで、父が遮った。
「考えられん。あの娘が、このように皆に迷惑をかけるような真似をするはずがない」
絞り出すような、しかし、断固とした声音。
心底そう思っているらしき父の表情を目にし、俺は一瞬黙したのち、思わず笑ってしまった。
何がおかしい、と視線だけで問うてくる父に、俺は目元を眇めて答える。
「意外ですね。貴方が、彼女をそんな風に評価するなんて」
「………」
黙ってしまった父を見て、俺は嗤う。
散々、妻の生まれを貶し、この伯爵家に相応しくないと罵って来た者が、貶め続けてきた当の娘を擁護するとは。
これが、笑わずにいられるか。
そんなことばかり考えていたから、次に掛けられた父の言葉に一瞬詰まった。
「…… お前、心当たりは無いのか?」
「ありません」
心外だ。
俺にそんなことを聞くなんて、と無表情の下で憤った。
俺は、彼女をこの世で一番愛しているというのに。
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妻の部屋は、いつも整っている。
それは、彼女が極度の綺麗好きだから、という理由だけでない。持ち物が少ないから、必然的にそうなるのだ。
家具やインテリア、彼女に相応しい衣裳とアクセサリーを、もっと買い揃えたい。常々そう思ってはいるが、この伯爵家当主の座を継いだ今でも、屋敷の実権を握っているのは父だ。俺の自由になる財産は少なく、思うようにならないのが現状だった。
――― 早く、父を凌ぐ力を身につけたい。
それを願って、政務に打ち込み、忙殺される日々。
「まったく、手間をかけさせる」
疲れているのに、余計な騒ぎを起こしてくれたものだ。
居なくなったという妻に対し、俺は胸の内で毒吐いた。腹を立てながら、暗闇に沈んだ彼女の部屋を見廻す。
「くそっ」
苛立ち紛れに右手を叩き付けた、テーブルの上。
ふと、塵一つない部屋の中には珍しく、黒い小さなゴミが落ちていることに気付いた。
固くて丸い物が、二つに砕けたように見える何か。
俺は、顔を顰めた。
手持ちランプの灯りの下で見ていると、それはどこか、先ほど玄関で見つけた甲虫の死骸を思わせたのだ。
――― 掃除を怠らぬよう、侍女長にきつく言い付けておかなければ。
そう考えつつ、ゴミを手で払い落した。