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 それが、渇いた音を立てて割れたのは、唐突だった。



 中央で二つに裂けた石が、指輪の台座から離れ、テーブルの上に落ちる。

 その一連の成り行きと終りを見守ったわたしは、全てが過ぎてなお、静かに微動だにせずそれを見つめ続けていた。

 それまで赤い光を持つ宝石であったことが不思議なほどに、黒灰色に染まった石の欠片。


(…… ああ、わたし、さっきまで何を考えていたんだっけ?)

 黒い黒い、炭の色。

(そう、そうだったわ。確か……、)

 もう、甘やかな光を通すことはない。

 ついさっきまで、確かにわたしの顔を映し込んでいた丸い宝石に、この先、何かが明るく映し出されることは、もはや無いのだ。


「“永久(とわ)の愛”って、どういうものをいうのかしら?」


 そっと、声にならないくらい小さく、さっきまで頭に巡らせていた問いを、唇に乗せた。

 当然ながら、それに応える者はない。

 ここは、穏やかな午後の、誰もいないわたしの自室。

 今日は、いつものように一人きりでお茶を楽しんでいたはずで、取り立てて特別な日だったわけでもなくて。

 ――― でも、一瞬で全部終わった。

 ずいぶん呆気ないものだと、頭の片隅で誰かが嗤う。

「………」

 ふ、と自分の口元も、つられて歪んだ。



 ここで、いつまでもこうしている訳にいかない。



 わたしは手の内ですっかり冷めてしまったカップを握り直し、ぐっと残りの紅茶を呷った。

 いつの間にか渇いていた喉に心地よい温度の液体が流れ落ち、麻痺しかかっていたわたしの内側を優しく宥めてゆく。

「さあ、支度をしなきゃ」

 どうせ、わたし個人の持ち物は少ない。準備にはさほど時間を要さないだろう。

 閉じられたクローゼットの中には、いくつか与えられた華美な宝飾品やドレス。

 もうこの先使われることのない、わたしには身に余る高価な品だ。

 正当な嫁として認めたわけではない、と言い放った舅が、わたしに過分な物を買い与えるなと許さなかったのが幸いした。あまり数も多くないので、道すがらどこかの店で売ればいい。

 得た代金は街の孤児院に寄付しよう。姓を告げておけば、きっと後からこの屋敷に礼が届くはずだから、わたしのしたことだと当主の父である舅にも分かるはず……。

 地味で野暮ったいと、姑や夫の従姉妹から散々貶され続けていた普段着のドレスを脱ぎ、結婚前に着ていた町娘の洋服に袖を通した。さらに野暮ったくなっちゃったわね、と少し可笑しく思って笑みを零す。

 もし、この恰好をしたわたしを見たら、彼女たちはどんな表情をするだろう?

 必要に迫られてやむなく買い与えた最低限のドレスを、認めぬ嫁が勝手に売り払ったと知った時、舅はどんな表情をするのだろう?

 由緒ある伯爵家に仕えることを誇りとしているあの家令や、侍女頭は?

 そして………、

 ………………………、

 ………………………………、


 そこまで考えかけて、わたしは思考を止めた。

 あっという間に整った旅の支度。

 もう、ここに居る必要はない。

 ――― この、嫌という程に、夫との思い出が染み着いた部屋には。





 ドアノブに手を掛けたわたしは、最期に一度だけ振り返った。

「さようなら」

 届かない別れの言葉を、誰もいない部屋に託す。



 きっと、この部屋を出て屋敷の中を歩き、外へと繋がる門を潜るまでの間、誰とも出くわすことはないだろう。

 昼の日中、この大荷物を引き摺りながら街を歩いても、誰かが引き止めることなく。

 みすぼらしい小娘が、高価な品を売り捌きに来ても、商人が不審に思うことなく。

 身に余るであろう大金を携え、寄進に訪れた娘からの施しを、孤児院は拒むことなく。

 何の問題も障害もなく、わたしはこの街から離れてゆける。


 わたしは、それを知っている。

 だから、彼に渡らない言葉を、わざわざ残そうとはしなかった。








「“永久の愛”って、どういうものだったのかしらね」


 屋敷をあとにした後、全てを終えたわたしは、長距離の旅馬車に乗り込んだ。

 揺れる車内。

 外は月明かりすらない夜で、広がる平原には、民家の灯り一つない。

 寝静まった他の乗客とともに毛布に包まっていたわたしは、独り、ぽつりと無意識に呟きを落した。


 あの日、祖母が告げた“永久の愛”という言葉。


 結局、何をどうすればそこに行き着くことか出来たのか、わたしには――― いや、わたしたちには解からず仕舞いだった。

 手元に残されたのは、わたしたちがあの日誓ったはずの想いが潰えてしまったのだという事実だけ。

 石を失った金の指輪。

 もう薬指に無いそれは、心もとない星明かりの中で現実を明確に教えてくれている。

 想いの残骸に過ぎないのだから、捨ててしまえばいい。

 そんな考えも過ったけれど、どうしても手放すことが出来なかった。


 だって、彼を愛していたこともまた事実なのだもの。


 わたしはわたしなりに、彼を愛し続けていた。

 断ち切られてしまった今でも、その過去に偽りはなかったと、それだけは自信を持って言える。

 だから、想像していた程に後悔の念はない。



(ああ……、でも……)

 一つだけ、たった一つだけ。

 これだけは、伝えることが出来ていれば良かったのにな、と思いながら、わたしは自分の腹部をそっと押さえた。


 だがきっと、この願いも叶わないのだろう。







 石は割れ、加護により繋がれていたわたしたちの路は、再び分かたれた。

 元より、捻じ曲げられて結ばれた縁。

 一度放たれた結び目は、もう、絡まることはない。




 彼とは………もう、二度と合えない。




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