12
白いテーブルに、白いクロス。
中央には、彼女が好きな桃色の薔薇を。
「まあ、坊ちゃまが手づから摘んで来られたのですか? わたくしに言ってくだされば、用意いたしましたのに」
可憐な色合いの花を生ける僕を見て、部屋の隅で茶器の用意をしていた侍女頭が、慌てて近寄って来て言った。
いささか大げさな仕草は、いつもの彼女の癖。年老い、耳が遠くなりかけたせいで声も大きくなりがちな彼女に、僕は朗らかに笑って見せた。
「いいんだ。僕が自分で用意したかったんだから」
まだ開き切っていない、蕾の薔薇。未だ綻ばぬ花弁を撫でながら見つめる僕に、侍女頭は笑みを浮かべる。
「本当に微笑ましいこと。若い方々のそのようなお心は、わたくしのような歳の者には、いささか毒ですわね。当てられてしまいますわ」
「なんだよ。からかわないでくれよ」
「まあ、照れなくてもよろしいじゃありませんか。わたくしは嬉しいのですよ。まだまだ子供だと思っていた坊ちゃまが、もうご婚約だなんて」
皺苦茶な頬に片手を当てて、心底嬉しそうに笑う老女。だが、次の瞬間、彼女は伏せ気味な瞳に影を映し、幸福を含んだものではない吐息を吐いた。
「本当に………嬉しいのですよ。………坊ちゃまだけでも、お幸せになることが」
ほんとうに、と。
繰り返し唱えるように呟く侍女頭に向けて、僕はほんの少しだけ悲しく微笑んだ。
「ごきげんよう」
「ようこそ。僕の婚約者さま」
抱擁とともに出迎え、桃色に染まった頬にキスを贈る。
鈴を転がすような声で笑う彼女。愛らしい彼女を伴い、先ほどのバルコニーへと向かう。
「まあ、素敵な薔薇!」
優しげな面持ちに花開くような笑顔が咲くのを見て、僕の胸にも温かな気持ちが広がった。
先月、婚約を結んだばかりの侯爵令嬢。それが、この目の前の愛おしい人。
父の従姉妹の娘――― 二従姉妹に当たる彼女は、僕と僕の妹にとって、出会った頃からとても大切な存在だった。
焦がれて、ようやく手に入れることの出来た大切な恋人とともに過ごす午後は、僕が最も幸福を時間する時間。
今日もこの一時を彼女とともに過ごせることの尊さ。
それを僕は、良く知っている。
「ねえ。今日、お義父さまにお会い出来るかしら?」
花の香のする紅茶を楽しんでいた婚約者が、ふと言い出した言葉に、僕は問い返した。
「父上に?」
「ええ。両家の会食をいつにするかお伺いして来るようにと、父から申し付けられているのだけど」
「ああそうか。もうそろそろ相談すべきだよね」
婚約に伴った正式な顔合わせ。両家の初めての会食は、貴族の婚姻では儀礼的な意味を持ち、非常に重用視される。花嫁の家で行われることを常としているため、彼女の家は前準備で大変だろう。
だが、
「ごめん、返事は少し待って貰えるかな。父上は、いま屋敷を空けておられるんだ」
「まあ、ご領地でお仕事でも?」
「いや。隣国の、湖に」
「……あ」
“湖”。
それが何を指すのか、僕の婚約者は知っている。
「そう。それなら仕方ないわね」
彼女はそっと微笑んで、テーブルの上に置かれた僕の手に、手の平を重ねた。
「亡くなったお義母さまがお相手だもの」
「………」
「お義父さまにとって、一番大切なことね」
温かい手。
「ありがとう」
僕を、僕らを理解してくれる彼女に、僕はいつも感謝を忘れない。
+ + + + + +
僕と、僕の双子の妹。
僕ら二人がこの伯爵家の直系――― 当主である父の子だと知れたのは、11年前。
この国の王太子の華燭の祝いで、この地に訪れた時だった。
それまで、僕らの家族は、母ひとり。
母は旅一座に身を寄せ、僕らを産み落とした。
歳若い、独り身の女。夫のないまま子を産んだ女。
街ではどうだか知らないが、旅に身を置く者たちの世界において、母のような身の上の人間は少なくない。座長をはじめとした一座みんなの温かい腕に守られて、僕らは幸福に育った。
母が、流行り病を得て亡くなり、1年ほど経ったあの日。
楽屋裏に現れた父に出会うまで。
真っ先に、母は何処だ、と幼い僕らに問いただした目の前の男。初めて目にするこの男が自分たちの父親だと、本能的に理解した。
ありのままに答えた、母の終り。
それを聞いた父は、魂を失ったかのように、その場で動かなくなってしまった。
僕らを伯爵家で引き取りたいと座長に申し出、実際に交渉したのは、前当主である祖父と、父の友人であるこの国の王太子だったと覚えている。
彼らは多少強引だった。
今考えると、必死になってくれていたんだろうと分かるが、幼い僕には少し不快だった。妹は、一座から無理やり自分たちを引き離そうとする彼らに、酷く怒った。
座長も最期まで渋っていたが、やがて「お前たちはどうしたい?」と僕ら自身の意思に委ねてくれた。確かこれにも、妹は泣き叫んで怒っていたと思う。
誰も、本当に伯爵家の御当主様が、旅一座で育った子供の父親であるかどうかを疑いもしなかった。
おかしなことだけど、無理もなかった。
僕と妹は、双子だけれどあまり似ていない。
みんなから、「誰に似ているんだろうね」と言われてきたけど、僕の方は父に会った瞬間、その答えがはっきりと分かった。
妹の方は、祖母だという女性に引き合わされた時に分かった。
――― 僕らは、確かに〝伯爵家の子供〟だった。
母から受け継いだのは互いの髪と瞳の色だけだったけれど、成長とともに色が変わり、今は面影の欠片もない。
髪の先まで、絶世の美女と唄われていた祖母に生き写しだとみんなに褒めそやされていた妹は、「母さんがいなくなっちゃった」と、鏡の前でボロボロと泣いた。
美しい、僕の妹。僕の片割れ。
ずっと一緒にいたあの子は、もう僕の傍にいない。
+ + + + + +
「あんたは、ずっとここにいるの?」
月の無い夜。
真夜中、僕の部屋にやって来た妹は、僕にそう問うた。
その身を包んでいたのは、飾り気のない旅装束。伯爵令嬢に相応しいとは到底言えない衣裳だが、ここ数年見てきたどのドレス姿よりも彼女らしいと、僕は思った。
暗闇の中、何も言わないまま見つめていた僕に、
「あたしは、行く」
妹は、迷いのない声音で言い切った。
「そっか」
ゆるゆると笑んだ僕に、妹がいぶかしみの視線を送って来た。
「駄目だって、言わないの?」
「言わないよ。なんか多分さ、知ってたような気がするから。いつか、そう言い出すって」
伯爵家に引き取られた日。泣きながら僕らを抱きしめる祖母の腕の中で、妹は酷く冷めた目をしていた。
甘えたの妹。何だかんだ言っても、父や祖父母が出来たことを、喜ぶと思ったのに。
どうして、とあとでこっそり聞くと、「なんかヘンな感じがするんだもん」と、彼女は唇を尖らせて答えた。
―――― その予感は、しっかり当たっていたのだから面白い。
半年経っても、屋敷の人間に対して線を引いていた妹。そんな孫の様子を心配し、貴族の友達をと、祖母に連れられて行った茶会。
帰りの馬車の中で、妹はずっと泣いていた。ぐっと唇を引き、泣くまいとドレスの膝を握りしめて、それでも止まらない涙を流し続けていた。
茶会には、親切なご婦人が大勢いた。
僕らの母が父の屋敷で受けていた仕打ちを、父が母に働いた不義理を、事細かく教えてくれる、親切極まりない貴婦人たちが。
「ねえ、まだ父上やお爺様お婆様が嫌い?」
「………」
「違うよね。てゆーか、無理だよね。君は基本的にお人好しだから。あんなに僕らを愛してくれたあの人たちを、君は大切に思わずにいられない」
茶会から帰った妹は、しばらく与えられた部屋から出て来なかった。僕の説得でようやく部屋から出てからも、父や祖父母の目を見なくなった。
自分たちを全身で拒絶する孫娘。
それが己らの過去の行為に対する当然の反応であると分かっていても、馴染みの浅い頑なな態度を崩さない幼子を相手にし続けるのは、とても難しいと思う。
でも、僕の肉親たち――― とりわけ祖父母は、妹を諦めなかった。
妹を見捨てることなく、全身で愛を示し続けてくれた……… 最期まで。
「あの人たちのことは……… 嫌いじゃない」
聞き逃してしまいそうなほど小さな、白状。
「でも、」
苦しげな、泣きだしそうなのを必死で堪えているときの声で、妹は告白した。
「あたし、母さんのことが一番大事。母さんが大好き。母さんが大好きなの」
「…… うん」
「だから、ここにはいられない」
ここに居たら、きっと。
「きっと、いつか母さんが一番じゃなくなっちゃうもの」
母が大好きだった妹。
「それは、母さんがかわいそうだね」
あの子は、いつも母に纏わりついて、一緒に居た。
母が逝ってしまった時、溶けてなくなりそうなほど泣いた。母の形見の指輪を、何よりも大切にしていた。
僕だって、母さんが大好きだった。でも―――、
「じゃあ、君は母さんを一番で居させてあげてよ」
「え?」
「僕が君の分まで、父さんやお爺様、お婆様を好きでいるから」
僕がそう誓うと、妹は呆気にとられた表情をした。
「そうすれば、君は安心して行けるだろう?」
ぎゅっと抱きしめて、目を閉じる。
しばらくして、くすくすと笑うような、泣いているような声を立てながら、妹も僕を抱きしめ返してくれた。
それが、妹と交わした最期の言葉。
「さよなら」も、「またね」もない。
暗闇の中の、別れだった。
+ + + + + +
「今頃、あの子はどうしているかしら?」
ベッドの中、素肌を晒した愛おしい婚約者が、僕の胸元に頬を寄せる。
秋の陽が落ち始めた部屋の中は暗く、シンとした空気は、妹と別れた5年前のあの夜を思い起こさせるけれど、今腕の中にいる優しい温もりは、僕を決して置いて行かない。
「多分、元気でやっていると思うよ。…… 彼が、あの子を放っておくわけないからね」
「彼?」
「僕らの母の、古い友人さ。古い、って言ってもいいのか良く分からないけど」
「なぁに? それ」
「とにかく、良く分からない人だけど、彼に任せておけばあの子は大丈夫。きっと、今でも一緒に居てくれてるさ」
懐かしい顔を思い出し口元を緩めた僕を見て、恋人は不思議そうな眼をした。
そんな彼女を、僕は笑って抱きしめた。
世の中は不思議だ。
人と人との間に縁が結ばれ、また複雑に、次の縁へと連なっていく。
僕と、僕の恋人の縁の糸は、母と父の不思議な縁から始まった。
それは、とても数奇なものであったという。
繋がるはずの無かった糸で、無理やりに互いの行く末を縫い付け合おうとした二人の男女。
最期まで上手く繋ぎ止めては置けなかったみたいだけれど、それは決して無駄でも、無意味なものでもなかったのだと思いたい。
今でも深く、激しく母の存在を乞い求める父を見ていると、そうであったのだと、信じてあげたくなる。それだけの理由かもしれないけれど。
だが、同時に思うのだ。
「愛してるよ」
愛おしい者を腕に抱き、幸福を耳朶に注ぐ。
何ものにも代えがたい、この“今”。
僕は、絶対に失いたくない。
焼けつきそうな愛でなくていい。
時に揺らぐ想いもあっていい。
ただ、自分が今掻き抱くこの想いによる未来が、僕らにとって優しいものであればいい。
僕は、心よりそう望む。




