楽しみのソステヌート
飽きずに長い間、ずうっと何かに熱中する――これを実際に出来る人は、世界に何人いるだろうか。
あくまでも、熱中することである。トイレに行くとか、毎日ご飯を食べるのを熱中するというには、些か無理があるだろう。生理的な欲求は誰にでもあって、それを長い間続けるのは当然だ。だから、熱中するという動詞を付与すると、違和感を覚えずにはいられない。誰も熱中してトイレに行くことはないだろうし、それは毎日の食事にも同じことがいえる。
思えば、テレビを観るという行為は、ほとんどの人々が長い間熱中している。それでも、面白い番組が少なくなれば、熱中することはなくなるかもしれない。ちなみにボクは、最近テレビに飽きている。ドラマもバラエティーも、正直面白くないと思う。楽しめているのは、スポーツ中継とニュース番組ぐらいだろう。
テレビや生理的欲求ではなくて、その他のものを長い間熱中したことがあった。長い間といっても、二カ月ぐらいだったような気がする。
ボクは、『何かが、何かに似ている』ことを発見することが好きだった。これだけでは意味が分からないと、怪訝な顔をされそうだ。例えば、動物とかに似ている雲を見つけだすのが、好きだった。というより、得意だった。得意だったから、好きだった。好きになったのは、今から二年ぐらい前のことだ。まだ、小学生だった頃である――。
「おーい、ケンちゃん。ひこうき雲だよ」
キクちゃんは、快活な声でボクのほうへ駆け寄ってきた。緑色の短パンが、泥で汚れている。青っぽい色をした服の中心には、キクちゃんの好きな恐竜がたくさんいた。
「ほら、空見て! ひこうき雲が浮かんでるよ」
ボクは、空を見上げた。すると、真っ青な空を神様が特殊な刀で切りつけてできた傷痕みたいな、一本の長くて白い筋があった。
「うおー、すげえ」ボクは思わず叫んだ。
「ぼく、すぐに見つけたんだよ。偶然じゃないよ、実力だよ」
「キクちゃん、ひこうき雲探すの得意だもんね」
キクちゃんは、有頂天になって鼻下を指でこすった。
「まあね。今日から、ひこうき雲ハカセって呼んでもいいよ」
「分かった。じゃあ、ひこうき雲ってどうしてできるの? 教えて、ひこうき雲ハカセ!」
顎に手をやり、真剣に悩むキクちゃん。なかなか返事がなかったので、ボクは堪らず訊いてしまった。
「もしかして、知らないの?」
キクちゃんの額には汗が滲んでいた。頭を垂れながら、「えーっと、えーっと」を繰り返している。ようやく何かに閃いたのか、パッと頭をあげて口を開いた。
「そうだ、思い出した。ひこうき雲はね、飛行機がとっても速いからできるんだ。ほら、速い乗り物が通り過ぎたら、何かその痕跡が残りそうでしょ?」
正直、キクちゃんが何を言ってるのかボクには分からなかった。残像という言葉をどこかで耳にしたことがある。それのことを言ってるのかもしれない。
「つまり、残像ってこと?」
すると、キクちゃんは少し吃りながらも答えた。
「そ、そうそう! それそれ。たぶんその、ざんぞーってやつだよ」
放課後、ボクはキクちゃんといつも通り一緒に帰った。そして、閑静な住宅街の二股道に差し掛かると、「バイバーイ」と、いつも通り別れの言葉を交わした。
一人になったボクは、ふと空に浮かぶ綿飴みたいな雲を眺めた。大きいものから小さいものまで、多種多様だ。風に尻を押されながら、プカプカと浮遊している。あの雲に乗っかって、果てしない大空を旅したい。もしも可能なら、ずうっと宇宙まで飛んで行って、綺麗な銀河を見てみたい――母さんに宇宙の図鑑を買ってもらって銀河の写真を見たときから、ずっと胸に抱いている夢だった。
ボクは東の方向、つまり後ろを向いて空を見上げた。刹那、ボクは瞠目した。「何だアレ!」と、やや興奮気味に大きな声を出してしまった。
柿色の空に、大きなクジラが泳いでいたのだ。きっと、ザトウクジラに違いない。巨大な尻尾と胸ビレを揺らしている。
道端でしばらく、その雄大な景観を眺めていた。通りかかった人は、たぶん不思議な顔で、ボクにチラリと目を向けているのだろう。
大きなザトウクジラは、建物に隠れて見えなくなった。それでもボクは、その建物のほうを凝視していた。もうちょっとしたら、また姿を現す。ある程度動ければ、建物に隠れても角度を変えて見ることができる。しかし、今ボクがいる道はそれほど広くはなかった。
ザトウクジラの頭が、いよいよ建物の縁からほんの少し覗いた。胸の鼓動がまた速くなり始める。よおし、そろそろだ。一心不乱に建物のほうへ目を向けていた。だが間もなく、その建物から目を逸らさずにはいられない状況となったのだ。
ボクの視界の右隅から左に向かって、また何か新しい生き物がスクロールしてきた。
いや違う。あれは、生き物ではない。あれは、図工とかで良く使うハサミだ。断言できるわけではないけれど、ハサミのような形をしている。
まるで、ハサミがクジラを追いかけているかのようだ。可哀そうなクジラ。助けてやりたい。
――その日以来、ボクは動物や身の回りのものに似た雲を、目を皿にして探すことに夢中になっていった。
今となっては、アホらしい行為のように感じる。何がきっかけで、ああいうことをするようになったのか分からない。突然、雲が動物に見えるようになったとしか言いようがないのである。
まあ、小学生だったので恥ずかしいとは思わない。むしろ、特殊な感受性が自分にあったのではと、自負している。
意味も分からず残像という言葉を使っていたのは、若干ながら後悔している。よくよく考えてみると、飛行機の残像は飛行機であって、決してひこうき雲ではない。中学生になって、ようやく気付くことができた。キクちゃんが覚えているのかどうか不安だが、まあ覚えていないだろう。二年も前のことだし、ほんの些細なことである。
空で繰り広げられる天然の紙芝居には、尋常ではないほど熱中していた。とても楽しかった。音や言葉のない紙芝居だったけど、ボクは自分で想像していた。それがまた楽しかった。だからむしろ音や言葉がないほうが良かった。
でも、ボクは知らぬ間に紙芝居を見なくなっていた。無意識のうちに、ボクのかけがえのない感動が消失していたのだ。
いったいどうしてだろう? とても奇妙奇天烈なことだと思う。あれほど熱中していたのに、どうして今はアホらしいと感じるのか……。
憲吾は走るのが好きらしい。「一緒に陸上部入らないか?」と、誘われたことがあった。ボクは悩みに悩んで、首を左右に振って断った。というより、悩みに悩むフリをして断った。心の中では、即決だったのだ。もとより運動は苦手だし、ましてや陸上競技は派手さに欠ける。もっと言うと、全然楽しそうではなかったからである。
放課後、ボクは教室の窓からグラウンドを見つめていた。たそがれた空の下、陸上部とテニス部の部員たちが汗を流している。テニス部の顧問が叫ぶ声とテニスボールでラケットを打つインパクト音が絶え間なく響いている。テニス部の部員はみんな白い歯を見せて、楽しそうだった。
一方で、陸上部の部員はまるで正反対だ。苦悶に満ちた顔で、みんな黙々とグラウンドをグルグル走っている。やり投げや砲丸投げは、別の場所を借りて練習しているに違いない。グラウンドには、長距離と短距離が専門の部員しかいなかった。
長距離専門の憲吾も、真剣な表情で黙々と走っている。しきりに腕時計を見ているので、時間を計りながら走っているのだろうか。腕を軽く振り、顔を僅かに歪めながらも懸命に足を進めているその様子は、まさに圧巻だった。普段の憲吾とは、まるで別人だ。
彼はいったい、どんな気持で毎日あのようなことを続けているのだろうか。やはり、大会で優勝とかを狙っているのだろう。いや、それは当り前だ。
つい最近、隣町にいる中学生がとんでもない走りを見せて、驚異的な記録を打ち立てたらしい。その人が中学生記録を大幅に更新したことは、瞬く間に人口に膾炙した。なぜなら、その人は幼いころに大病を患ったことがあるからだ。弛まぬ努力によってハンディキャップを克服したことは、多くの人々の心を揺さぶったのである。
その事実はまた、多くの中学生選手の心に火をつけたのだろう。憲吾も恐らくは、そのうちの一人だ。自分も努力すれば、成し遂げられないことはないはずだ――そういう気持ちで毎日、練習に励んでいるのかもしれない。
チャイムが鳴り響く。テニス部の部員たちが、後片づけを始める。鉄柱からネットを外し、倉庫へと運ぶ。疲労が蓄積しているのもあってか、重いネットや鉄柱を運ぶ部員たちの顔は酷く歪んでいた。
憲吾やその他の陸上部員も走るのを止め、スタスタと顧問がいるほうへ歩いていった。ミーティングを行うため、横一列に顧問の前に並び始める。
陸上部顧問の声はかなり大きいほうで、「大会まであと二週間だ。気合入れていけよ」と言っているのが聞こえた。「はいっ!」という元気な返事をして、陸上部員たちは校舎のほうへと向かっていった。
ボクは荷物をまとめ、校舎一階へと向かった。正門付近で憲吾と待ち合わせをしているからだ。いつも通り、憲吾とは一緒に下校する。
少し項垂れた状態で、憲吾は水色のベンチに腰掛けていた。右手には、スパイクシューズの入った袋を持っている。服装は、上下ともジャージ姿だった。ボクは軽く咳払いして、声をかけた。
「お待たせ。今日も疲れてるなあ」
憲吾は顔を上げた。とろんとした目つきをしている。
「当たり前だよ。見た目は地味だけど、やっぱり疲れるよ。ハードなスポーツなんだ」
「まあ、あれだけ走れば仕方ない。毎日よくやるよ」
「ちょっとでも気を抜いたら、顧問がうるさいからね」
確かに、ミーティングであの声のボリュームだ。怒り狂ったら、踏切の警報機ぐらい声を荒げるのかもしれない。
重そうな腰をムクリと上げ、憲吾は歩き始める。ボクもその後を追うようにして足を進める。
「陸上部おもしろい?」ボクは唐突かつ単刀直入に訊いてみた。
すると、憲吾は虫の羽音ような声で唸り始める。
「うーん、おもしろいと思うけどな」
「でもさ、本当に毎日走るだけだよね? それでも飽きないのは、何か大きい目標とかあるの? 大会優勝とか」
「そりゃあ、目標はあるさ。大会で優勝なんて夢のまた夢だけど」
「ボクには、毎日ただ走るだけとか到底できないよ。尊敬に値するね」
憲吾は鼻で笑った。
「お前、尊敬のハードル低いな。陸上部員なんて、日本に何万といるんだ。それだけで尊敬されるのは、ちょっと大袈裟だよ」
「いやいや、ボクにとっては凄いことだよ」
憲吾は再び鼻を鳴らす。
「そうか? 俺ってそんなに凄いか。じゃあ、何かくれよ」
「はあ?」ボクは思わず小首を傾げた。
「だから、本当に俺のこと凄いって思うんなら、何かプレゼントの一つでもくれって言ってんだよ」
憲吾はなぜか、語気を強めて苛立ち始めた。ボクの頭の中は瞬時にクエスチョンマークでいっぱいになる。
「いや、なんでキレてんだ」
「いや別にキレてるわけじゃねえけど……ほら、芸能人とかにラブレターやプレゼントが送られてるだろ。そういうことだよ、俺が言いたいのは――」
「ボクからのラブレターが欲しいんだね?」
憲吾がボクの肩を小突く。
「そんなわけねえだろ! だから、その……プレゼント的な何かだよ」
「プレゼント的な何か? じゃあ五円玉あげるよ」
ボクはカバンから財布を取り出し、五円玉を取り出した。そして、「はい、五円玉」と言って、憲吾に差し出す。
憲吾は笑顔でボクの手から五円玉を取って、
「おう、サンキュー」
と、笑顔で言った。ところが、財布に入れようとはせず、しばらく沈黙していた。そして、
「こんなんもん、いるかぁ!」
と叫んで、五円玉を投げ飛ばした。五円玉は風でいびつな放物線を描き、すぐに見えなくなった。
「おい、ボクの五円玉に何するんだ。貴重な五円玉だぞ」
「お前の気持ちは良く分かった。その程度だったんだな。お前の俺への気持ちは、五円玉程度だったんだな」
「たとえ五円玉でもな、募金したら世界で困ってる人の助けになるんだ!」
「じゃあ、コニセフにでも募金すりゃあ良かったんだ」
「コニセフってなんだよ? ユニセフだろ」
本当に勘違いしていたのだろうか、顔を赤らめ吃りながら憲吾は言った。
「お、おう。ユニセフにでも募金すりゃあ良かったんだ」
冷やかしはそろそろ止めにしようと思った。さすがに、気の毒だ。ボクは、改まった口調で訊いた。
「冗談はさておき、何か欲しいものある?」
顎に手をやり、深く考え込む憲吾。そして、おもむろに口を開いた。
「じゃあ……チュウ太の彼女くれよ」
「なかなか面白い冗談だね」
「うーんと、じゃあ一日デート券で良いよ」
「一日拷問券ならあげるよ。もちろん、拷問されるのはキミだけどね」
しゅんとした様子で、憲吾は黙り込んだ。
結局ボクは、ハンバーガーを奢ってやることにした。というわけで、ハンバーガーショップに二人で行った。
ハンバーガーショップはそれほど混んでいなかった。夕食にハンバーガーを食べる人は珍しいので仕方ない。
自動扉が開くと同時に、ポテトとコーヒーの香りが鼻に吸い込まれた。憲吾が、頓狂な声を出す。
「なーんかポテト食べたいなあ」
「じゃあ、ポテトだけ頼む?」
「いや、そりゃおかしいだろ」苦笑いを浮かべる憲吾。
「そうか? ボクはたまにポテトだけ頼むけどなあ。店員さんに、ちょっと訝しげな顔されるけどね」
「どうせなら、セットにしようぜ」
「そんなお金はないよ」
ボクと目が合った店員が、満面の笑みを見せた。ボクも思わずニヤついてしまう。
「いらっしゃいませ! お店でお召し上がりですか?」
ボクはコクリと頷き、「はい」と答える。
「ご注文のほうどうぞ」
「えーっと、チーズバーガー二つ」
すると突然、憲吾が背後から話しかけてきた。
「ビッグバーガーが良いな」
「そんなお金はないんだってば」ボクは、後ろを振り向いて囁くように言った。
「チーズバーガーお二つでよろしいですか?」
「はい、よろしいです」
少し奇妙な日本語を喋ってしまったせいか、店員は微かに顔を綻ばせながら返事した。
「では、しばらくお待ちください」
一分と経たないうちに、ハンバーガーができあがった。二つのハンバーガーがのせられたプレートを手に持ち、憲吾が座っている席へと向かう。
「お待たせいたしました。チーズバーガーでございます」
「待ってました、チーズバーガーくん」
「誰がチーズバーガーくんだ」
「だって、チーズバーガーが好きだからチュウ太っていうあだ名なんだろ?」
ボクは首をブンブンと横に振った。
「ちょっと違うよ。ていうか、知ってて言ってるでしょ?」
憲吾はチーズバーガーを両手で掴み、かぶりつく。
「まあ、そう細かいことは気にすんな」
二人とも腹が減っていたので、黙々とハンバーガを口に運び続けた。ほぼ同時に食べ終わると、憲吾が紙ナプキンで口を拭き始める。そして、ボクに話しかけてきた。
「ところでさ、どうして唐突にあんなこと訊いてきたんだ?」
「あんなことって?」
「ほら、陸上部おもしろいか、とかさ――」
ボクは、自分の言葉を反芻した。そういえば、そんなことを憲吾に訊いたような気がする。
でも、あれは無意識に口から飛び出していたと言っても過言ではない。あんなこと、わざわざ実際に訊くつもりなんて毛頭なかった。でも、知らぬ間に自分の考えが口から出るのは、良くあることだ。
「憲吾って、中学に入学してからずっと陸上続けてるだろ?」
「うん、まあな。けっこう楽しいんだぜ」
「ボクにとっては、それが凄いことなんだ」
「そうか、じゃあ何かくれ」
「ハンバーガー奢ってるじゃないか」
ボクが「もういいよ!」と語気を強めると、憲吾は相好を崩した。
ふと腕時計を見ると、夜の六時半だった。もう夕飯はできている頃だ。そろそろ帰らないと親に心配されると承知の上だったが、もう少し憲吾との会話を続けたいと感じた。というよりは、この会話は続けたほうが良いような気がした。なんとなくだ。
「凄いって言ってるけど、具体的にどう凄いんだよ?」
「飽きずに、ずうっと何かに熱中するっていうのが凄いと思うよ」
「チュウ太にはないのか、そういうの……」
「正直ないね。飽き性かもしれない」
すると、憲吾は神妙な面持ちで言った。
「あくまでも俺の主観だけど、それってかなり人生損してるぜ」
「どうして?」ボクも真面目な顔で憲吾を見つめた。
「人生を楽しむって、どういうことだと思う? 人生を楽しむってのは、感動するってことだ」
人生を楽しむっていうのは、感動するってこと……か。憲吾の言わんとすることが、イマイチ分からなかった。
「感動するっていうのは、人生で一番重要だ。俺が思うに、感動がなければ人間は死ぬよ。ていうか、人間じゃなくなる」
「分からない。どういうことか分からないよ」
「たぶんさ、喜ぶのも怒るのも哀しむのも、映画観たり音楽を聴いて泣くのと同じなんだ。感動ってさ、何かを物事に感じて心を動かされるって意味だろ? じゃあさ、人間の喜怒哀楽って全部、感動なんだよ」
言われてみれば、そうかもしれない。喜びという感情も、自分に訪れた喜ぶべき何かを感じて発するものだ。怒りという感情も、自分に訪れた怒るべき何かを感じて発するものだ。
発する感情の種類は違うが、心を動かされて何かを感じるという〝感動〟のカテゴリーに含まれている点では、同じなんだ。
「感動し続けることが、人生を楽しむ最良の手段だと思う。よくよく考えたら、自分が感動してるなってことにも感動できるような気がする。とにかく、一生感動することが大事なんだ。そのためには、どうすれば良いと思う?」
ボクの脳裏に、ある答えが浮かびあがった。だが、あまりにも単純だったので不正解のような気がした。黙っていても仕方ないので、ちょっと逡巡したものの答えてみる。
「感動するきっかけを見つけるってこと?」
憲吾が首を縦に折ると、ボクはホッと安堵する。
「単純だけど、それしかないんだ。飽きるってことは感動が消えるってことだよな? それって、免疫がついちゃったんだよ。つまり、感動に慣れちゃったんだ。だから、再び感動できるよう変化を求めるべきなんだよ。人生に、目標なんていらないんだ。目標なんてものがあるから、そこに達した時点で感動が消えちゃうんだよ」
ボクは、雄弁に語る憲吾の顔をまじまじと見つめた。憲吾が、こんなことを考えていたとは、全く予想だにしていなかった。
「楽しいことも苦しいことも、慣れるべきじゃない。慣れると、感動がなくなる」
よく何かを途中で諦める人もいる。実は、諦めるという行為も、諦めた何かに慣れてしまったからではないだろうか。変化を求めようとせず何かに打ち込んだから、諦めてしまうのではないだろうか。変化を求めようとしなければ、感動するきっかけも見失う。
「慣れてしまったこと――つまり、前にも後ろにも進まないことを続けたら、さすがに飽きるだろ? それじゃダメなんだ。工夫が必要なんだよ。一度定めた目標は、前にも後ろにも進まない。じゃあどうするか。また新しい目標を立てれば良い。でもさ、それって効率悪いんだ。いっそのこと、目標なんか立てなきゃ良い。目標なしで、ずうっと変化を楽しみながら続ければ良いんだ」
「でもさ、きょう正門で会った時、目標あるって言ってなかった?」
「確かに言った。でも、大会で優勝するとか、良い記録を出すとか、そんなことじゃない。ずうっと、挑戦していくってのが目標だ。俺は、陸上競技からやむを得ず離れるまで、ずうっと陸上競技に挑戦したいんだ。挑戦に終わりはない。挑戦は絶えず変化する。だから、永遠に続けられる。そういうことだよ」
ボクは知らぬ間に、憲吾の言葉に感動していた。この感動に慣れることは、ずっとないかもしれない。
「一生感動する。で、感動してるってことを実感する。それが、人生を楽しむってことなんだと思うな」
ハンバーガーショップを出るやいなや、ボクは憲吾に別れを告げた。家に帰ったら、こっぴどく叱られるに違いない。時刻は既に、七時を回っていたのだ。
胃がもたれるのを覚悟のうえ、急ぎ足でボクは家に向かっていた。だが、ある場所で思わず足を止めてしまう。そこは、小学生の頃あの大きいクジラが空を泳いでいることに気付いた場所だった。
ボクは、空を見上げた。もしかしたら、またクジラが泳いでいるかもしれない。そのクジラが、ハサミに追っかけられているというシュールな場面を、また目の当たりにできるかもしれない。
しかし、見上げた空には何も存在していなかった。ましてや、雲一つ見えない。なぜなら雲は、夜空に浮かぶことがないからだ。いや、浮かんでいるのが見えないと言ったほうが、正確だろうか。代わりに米粒ほどの小さな星が、三つ輝いているだけだった。
色々な意味で思い出深い、ひこうき雲も見えなかった。
ボクは沈んだ気分で、再び足を動かし始める。刹那、背後から笑い混じりの声がした。
「夜になっちゃうと、さすがにぼくでも飛行機の残像は見えないね!」≪完≫