地平線
私の家族は神様を信仰している。だから家は平和だった。家族という関係は長持ちした。家には派手な壺や宝石、そして真っ白な聖書があった。
母は料理上手で、人当たりがよく、村のみんなから人気だった。少し汚いものが苦手で、掃除は私と兄弟が担当していた。けれど他の家事は全て、完璧にこなしていた。
父は私たちのことをあまり構いはしなかった。けれど、家族のために遠いところまで働きに出かけ、金を稼ぎ、平和を維持させようとする人だった。兄弟たちとは、髪の色や血液型が私とは違っていたけれど、ずっと遊んでくれた。
裕福とは言えなかったが、家族全員、仲が良く、心が富んでいた。
ある日、兄弟の一人が死んだ。不運なことだった。それを境に、父と母は喧嘩をし出した。
いつの日か、怒りに任せ、母が家に置いてある、瑠璃色の壺を割った。父が母を殴った。突然のことだった。血が、真っ白な聖書に付いた。母は固まっていた。父は色が青白くなっていた。髭が、萎えているように見えた。母は父を睨んだ。父はまた、母を殴った。母はただ、野生味のある目で見るだけだった。その行動は父をいちいち苛立たせた。父は母の腹部を蹴り上げた。そして、髪を引っ張り、壁に叩きつけた。終いには顔を踏んづけた。私はドアの隙間からそれを見ていた。ただただ、祈った。この、喧嘩が終わりますように、と。父は、足で母の顔を、ぐいっと押し、煙草を吸いに夜の冷えた外に出た。帰ってくれば、父はウィスキーを開けた。
翌日、家に母はいなかった。私は、お母さんはどこへ行ったのだろう、と不思議でしょうがなかった。母は、働いていないし、持ち家もなかった。雲を見るたび舌打ちをした。
その晩、口が渇いた。初めて貧乏ゆすりをした。父は考えた。一体、なぜこんなことが起きたのか、と。父は、私を殴った。行き場のない暴力だと思った。抱きしめた。すると、私の体を父が持ち上げ地面に叩きつけた。それから、私は父と喋らなくなった。
翌朝、鈍い痛みで起きた。酒瓶だった。最悪の朝から立ち上がり、朝食を取るため、外に出る。田舎なので、外には多種多様な動物が多く生息している。鳥なんかもうるさいほど飛んでいる。飛んできた道と逆行して、森の中に入る。そして、卵を何個か拝借し、家に帰る。小麦から作ったパンに塗り、食べた。水もないので、腹の中に入れれなかった。
仕方ないので、水を汲みに川に出向いた。鹿が川の水を飲んでいた。それを横目に置いて、バケツいっぱいに水を詰め込んだ。
帰ると、異臭が漂っていた。兄弟が排泄していた。家に置いてあった、予備を含めた全ての水が無くなっていた。全員、放心状態だった。私は、吐いた。折角、汲んできた水を全て使った。
夜になった。鼠を捕まえてきていた。しかし、不味い飯ということを差し引いたとしても、喉を通らなくなってしまった。家の中には、未だ排泄物と、父の吐瀉物が散らばっていた。慣れず、折角、食べた鼠に申し訳ないのだが、指を口の中に入れた。その時、長い尻尾をチロチロとさせた鼠が吐瀉物を食べているのを見た。手を、口の奥深くまで突っ込んだ。
このような日々が約、一年と二ヶ月続いた。手にはタコが出来ていた。
顔は腫れ、全身が痣だらけだった。しかし、もっと辛いことに、兄弟が私を人として認識しなくなっていた。認知能力の欠如と、唯一、女の私への差別意識だろうか。また、お父さんが何処かに行ってしまった。酒だろう。
独りの営みが、暫くの間、続いた。この間、様々なことを考えた。哲学とも言える。生や死、お母さん、お父さんなどのことだ。そうして、吐瀉物の上でご飯を食べられるにまで至った。私も、トイレを使わなかった。鼠がよく食べにきた。その度、捕まえて、チュウチュウと鳴き、蚯蚓のような長い尻尾をブルブル震わせてる姿を見て、お腹の下が熱くなって、頭から齧り付いた。血が、首の辺りからダラダラと垂れる。けれど、鳴き声はもう聞こえなくなったし、尻尾もだらんと垂れた。面白みはなくなった。
もう、この頃になると、人間というのはすごいもので、大体の傷が治っていた。父も、あれから出たっきりだったので、生傷はなくなった。痛い時間が限りなく減った。がらんとした暗い部屋で独り、私はただ静かに、吐瀉物と排泄物を見ていた。
父が帰ってきた。片手にはウィスキー。もう一方には女だった。女は若かった。肌の艶は、シルクのようだった。父は私を一瞥した。若い女は、父の持つウィスキーを開け、一口。女が私の顎に指を当て、顔を覗かせた。
「うん。合格」
お父さんが、のしのしと歩いて私の眼前に立った。
「目に光がないように見えるが?」
「そういう趣味、意外といるのよ」
「ほーん」
お父さんが酒瓶を振り上げ、私の額に…。
気がついた時、私は手首を手錠で拘束されていた。服装を見るに、私は奴隷にされた。服装がこうも、性欲を唆るものだったので、化粧もされているだろうと思った。あの女か…。いやぁ、それにしても、太陽が眩しい。
「いい、姿じゃねえか」
お父さん…。
「お前をなんで奴隷に売ったかわかるか? それはなぁ、お前は俺とあの子らと血が繋がってないからだ。ルータが不倫して産んだ子だからだ。お前が信仰を、家族を腐らせる癌だったからだ」と酒を飲みながら、徐々に激昂するように言い切られた。別に、薄々、感じていた。
「お母さんは、何処に行ったか知ってる?」
「あ?知らねえよ。村の男どもと乱交してんじゃねえか?」
「…自分が、離れたからって…、なんで、そんなこと、言えるの?」
「本当だぜ。あいつはそういう女だ」
私は、俯いた。黙った。私の反応のなさにうんざりしたのか、父はそれから直ぐにその場を去った。金が入った小袋を手にしていた。横目で追った。
「おい、お前、奴隷。金、やる。だから、な?」
横を見ていたら、真正面から、豚のような顔した、丸々と肥えた大男が立っていた。迫っていた。金を私の胸元に挟んだ。
一時間が経った。さっきまでの、純粋無垢な私は、置いてかれてしまった。太陽は相変わらず、眩しかった。私は、周りを見た。奴隷だ。私以外も、人目を気にせず馬鹿みたいに喘いでいる。よかった。それにしても、泣き叫ぶような喘ぎ声で、聞くに堪えなかった。
しかし、目を惹く女が一人いた。その女は奴隷ではなく、一般人。ただ、顔が良く、色気があり、服と身体が過激。女は奴隷でもないくせに男を唆し、路地裏で、人目を気にせず、楽しそうに喘いでいた。人に聞かせるみたいだった。光に集まる虫のように男どもが寄ってきていた。しかし、おかしいことだ。路地裏など、一応、隠れて行為に及んでいるはずなのに、私視点、全てが見える。まるで見せてるよう…。待て、この声。甲高い喘ぎ声で分からなかったが、
「お母さん…?」
その顔は、紛れもなく、母だった。今、まさに五人の男に犯されていた。よく見ると、母のお腹は膨れていた。脂肪ではなかった。
すると、他の女が二名、その乱戦の場にやってきた。母と顔が似ていた。赤子を数人、背負っていた。村の男どもと似ている顔がちらほら見えた。父は案外、正直者だった。面白くなかった。
また、その女二人も、乱戦に参加した。かく言う私も、タイマンに出なければいけないときが来たようだが。
三十分ほど経っただろうか。男たちは、帰った。女どもは、腹を摩っている。赤子を抱え、三人はターバンを頭に巻いた男のもとへ歩いた。会話は聞こえなかった。しかし、男と喋ったあと、三人の女たちは手荷物がなくなっていた。代わりに、小袋が、複数個。それを見届けると男が急に私の首を絞め、無理矢理、行為に及んだ。
道具としての役割を果たし、日を終える繰り返し。ずっと、ずっと、ずっと。一生、私は誰かの道具なのだろうか。私の年齢は確かまだ、十八だ。いつ、終わるのだろう。母の歳でも現役なんだ。まだまだ地獄は続く…。そういえば、母の歳って幾つだっけ。数えていくうちに恐怖する。『あれは母じゃない。』そうだ、思い出した。いや忘れさせられてたのか。母はいつの日か父に殺されていた。…じゃああれはなんだ。あ…。あれは姉だ。私の母のふりをしていたあの女は、私の姉だ。母だと思っていた。いや、させられていた。じゃあ、私と三つしか変わらないはず。じゃあ、父さんとの、毎日のような行為はなんだ。考えたら吐きそうになってきた。慣れているからすぐ吐ける。一旦、吐いて楽になろう。
「あなた、大丈夫?綺麗な顔が勿体無いよ。特にその透き通った青い目。なんか、黄昏の光に照らされて、すごい綺麗。…この錠と服装は奴隷なのかしら」
「なんでしょう」
「よし、決めた。あなたを買うわ。今からあなたは私の執事よ」
「え。あり、がとう、ございます。っていや、誰ですか?」しどろもどろで呟く私を横目に、女は一括で買うため、執事にお金を持ってくるよう命令を出した。反対され揉めていた。その女は相当頑固なのだろう。たった一分で執事側が折れ、手続きが円滑に進み五分で私は買われた。私だけの力じゃ永遠に奴隷のままだと決めつけていたし実際そうだったのに、金や権力を持つ奴からすれば八百屋で野菜を買うくらいのものなのか。
手続きの後、その女は、ほんの少し口角を上げ、にんまりとした。顔が近かった。ちょうど薄明が彼女を照らし、髪は黄金色に、瞳の色が左目だけ琥珀色に輝き出した。匂いすらも私の注目を奪った。一目惚れだった。
「私、一目惚れしちゃった」確かに彼女は私に対しそう言った。
「へ?な、んて?あなたが、私に?逆にじゃなくて?」
「おどおどしてるのもかーわーいぃ〜。…そう。私があなたを好きになったの。私の名前はソー・ダスク。サイス国の王女よ。あなたは?」
「あなたはって…え?王女?プリンセス?あぁ、もうなんか、よくわかんなくなっちゃった。えっと、私の名前はダウン、です。苗字は…。あれ、なんだっけ」
「じゃあ、ウェザーにしよう。ふふふ。私、なんだかあなたにとても惹かれる。取り敢えず、国に来てもらうわ。乗って」そう言って、親指で背後にある馬車を指した。




