第2話:ひび割れた日常と、図書室の手前で
「……嘘の関係より、一人のほうがいい。私は、そう思うよ」
その言葉は、見えない棘となって私の胸の奥深くに突き刺さり、一晩中、チクチクと嫌な痛みを放ち続けていた。
校舎裏で雪に感情をぶつけてしまった翌朝。
私はベッドの中で重たいまぶたを開け、ぼんやりと天井の木目を見つめていた。寝不足で頭の芯が鈍く痛み、体は鉛を流し込まれたように重い。
(……やっちゃった)
後悔が、どろりとしたタールのように胃の底に溜まっている。
どうしてあんなにムキになってしまったのだろう。適当に笑って誤魔化して、「白瀬さんって変わってるねー」とでも言ってやり過ごせばよかったのに。
あんな風に声を荒らげて、自分の弱みや本音を他人に晒すなんて、カメレオンとして絶対にあってはならない失態だ。
(……今日から、どういう顔をして学校に行けばいいの)
制服に袖を通し、洗面台の鏡の前に立つ。
鏡の中には、目の下にうっすらとクマを作った、ひどく血色の悪い赤髪の少女がいた。
私は両手でパン、パンと頬を叩き、口角を指でグイッと持ち上げる。
笑え。
完璧に笑え。
何事もなかったように振る舞うんだ。
昨日の放課後のことは、誰にも見られていない。
黒田の機転のおかげで、昼休みの彩乃の件も、一応の収束は見せている。
私が今まで通り『緋野朱里』という無害で優秀な着ぐるみを着ていれば、日常は守られるはずだ。
大きく深呼吸をして、私は偽物の笑顔を顔面に貼り付けた。
――しかし、三年二組の教室の扉を開けた瞬間、私のその浅はかな希望は脆くも崩れ去った。
「おはよー、朱里!」「おはよう、美桜。彩乃もおはよー」
いつものようにワントーン高い声で挨拶をする。
美桜も彩乃も「おはよー」と返してくれたが、教室の空気は、昨日までとは決定的に違っていた。
奇妙なほどの、静けさ。
いや、正確には「特定の場所」だけが、ぽっかりと切り取られたように静まり返っているのだ。
視線を向けるまでもない。教室の最後列、窓際の席。白瀬雪の周辺だ。
昨日、彩乃のキーホルダーを「安っぽくて可愛くない」と一刀両断した転校生。
その一件は、クラスの女子たちの間に「白瀬雪=空気が読めないヤバい奴、関わると火傷する」という共通認識を瞬時に植え付けていた。
誰一人として、雪に話しかけようとしない。視線すら合わせようとしない。
彼女の席の半径一メートルには、目に見えない透明なバリケードが張られているようだった。
当の雪はといえば、そんな周囲の拒絶反応など全く意に介する様子もなく、ただ静かに文庫本のページをめくっている。色素の薄い真っ白な髪が、朝の光を弾いてきらきらと光っていた。
(……最悪だ)
私は自分の席につきながら、内心で舌打ちをした。
雪が孤立するのは勝手だ。自業自得だ。
でも、同じクラスに『触れてはいけない腫れ物』が存在しているという状況自体が、空気を読んで生きる私にとっては強烈なストレスになる。
クラスの空気が澱めば、それに合わせるためのカメレオンの擬態にも、普段の何倍もの労力が必要になるからだ。
「ねえ朱里、聞いた?」
一時間目の英語の授業の準備をしていると、前の席の彩乃がくるりと振り返り、声をひそめて言った。
「白瀬さんのことなんだけどさ」
「えっ……あ、うん。どうかした?」
心臓が跳ねるのを悟られないように、私は小首を傾げて『聞き上手な友達』の顔を作る。
「昨日、放課後に図書委員の仕事で残ってた子が見たらしいんだけどさ。白瀬さん、図書室でも全然仕事しないで、ずっと自分の本読んでたらしいよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。注意されても『私の仕事はもう終わったから』って言って、手伝いもしなかったんだって。マジでありえないよね。協調性ゼロっていうかさ」
「へえ……それはちょっと、困るね」
私は曖昧に相槌を打ちながら、彩乃の目を見つめ返した。
彩乃の瞳の奥には、「私の敵である白瀬雪を、一緒に叩いて」という明確な要求が渦巻いている。
同調圧力だ。
ここで「そんなことないよ」と雪を庇えば、次は私が標的にされる。
「本当、信じられない。昨日だってあんな態度だったし。朱里も学級委員として、少しガツンと言ってやってよ。……ね?」
「うーん、そうだね……。でも、まだ転校してきたばっかりだし、そのうち慣れるんじゃないかな? 先生にも一応、様子見とくように言われてるし……」
私は彩乃に同調しつつも、決定的な雪への批判は避け、のらりくらりと躱した。
これが私の得意技、『八方美人の防御陣』だ。彩乃は少し不満そうに口を尖らせたが、それ以上は追及してこなかった。
ふう、と息を吐き出す。
なんとか乗り切った。けれど、胸の奥の棘の痛みは消えない。
私は、嘘をついている。彩乃に調子を合わせていることも嘘なら、雪のことを「困るね」と言ったのも嘘だ。
本当は、気になって仕方がないのだ。
黒板に英語の構文を書き殴る教師の声を聞き流しながら、私はシャーペンの先でノートの端を無意味に黒く塗りつぶしていた。
昨日の校舎裏での、雪の深い瞳。
私を非難するでもなく、怒るでもなく、ただ純粋な哀れみを込めて言い放った言葉。
『誰にも嫌われないために、自分を消して、透明になろうとしている。でも、そんなの……一人ぼっちでいるよりも、ずっと寂しいことじゃないの?』
違う。私は寂しくなんてない。
みんなに囲まれて、笑って、うまくやっている。
嫌われる恐怖に怯えていたあの頃より、ずっと賢く、安全に生きている。 雪の言葉は間違っている。
あんな、空気を読めない異物の言葉なんて、真に受ける必要は一ミリもないのだ。
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、私の視線は磁石に引かれるように、斜め後ろの窓際の席へと吸い寄せられていった。
授業中だというのに、雪はノートも取らず、窓の外の海をぼんやりと見つめている。
まるで、この教室という水槽の中にいる私たちとは、別の次元を生きている生き物のようだった。誰の色にも染まらない、圧倒的な白。
その白さが、私の目を焼くように眩しくて、そして――どうしようもなく、疎ましかった。
「……緋野。おい、緋野朱里」
ふいに名前を呼ばれ、私はビクッと肩を震わせて顔を上げた。
いつの間にか、英語の教師が教壇から私を怪訝な顔で見下ろしていた。クラス全員の視線が、一斉に私に集まる。
「あ、はい!」
「はい、じゃない。黒板のこの長文、訳してみろって言ってるんだ。ぼーっとして、どうしたんだ。お前らしくもない」
「す、すみません! ええと、その文章は……」
私は慌てて立ち上がり、教科書に目を落とした。
文字が上滑りして、頭に全く入ってこない。顔から火が出るほど恥ずかしかった。 学級委員で、優等生で、完璧な緋野朱里が、授業中に上の空で当てられて狼狽えるなんて。
その時だった。
「……『私が彼を信じたのは、彼が決して嘘をつかないと知っていたからです』」
教室の最後列から、ガラス細工のように静かな声が響いた。雪だった。
彼女は窓の外を見たまま、教科書すら開かずに、流暢な発音で正解の日本語訳を紡ぎ出したのだ。
教室が、再び奇妙な静寂に包まれた。
私は、立ち尽くしたまま、息を呑んで彼女の横顔を見つめていた。助けられたのだろうか。
それとも、ただ事実として答えを口にしただけなのだろうか。どちらにせよ、私の完璧だったはずの日常は、この真っ白な転校生によって確実に、そして静かに、ひび割れ始めていた。
「……ああ、正解だ」
英語の教師は毒気を抜かれたように頷いた。
私はホッと息を吐き出し、へたり込むように椅子に座り直した。
ドクン、ドクンと早鐘を打つ心臓の音が、やけにうるさい。
雪の方を振り返ることはできなかった。お礼を言うべきなのか、それとも無視すべきなのか。
カメレオンとしての正しい正解が、全くわからなくなっていた。
やがて、重苦しい空気を引きずったまま授業終了のチャイムが鳴る。
教師が教室を出ていくと同時に、私はノートを閉じて大きく伸びをした。
「おい、緋野」
ふいに、横から低い声が降ってきた。 ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、次の授業の移動準備をしていた黒田悠斗が、気怠げな目をこちらに向けて立っていた。
「あ、黒田くん。さっきはちょっとボーッとしちゃってさ、恥ずかしいところ見せちゃった」
私は瞬時に『男子用の気さくな声』のスイッチを入れ、頭を掻きながら愛想笑いを浮かべた。
しかし、黒田の目は少しも笑っていなかった。彼は周りの喧騒に紛れるような、ギリギリの低い声で呟いた。
「……昨日から、ペース乱されてるだろ」
「え?」
「白瀬のことが気になって仕方ないって、顔に出てるぞ。授業中もずっとそっちばっか見てた」
心臓が、ヒュッと冷たく縮み上がった。
「な、何言ってるの……。そんなこと」
「別に責めてるわけじゃない。ただ、お前が自爆してクラスの空気が重くなるのは勘弁してくれよ。面倒くさいのは嫌いなんだ」
黒田はそれだけ言うと、私の返事も待たずにさっさと教室を出て行ってしまった。
残された私は、顔に張り付けた愛想笑いを下ろすことすらできず、ただ呆然と彼の背中を見送っていた。 見透かされている。雪だけでなく、黒田にまで。
私が何年もかけて完璧に作り上げてきたはずの「誰からも好かれる緋野朱里」は、私が思っている以上に薄っぺらく、簡単に剥がれ落ちてしまうメッキでしかなかったのか。
(違う。私は、ちゃんとやれてる。誰にも嫌われてなんていない……!)
自分に言い聞かせるように、私は震える手で無意識にスカートの裾を強く握りしめた。
――三時間目、体育。場所は、古いワックスと埃の匂いが染み付いた体育館だ。
「よし、じゃあ準備体操を始めるぞ! 各自、二人組を作れ!」
二人組を作れ。
それは、学校生活において最も残酷で、最も明確にクラス内のヒエラルキーと人間関係が可視化される魔法の言葉だ。
「朱里、やろ!」
「うん、お願い!」
私は息をするように自然に、隣にいた美桜とペアになった。
美桜と向かい合い、アキレス腱を伸ばしながら、私はふと体育館の端へと視線を走らせた。
そして、見てしまった——。
細胞分裂が終わった体育館の中央で、たった一人。
ぽつんと、誰とも手を繋がず、誰とも視線を合わせることなく立ち尽くしている、真っ白な少女の姿を。
白瀬雪だった。昨日のキーホルダー事件の余波だ。彩乃のグループはもちろん、他の女子たちも「あの転校生には関わらない方がいい」という空気を察知し、見事なまでに雪を避けてペアを作っていたのだ。
「おい、そこの……ええと、白瀬! お前、ペアはいないのか!」
点呼を取っていた体育教師が、一人だけ立っている雪に気づいて大声を上げた。
ドクン、と私の心臓が痛いほど跳ねた。小学生の頃、私が「空気読めない」とハブられ、一人ぼっちで立たされていたあの日の記憶が、フラッシュバックして吐き気を催す。
「ええと、奇数だから一人余るのか。おい佐藤のところ、三人組になって白瀬を入れてやれ」
教師が、あろうことか彩乃のペアを指名した。
「えーっ……先生、私たちもうストレッチ始めちゃってますし。ちょっとペース合わないかも……」
彩乃が、あからさまに嫌悪感を含んだ声で牽制する。
空気が凍りついた。ただの「ペア決め」が、「いじめ」という明確な輪郭を持ち始めた瞬間だった。
誰か、助けてあげて。頭の中で誰かが叫んでいる。
学級委員の私が、「じゃあ私、白瀬さんと変わるよ」と笑顔で言えば、この嫌な空気は一瞬で終わる。
わかっている。それが正しいことだともわかっている。
けれど、私の足は、床板に接着剤で縫い付けられたように一歩も動かなかった。
(だめだ。ここで雪を庇ったら、今度は私が、彩乃たちから『あっち側』だと思われる……!)
カメレオンの防衛本能が、私に沈黙を強制していた。
沈黙が痛い。体育館の冷たい空気が、肌を刺す。
誰もが固唾を呑んで見守る中、やがて、当の雪本人が静かに口を開いた。
「先生」
「あ、ああ。なんだ白瀬」
「私は、一人でできます。柔軟体操に、必ずしもペアは必要ありませんから」
その声は、強がりでも、惨めさからくる虚勢でもなかった。
本当に、心の底から『一人でも問題ない』という、ただの事実の報告だった。
雪は誰に助けを求めることもなく、彩乃を睨みつけることもなく、その場にすんと座り込むと、一人で黙々と長座体前屈を始めた。
「あっ、そうか……。まあ、無理して組まなくてもいいが、怪我だけはしないようにな」
教師が気まずそうにホイッスルを吹き、授業は強制的に再開された。
美桜と背中合わせになりながら、私は息が詰まりそうだった。
一人でいることは、可哀想なこと。
誰からも選ばれないことは、この世の終わりのような絶望。私はずっとそう信じて、自分を殺してまで他人に合わせて生きてきた。
なのに、どうして。
たった一人でストレッチをする雪の姿は、惨めであるどころか、誰よりも気高く、凛として見えたのだ。
『嘘の関係より、一人のほうがいい。私は、そう思うよ』
昨日の彼女の言葉が、再び脳内に蘇る。
嘘をついて、自分を殺して、安全な場所から彼女の孤立を傍観している私。
嘘をつかず、たった一人で、真っ直ぐにこの冷たい世界に立ち向かっている彼女。
透明になりたかったはずの私は、彼女の圧倒的な『白』を前にして、ひどく薄汚れた、醜い濁った色をしているように感じられてならなかった。
体育の授業が終わり、女子更衣室に戻ってきた途端、生温かい湿気と、制汗スプレーの甘ったるい匂いが一気に鼻腔を突いた。
「――マジで何なの、あの子。悲劇のヒロイン気取り?」
体操服からブラウスに着替えながら、彩乃がバンッとロッカーの扉を叩いた。
「先生に『一人でできます』とか言ってさ。こっちが悪いみたいじゃん。私、別にはぶいたわけじゃないし。ストレッチのペースが合わないからって言っただけなのに」
「わかるー。あそこまで意固地にならなくてもね。普通、誰かに入れてって頼むよね」
取り巻きの一人が、すかさず彩乃を擁護する。
「朱里もそう思うっしょ? 学級委員として、あの一匹狼っぷりは問題あるんじゃないの?」
ふいに、矛先が私に向いた。
シャツのボタンを留めていた手が、ピタリと止まる。更衣室中の視線が、値踏みするように私に集まった。
(……助けてあげて。ちがう、雪は悪くない)
心の奥底で、小さな声が叫んだ。
一人で凜と座り込んでいた、あの真っ白な横顔が目に焼き付いている。
けれど——。
「う、うん……そうだね。ちょっと協調性はないかも……。でもほら、まだ転校してきたばっかりで、緊張してるだけかもしれないし……」
私の口から滑り出たのは、彩乃の機嫌を損ねず、かつ自分も悪者にならないための、ひどく卑怯で曖昧な『カメレオンの模範解答』だった。
「えー、そうかなあ。私は絶対性格難ありだと思うけど。……まあ、朱里がそう言うなら、もうしばらく様子は見てあげるけどさ」
彩乃は不満そうに鼻を鳴らし、制汗スプレーをシューッと首筋に吹きかけた。
シトラスの人工的な香りが、更衣室に充満する。
その匂いを嗅いだ瞬間、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
私は、自分が心の底から気持ち悪かった。嫌われたくない一心で、安全な場所に隠れて、本当は美しいと思った彼女の孤高な姿を「協調性がない」と切り捨てる。
私は、なんて薄汚れた、醜い生き物なのだろう。 吐き気を誤魔化すように、私は逃げるように更衣室を後にした。
――放課後。
委員会の仕事を適当な理由をつけて休み、私はすがるような思いで図書室の重い扉を押し開けた。
古い紙の匂い。静寂。西日が差し込む、あの窓際の席。
そこに行けば、空っぽの自分に戻れる。 そう思って本棚の通路を抜けた私の足は、ピタリと止まった。
いた——。
西日を浴びて、透き通るような白い髪を輝かせながら、白瀬雪が窓際で本を読んでいた。
昨日の今日だ。「私の邪魔をしないでよ」と校舎裏で怒鳴りつけた相手。
そして、ついさっき更衣室で私が裏切った相手。
気まずさで踵を返そうとした瞬間、雪がふと顔を上げ、私を見た。海の底のような深い瞳と、視線が絡み合う。
逃げられない。
私は観念して、彼女から少し離れた席にカバンを置き、音を立てずに椅子を引いた。
雪は私を一瞥しただけで、すぐに視線を本に戻した。
彼女から、怒りや軽蔑の感情は一切読み取れない。ただ、そこにある風景の一部として私を受け流しているようだった。
「……ねえ」
耐えきれず、口を開いたのは私の方だった。自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「……なに」
「体育の時……嫌じゃなかったの。あんな風に、一人だけポツンと残されて」
更衣室での罪悪感が、私にそんな愚かな質問をさせていた。 雪は本を閉じ、ゆっくりと私の方を見た。
「嫌って、何が?」
「だって、みんなあからさまに避けてたじゃない。……あんなの、惨めじゃない」
私の言葉に、雪は小さく首を傾げた。
「私が一人でいるのは、私が選んだことだよ。誰かに合わせて、自分じゃない誰かのふりをして群れるくらいなら、一人でいる方がずっといい」
「でも……!」
「緋野さんは、怖いの?」
雪の言葉が、私の心臓をグサリと貫いた。
「一人になるのが怖いから、自分が傷つかないように、誰かの陰に隠れて嘘をついている。……さっきの更衣室でも、そうだったんじゃない?」
「っ……!?」
息が止まった。
「……ねえ、白瀬さん」
私は、唇を噛みしめながら、ぽつりと聞いた。
「どうして、そんなに嘘が嫌いなの」
雪は、ページをめくる手を止めた。視線が、窓の外の海へとゆっくりと移る。
しばらくの沈黙があった。波の音が、遠くから細く響いてくる。
「……昔、友達だと思っていた人に、嘘をつかれたことがある」
彼女の声は、いつもより少しだけ低く、乾いていた。
「その人は、私に笑いかけながら、ずっと嘘をついていた。気づいた時、私の周りにあったものが全部、作り物みたいに思えて」
そこで雪は口を閉じた。続きは、語らなかった。
でも、それだけで十分だった。彼女がなぜ嘘を憎むのか、その根っこに何があるのか、私には薄々わかった気がした。
「……そっか」
私は、それ以上聞けなかった。
雪は再び視線を本に落とし、二人の間に静かな沈黙が戻った。でも、それは最初の沈黙とは少し違った。棘がなく、ただ静かに、二人分の呼吸だけが混ざり合っていた。
やがて、図書室の窓から差し込む西日が傾き、オレンジ色の光が本棚を長く染め始めた頃。
「……帰ろっか」
私が立ち上がると、雪も無言で本を閉じた。
図書室を出て、昇降口までの廊下を、私たちは少しだけ距離を空けて歩いた。
並んで歩いている、とは言えない距離だった。それでも、同じ方向へ向かって、同じ空気を吸っていた。 その事実が、妙に温かかった。
*********
夜、自室の机に向かいながら、私はシャーペンを持ったまま数学のワークの上で止まっていた。
窓の外から、海鳴りがかすかに聞こえる。
今日の放課後、図書室で雪と交わした言葉が、頭の中でゆっくりと反響していた。
『昔、友達だと思っていた人に、嘘をつかれたことがある』
彼女があそこで口を閉じたのは、まだ私に話す気になれなかったからか、それとも言葉にできないほど深いところにある話だからか。
どちらかはわからない。ただ、あの一瞬だけ、雪の声がほんの少しだけ人間らしい温度を持ったように感じた。
ガラス細工のような、いつもの冷たい声とは違う、かすかな体温。
(……変なの)
私は首を振り、シャーペンの先でワークの問題をなぞった。
どうして私は、あの転校生のことをこんなに考えているのだろう。関わらなければいいだけの話だ。図書室だって、別の場所を探せばいい。
でも——。
息をするように自然に、私の思考は雪の方へと引き寄せられていった。
彼女の周りだけが静かなこと。誰の色にも染まらないこと。嘘をつかれた過去を持ちながら、それでも一人で真っ直ぐ立ち続けていること。私は彼女が疎ましかった。怖かった。それは本当のことだ。
でも、同時に。
(……羨ましい、のかな)
その考えが浮かんだ瞬間、私は自分でも驚いて、ぱちりと瞬きをした。 羨ましい。
あの孤高の白さが。嘘をつかなくていい生き方が。誰にも嫌われないために、毎日自分を削り続けている私には、絶対に手に入らないものだ。
――翌朝。
教室の扉を開ける前に、私は廊下で立ち止まった。
扉の向こうから、美桜たちの笑い声が聞こえる。いつもの朝の風景だ。
私はいつものように口角を引き上げようとして――ふと、手が止まった。
(今日、図書室に行こうかな)
昼休みに一回だけ彩乃たちとのお弁当を断って、あの重いスチールの扉を押し開ける。
そうすれば、また雪がいるかもしれない。
(でも)
昨日、私は更衣室で雪を裏切った。
「協調性がない」と、曖昧に同意した。
そんな人間が図書室に行く資格があるのか。それが怖かった。
(……行けるわけない)
私は口角を引き上げ直し、教室の扉を勢いよく開けた。
「おはよー、朱里!」
「おはよう、美桜!」
ワントーン高い、完璧な『友達用の声』が、すんなりと出た。
まるで、昨晩の迷いなど最初からなかったかのように。
でも、自分の席についてカバンを置いた瞬間、体の奥の、どこか深いところが、小さく軋んだ。
――結局、その日の昼休みも、放課後も、私は図書室の扉の前まで行って、引き返した。
扉に手をかけるたびに、更衣室での自分の声が甦った。
『協調性はないかも』という、あの濁った相槌の音が。雪の顔を見たら、自分がどれだけ卑怯かを、また突きつけられる気がした。 それが怖かった。
(明日は、行こう)
そう思いながら、私は毎日、図書室の扉の前で踵を返し続けた。
三日が過ぎた。四日が過ぎた。
その間、教室では雪を取り巻く空気がじわじわと固まっていった。
誰も彼女に話しかけない。彼女の周りだけが静かな真空地帯になっている。
雪はその空気を完全に無視して、毎日ただ本を読んでいた。怒ることも、泣くことも、誰かに助けを求めることもなく、その白い横顔を見るたびに、私の胸の奥で何かが痛んだ。
五日目の昼休み。
私はいつものように彩乃たちとお弁当を広げながら、ふと教室を見渡した。
雪がいない。窓際の席が、空になっている。
(図書室だ)
体が、先に動いていた。
「ちょっとトイレ」と言い残し、私は小さいカバンを持ち立ち上がった。
廊下を早足で歩き、校舎の東側へと向かう。
重いスチールの扉の前に立つ。深呼吸をひとつ。
今日こそ、引き返さないと決めて、私は扉を押し開けた。
古い紙とインクの匂いが、肺を満たした。
昼下がりの柔らかい光の中、一番奥の窓際の席に、白瀬雪がいた。
私の足音に気づくと、彼女はゆっくりと顔を上げ、海の底のような瞳で私を見た。
驚きも、拒絶も、そこにはなかった。ただ静かな、「来たんだね」とでも言うような視線。
「……また、来たんだね」
声が、そのまま言葉になって出てきた。
私は無言で頷き、彼女の向かいの席にカバンを置いて腰を下ろした。
沈黙が落ちる。でも、この沈黙は怖くなかった。
私はそっと、カバンから文庫本を取り出した。雪の読んでいる本に比べれば、ずっと薄い、ありふれた小説だ。二人分のページをめくる音が、静かに重なった。
(……ここにいていいんだ)
その感覚が、じわりと体の奥に広がっていくのを感じた。誰の顔色も窺わなくていい。声のトーンを調整しなくていい。ただ、ここにいるだけでいい。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るまでの二十分間、私たちは一言も言葉を交わさなかった。
それで十分だった。十分すぎるほど、ここは静かで、温かかった。
「……戻ろっか」
私がカバンを手に取って立ち上がると、雪も無言で本を閉じ、立ち上がった。
並んで廊下を歩く、とはまだ言えない距離だった。でも、同じ方向へ、同じ速度で歩いていた。
教室の扉を開ける直前、雪が立ち止まり、ぽつりと言った。
「……緋野さん」
「うん?」
「来てくれて、よかった」
それだけだった。飾りも、含みもない、ただの事実。 でも私の胸は、見えない何かで満たされるように、じんわりと温かくなった。
私は何も言えなかった。ただ小さく頷いて、扉を引いた。
(明日も、来よう)
今度は、本当にそう思えた。
第2話 了




