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第1話:カメレオンの憂鬱と、真っ白な異物

 放課後の海風は、いつも少しだけ潮の匂いがする。


 海沿いに広がるこの町は、どこへ行くにも坂道ばかりだ。


 駅前の喧騒を抜けて住宅街へと続く長い坂を上りきると、視界の端にはいつも、きらきらと光る海が広がっている。


 夕暮れ時。


 西の空に傾いた太陽が、町全体を琥珀色に染め上げていた。


   アスファルトに落ちる私の影が、ひょろ長く伸びている。


 赤レンガの屋根も、ガードレールの白も、そして――私の、生まれつき少し赤みがかったこの髪の毛も。


 すべてが夕日に溶け込んで、境界線が曖昧になっていく。私は、一日の中でこの時間が一番好きだった。


(……このまま、溶けてなくなってしまえばいいのに)


 ふと、そんな途方もないことを考える。


 誰にも嫌われたくない。


 誰の記憶にも、歪んだ形で残りたくない。


 そのためには、誰かの望む『私』でいればいい。相手の呼吸に合わせて、顔色を窺って、カメレオンのように器用に自分の色を変える。そうやって本来の自分自身を薄め続けていけば、いつか私は完全に『透明』になれるはずだ。


 誰も傷つけず、誰からも傷つけられない。


 空気みたいにそこにあって、でも誰の邪魔もしない、安全で完璧な透明に。


 けれど、中学三年生の春。


 私の前に、ひどく純粋で、残酷なほど真っ白な少女が現れた。


 彼女は、私が必死に透明になろうとして隠してきた輪郭を、その冷たい手で容赦なく引きずり出してきたのだ。


 これは、透明になりたかった私が、透明になれなかった日々の――そして、初めて自分自身の色を見つけるまでの、嘘と本当の物語だ。




 *********




 海沿いの町特有の、少しだけ潮の匂いを孕んだ爽やかな朝の風が、桜ヶ丘中学校の開け放たれた窓から吹き込んでいる。



 午前八時二十分。三年二組の教室は、四十五人分の話し声と笑い声で、すでに特有のぬるい熱気を帯びていた。


「――でさー、昨日のあのドラマ見た!? もう主人公がありえなくってさ!」


 私の目の前で、身振り手振りを交えて熱弁を振るっているのは、親友の朝比奈美桜(あさひなみお)だ。


 少し明るめに染めた茶髪と、人懐っこい笑顔。彼女の周りにはいつも自然と人が集まる。


「見た見た! 分かるよー、あの場面でそのセリフはないでしょってツッコミ入れちゃったもん」


 私は、ワントーン高く、少し弾んだ声を出した。


 目元を緩め、美桜のテンションにぴったりとチューニングを合わせる。


 これは『友達用の声』だ。ノリが良くて、共感力が高くて、絶対に相手を否定しない。


「だよね! 朱里(あかり)ならわかってくれると思ったー」


 美桜が満足そうに笑って、私の肩に寄りかかってくる。よし、今日の立ち上がりも順調だ。


「おい緋野(ひの)ー、昨日貸した漫画読んだ?」


 ふいに、斜め後ろの席から声が飛んでくる。クラスの男子グループの一人だ。


「読んだよ。主人公の覚醒シーン、めっちゃ熱かったね。あとで返すわ」


 ここでは媚びず、かといって冷たくもない、適度にサバサバした『男子用の声』。気さくで、話しやすい女子を演じる。


(……あー、朝から疲れる)


 表面上は笑顔を張り付けながら、私は心の奥底でそっとため息をついた。


 相手に合わせて、声も、表情も、考え方すらも変える。


 カメレオンのように器用に擬態し続ける。

 面倒くさいけれど、小学生の頃に「空気読めないよね」と冷ややかな視線を浴びたあの恐怖に比べれば、息を殺して空気を読むことなど造作もない。  私の内側は空っぽだ。


 だからこそ、どんな形の器にもすっぽりと収まることができる。誰にも嫌われない、透明な存在になるために。



 キーンコーンカーンコーン。



 朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いた。


 生徒たちが慌てて自分の席に戻り、教室のざわめきが少しずつ収まっていく。


「えー、席につけ。……今日は、お前らに紹介したい生徒がいる」


 出席簿を開きかけた担任が、ふと顔を上げてそう言った。


 ざわついていたクラスの空気が、ピタリと止まる。転校生。田舎の地方都市にあるこの中学校では、それは一種のビッグイベントだ。

 美桜も目を輝かせて教卓のほうを見ている。


「入ってきなさい」


 担任の言葉に促され、廊下側の引き戸が、ガラリ、と開いた。


 一歩、教室に足を踏み入れたその人物を見た瞬間――私は、息を呑んだ。


 彼女は、まるでこの世の輪郭から一人だけ切り取られて、ポンと置かれたように見えた。


 肩のラインで切り揃えられた髪は、色素が抜け落ちたような、透き通るような白。

 肌は抜けるように白く、海の底のような、静かで深い色の瞳をしていた。表情の読めないその顔立ちは、ひどく端正で、どこか精巧なビスク・ドールのようだった。


白瀬(しらせ)(ゆき)です」


 黒板に名前を書くこともなく、彼女は短く名乗った。


 その声は、薄いガラスの縁を指でなぞった時に鳴るような、ひどく繊細で冷たい響きを持っていた。

 媚びることも、緊張を隠すことも、親しみを持たせることもない、ただの『事実』としての自己紹介。


 教室中が、奇妙な静寂に包まれていた。誰もが彼女の異質な存在感に圧倒され、次の言葉を待つように息を潜めている。


「えー……っと、そうだな。白瀬の席は……あそこだ。窓際の一番後ろ、黒田の隣が空いてるな。白瀬、あそこに行ってくれ」


  「はい」


 雪は短く返事をすると、教壇を降りて静かに歩き出した。


 四十五人の視線が一斉に彼女を追う。彼女が私の席の横を通り過ぎる瞬間、ふわりと、かすかに無機質で清潔な石鹸の匂いがした。使い古された木製の机や、日焼けした掲示板といった『日常の風景』の中で、彼女の白さはあまりにも浮き立っていた。


 雪は窓際の一番後ろの席に辿り着き、音を立てずに椅子を引いて腰を下ろした。


「よし、じゃあ席にもついたところで、連絡事項だ。緋野、号令の前にちょっといいか」


「はい、先生。どうしましたか?」


 名指しされて、私は反射的に立ち上がり、一瞬で声帯のスイッチを切り替えた。


 声のトーンを落とし、背筋を伸ばす。先ほどまで美桜たちと話していた軽薄さは完全に消し去り、落ち着いていて信頼感のある『先生用の優等生の声』だ。


「午後の委員会の資料なんだが、放課後までに一通り目を通しておいてくれないか。お前が学級委員長で助かるよ」


「分かりました。帰りの会が終わるまでに確認しておきますね」


 私が完璧な優等生の微笑みを浮かべてプリントを受け取った、その時。


 ふと視線を感じて斜め後ろを振り向くと、席についたばかりの白瀬雪が、海の底のような深い瞳で、じっと私の顔を見つめていた。


 一瞬、心臓が跳ねたが、私はすぐに視線を外した。


「じゃあ連絡事項の続きだが。来週は第一回の進路希望調査の提出締め切りだ。それから、再来週には実力テストが控えてる。お前ら、そろそろ本腰入れないと志望校のランクを落とすことになるぞ。特に一学期の内申点は受験に直結するからな。気を引き締めるように」


 担任の言葉と共に、内申点、志望校という単語が教室に投げ込まれる。


 教室の空気が、目に見えて重く、ささくれ立っていく。


 ――その重苦しい空気は、昼休みになっても教室に淀んでいた。


「あー、もう最悪! 来週の土曜、塾の模試入っちゃったよ」


「マジで? 私もなんだけど。彩乃も行く?」


 噂好きでクラスの空気のバロメーターとも言える佐藤彩乃(さいとうあやの)が、大きなため息をついた。周囲の女子たちも同調して不満の声を上げる。受験というプレッシャーは、簡単に他者への苛立ちや妬みへと変換される危険な劇薬だ。


「行くしかないじゃん。……てか朱里はどうするの? 余裕っしょ?」


 不意に振られた矢印。ここで余裕を見せれば、彼女たちの苛立ちの矛先は間違いなく私に向く。


「全然余裕じゃないよー! 私も数学の図形が本当にヤバくて。昨日も美桜に泣きついてたところ」


 私は眉をハの字に下げ、少し声を上ずらせて『焦っている受験生』を見事に演じきった。


「だよねー! 学年トップの朱里でもそうなんだ、ちょっと安心したかも」


 彩乃たちの空気がふっと緩む。私は心の中で冷や汗を拭いながら、無害な笑顔を振りまいた。


 ふと、教室の後ろに視線をやる。


 白瀬雪は、私たちのピリついた会話になど一切興味がないというように、遠くの海をただ静かに見つめていた。誰の輪郭にも重ならない。誰の色にも染まらない。彼女の周りだけ、見えない透明なドームで外界から遮断されているようだった。


 ――そして、放課後。


 朝から夕方まで、目まぐるしく仮面を付け替え続けた私は、疲労困憊で教室を逃げ出した。


 向かったのは、校舎の東側の端にある図書室だ。ここなら「緋野朱里」という着ぐるみを脱いで、空っぽの自分に戻れる。



 重いスチールの扉を押し開ける。


 古い紙とインクの匂い。西日が差し込む室内には、細かな埃が金色の粒子のように舞っている。


 肺の底に溜まっていた重たくて濁った空気を吐き出し、いつもの歴史小説が並ぶ高い本棚の通路へと足を踏み入れた、その時だった。


 本棚の陰。西日を浴びて、透き通るような白い髪が揺れた。


 息を呑んだ。白瀬雪だった。


 彼女は一冊の分厚いハードカバーの本を胸に抱き、彫像のように静かに佇んでいた。


 しかし、私が足音を立てた瞬間、彼女の動きがわずかに止まった。 一拍。


 まるで何かを言おうか言うまいか、ほんの一瞬だけ迷うような間があって――それから、ゆっくりとこちらを振り向いた。  深く静かな瞳と、バッチリ目が合ってしまった。


 咄嗟に、私の防衛本能が作動した。口角をきゅっと上げ、目を少しだけ見開き、敵意がないことを示す。


「あ……白瀬さん。本、借りに来たの?」


 声帯から滑り出たのは、完璧に調整された『優しくて親切なクラスメイト用の声』。


 しかし――雪は、私の笑顔に微塵も反応しなかった。  彼女はじっと、ただじっと私の顔を見据えた。その真っ直ぐで透明な視線が、私の奥底を透かして見るようで恐ろしかった。  やがて彼女は、静かに口を開いた。


「……ねえ」


「え?」


「あなた、朝と声が違うね」



 ――ドクン、と。



 心臓が、肋骨を内側から激しく殴りつけるような嫌な音を立てた。


「え……?」


「朝のホームルームの後、先生と話していた時。隣の席の女の子と話していた時。昼休み、焦っているふりをして違う女の子たちと話していた時。そして、今」


 雪は一歩、私に近づいた。朝と同じ、無機質な石鹸の匂いがした。

 私の赤みがかった髪と、彼女の真っ白な髪が、夕日の中で奇妙なコントラストを描いている。


「あなたの声、三つ……ううん、四つあるよね。全部、違う人の声みたい」


 息の仕方を忘れた。背筋をぞっとするような冷たい汗が伝い落ちる。


 誰も疑わなかった私の仮面を、今日転校してきたばかりの、この真っ白な少女は。私の一日の振る舞いを静かに観察し、いともたやすく、一瞬で引き剥がした。


「……何、言ってるの。そんなこと」


 私は顔を引きつらせたまま、かろうじて反論を試みた。声が震えないように必死だった。


「本当の声は、どれなの?」


 雪の問いかけには、悪意も非難もない。ただ純粋な疑問だけがそこにあった。


 だからこそ、恐ろしかったのだ。空気を読み、色を変え続けてきた私の内側には、もう『本当の声』なんて、どこにも残っていないのだから。


「そんなの……ないよ。私、別に、いつも同じだし……」


 逃げ出したかった。けれど、足が床に縫い付けられて動かない。


 雪はしばらく、怯える私の瞳の奥をじっと探るように見つめていた。やがて、わずかに首を傾げて、静かに言った。


「じゃあ、()()()()()()()


 窓の外から、夕方の強い海風が吹き込んで、彼女の白い髪を激しく揺らした。


 開け放たれた窓のカーテンが大きく膨らみ、書架の間に張り詰めていた静寂をバサバサとかき乱していく。  私が必死に守ってきた透明な世界が、音を立てて崩れ去っていく。




 ――翌朝。



「じゃあ、一緒に探そうか」


 図書室で聞いたあの冷たくて透き通った声が、夜になっても、そして朝の光を浴びて坂道を登っている今も、脳裏にべったりと張り付いて離れなかった。


(……探すって、何を。私には、何もないのに)


 ローファーのつま先を見つめながら、心の中で悪態をつく。


 それを、昨日会ったばかりの真っ白な転校生に「一緒に探そう」と言われる筋合いなんてない。


(大丈夫。落ち着け、私)


 校門が見えてきたところで、両手でパンッと自分の頬を叩いた。


 今日からまた、完璧なカメレオンとして振る舞えばいい。


 いつも通り、誰にも嫌われない無害な空気を演じきるだけだ。

 分厚い仮面を被り直し、口角を完璧な角度に引き上げて、私は三年二組の教室の扉を開けた。


「おはよー、朱里!」


「おはよう、美桜。今日も早いね」


 一番に声をかけてきた美桜に、ワントーン高い『友達用の声』で返す。


 美桜の隣の席にカバンを置きながら、私はこっそりと安堵の息を吐き出した。

 よし、大丈夫だ。私の擬態は今日も完璧に機能している。


 そう確信した直後、ふと視線が教室の最後列、窓際の席へと吸い寄せられた。


 白瀬雪が、そこにいた。


 彼女はもう登校していて、文庫本を開いて静かに文字を追っていた。

 その時、雪がふと本から顔を上げ、私を見た。海の底のような深く静かな瞳と、視線が絡み合う。


 ――あなたの声、四つあるよね。



 昨日の図書室での光景がフラッシュバックし、心臓が嫌なリズムで跳ねた。


 私は慌てて視線を逸らし、美桜との会話に逃げ込んだ。



 ――その日の昼休み。


「ねえねえ、見てこれ! 昨日、駅前の雑貨屋で買ったんだけど、可愛くない!?」


 弁当を食べ終わり、数人の女子が机をくっつけて談笑している輪の中で、佐藤彩乃が弾んだ声で一つのキーホルダーを掲げた。


 ピンク色の派手なラインストーンがちりばめられた、テディベアのキーホルダー。正直に言えば、中学生がスクールバッグに付けるには少しギラギラしすぎていて、趣味が良いとはお世辞にも言えない代物だった。


「うわ、ほんとだ! キラキラしてて可愛いー!」


「彩乃っぽーい! 似合ってる!」


 美桜をはじめとする女子たちが、条件反射のように称賛の声を上げる。


 これが、この教室における『正しいコミュニケーション』だ。本心で可愛いと思っているかどうかなんて関係ない。「可愛い」と提示されたものには「可愛い」と同意し、相手の承認欲求を満たしてあげること。


 それが波風を立てないための絶対的なルールなのだ。


「でしょー? 朱里はどう思う?」


 誇らしげな彩乃から、当然のように同意を求められる。


 私は完璧な笑顔を作り、少しだけ目を見開いてみせた。


「うん、すっごく可愛い! ラインストーンの色合いが彩乃の雰囲気にぴったりだね。私もそういうの、一つ欲しかったんだ」


 息をするように、滑らかに嘘が口をついて出る。


 私の言葉に、彩乃は「だよねー!」とさらに機嫌を良くした。よし、ミッションクリアだ。


 そのまま平和な昼休みが続くはずだった。


 もしその時、たまたまトイレから戻ってきた白瀬雪が、私たちの席の横を通りかからなければ。


「あ、そうだ。ねえ白瀬さん!」


 彩乃が、何を思ったのか雪に声をかけたのだ。


 雪は立ち止まり、無表情のまま小首を傾げて彩乃を見た。


「白瀬さんも、これ可愛いと思うでしょ?」


 彩乃が、ピンク色のテディベアを雪の目の前に突き出す。

 その瞬間、私は嫌な予感に総毛立った。


 雪は、突き出されたキーホルダーをじっと見つめた。数秒の沈黙。教室の空気が、わずかに張り詰める。  やがて雪は、ガラス細工のように冷たく、一切の感情がこもっていない声で、こう言い放った。


「……可愛くない」


「えっ?」


 彩乃の笑顔が、ピシリと凍りついた。


「色が派手すぎるし、そのカバンの素材とは合っていない。それに、接着剤がはみ出していて、作りがとても安っぽいと思う」


 空気を読むとか、オブラートに包むとか、そういう概念が彼女の中には一切存在しないかのようだった。


 ただの『事実』を、純度百パーセントの真実として、真っ直ぐに叩きつけたのだ。


 シーン、と。  私たちの周りの空気だけが、急速に冷凍されたように静まり返った。


「な、なによそれ……。人の持ち物に向かって、そんな言い方しなくたっていいじゃない!」


「どうして? あなたが『どう思うか』と聞いたから、私が思ったことをそのまま答えただけだけど」


 雪は全く悪びれる様子もなく、不思議そうに首を傾げている。


「もういい! 白瀬さんには聞いてないから!」


 彩乃がバンッ! と机を叩いて立ち上がる。最悪だ。空気が、完全に壊れた。


(私が、なんとかしなきゃ)


 私は慌てて立ち上がり、彩乃と雪の間に割って入った。


「あ、あはは! 白瀬さんってば、結構ハッキリ言うタイプなんだね! でもほら、こういう派手なのは好みが分かれるっていうか! 彩乃はこういうポップなのが似合うから、私はすごく良いと思うな!」


 焦燥感を必死に隠し、一段と高い声でフォローを入れる。


「……っ、別に無理やり褒めさせようとなんてしてないし! もういい、白瀬さんには二度と聞かないから!」


 彩乃が顔を真っ赤にして、捨て台詞を吐きながら自分の席へと戻っていく。


 美桜たちも「ちょっと白瀬さん、空気読めなさすぎだよね……」とヒソヒソ囁き合いながら散っていった。


 予鈴のチャイムが、間抜けな音で鳴り響く。


 よかった。ギリギリで、収まった。  私は肩の力を抜いて自分の席へと戻り――その瞬間、背後から静かな声が届いた。


「緋野さん」


 雪だった。


 振り返ると、彼女は私を真っ直ぐに見ていた。昨日の図書室と同じ、海の底のような深い瞳。


「……なに」


  「さっき、そのキーホルダーを見た時、あなたの目は少しも笑っていなかった。本当に可愛いなんて、少しも思っていないのに」


 息が止まった。  雪の声は大きくはなかったが、私の耳には雷鳴のように響いた。


「し、白瀬さん……っ、やめて」


 これ以上言わないで。心の中で悲鳴を上げる。彩乃や美桜たちが、怪訝な顔で私と雪を交互に見ている。


「な……に、言ってるの、白瀬さん。私が嘘なんて……」


 声が震えた。  雪が静かに口を開きかけた、まさにその絶体絶命の瞬間だった。


 ――ガタンッ!!


 鋭い破裂音が、静まり返った教室に響き渡った。


 全員の肩がビクッと跳ねる。音のした方――教室の最後列、窓際――を振り返ると、黒田悠斗が床に落ちた分厚い辞書を拾い上げているところだった。


「……わりぃ、手が滑った」


 黒田は悪びれる様子もなく、気怠げな声でそう言った。そして、凍りついたままの私たちを一瞥すると、ため息まじりに言葉を紡ぐ。


「白瀬も白瀬だ、どうでもいいキーホルダーの評価なんて適当に流しとけよ。……ほら、もうすぐ予鈴鳴るぞ」


 黒田のその言葉は、誰の味方をするわけでもなく、ただ『この騒ぎ自体がくだらない』と切り捨てるものだった。しかし、その客観的で冷めた視点が、極度に張り詰めていた空気を強制的にトーンダウンさせたのだ。


 予鈴のチャイムが鳴り響き、生徒たちが散っていく。私はホッと息を吐き出した。助かった。今日も、なんとかなった。



 雪はといえば、私に何も言い残さず、静かに自分の席へと戻っていった。


 私はその白い背中を目で追いながら、今夜は眠れないだろうな、とぼんやり思った。


「あなたの目は少しも笑っていなかった」と、あの透明な瞳は言っていた。否定できなかった。何一つ。



 ――放課後のチャイムが鳴り響いた瞬間、私は帰り支度をしていた雪の席まで足早に歩み寄り、彼女の細い手首を無言で掴んだ。



「……緋野さん?」


「ちょっと、来て」


 クラスメイトの視線を気にする余裕すらなく、私は雪を引っ張って教室を出た。


 向かったのは、体育館の裏手――普段は誰も寄り付かない、古い用具倉庫が並ぶ校舎裏だ。西日が遮られ、ひんやりとした薄暗い影が落ちている。少し離れた海から、生温かい風が吹いてきて、頭上の桜の葉をざわめかせていた。


 誰もいないことを確認してから、私は雪の手首を乱暴に振り払った。


「……何なの、あなた」


 声が低く唸るように漏れた。

 そこには、優等生の『緋野朱里』も、ノリの良い『友達用の声』もなかった。私自身の、恐怖と怒りにまみれた、泥のように濁った声。


「昼休みのあれ、どういうつもり? 私が嘘をついてるなんて、みんなの前で言う必要あった!?」


  「……緋野さん、声が」


「声の話はもういい!!」


 私はヒステリックに叫んでいた。


 雪は少しだけ目を丸くしたが、やはりその表情に恐怖や動揺の色はない。


「どうしてあんなこと言ったの? 彩乃のキーホルダーなんて、適当に『可愛いね』って言っておけば、誰も傷つかなかった。みんな笑って終われた。なのに、あなたが余計な本当のことを言うから……っ!」


「私は、あなたの目が笑っていないと言っただけだよ。緋野さんこそ、どうしてあんなに焦っていたの?」


  「それは……っ」


 雪の海のような瞳が、私を静かに射抜く。


「心にもないことを言うのは、嘘をつくことと同じでしょう?」


「違う! あれは嘘じゃない、マナーなの! 空気を読むってことなの! あなたみたいに何でもかんでも思ったことを口にしてたら、誰も相手にしてくれなくなる。嫌われるんだよ!」


 小学生の頃の記憶がフラッシュバックし、息が荒くなる。喉が焼けるように熱かった。


「私は……嫌われたくないの。誰の記憶にも残らないくらい、ただ透明でいたいの。だから、お願い」


 私は両手を強く握りしめ、頭を下げた。プライドも何もなかった。ただ、今の居場所を守りたかった。


「これ以上、私に関わらないで。私のこと、見ないで。……お願いだから、私の邪魔をしないでよ」


 絞り出すように言った私の声は、ひどく惨めで、震えていた。


 長い沈黙が落ちた。頭上の木々が風に揺れる音だけが、やけに大きく聞こえる。

 やがて、雪の白いローファーが一歩、私に近づく気配がした。顔を上げると、彼女は悲しいものを見るような、ひどく静かな目をして私を見下ろしていた。


「……緋野さんは、()()()()()


「え……?」


「誰にも嫌われないために、自分を消して、透明になろうとしている。でも、そんなの……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 その言葉は、怒りでも非難でもなく、純粋な哀れみだった。  図星を突かれた私の心臓が、ドクリ、と重く跳ねる。


「……嘘の関係より、一人のほうがいい。私は、そう思うよ」


 雪はそれだけ言い残すと、私に背を向け、影の落ちる校舎裏を静かに歩き去っていった。


 残された私は、その白い背中が見えなくなっても、その場から一歩も動くことができなかった。


 彼女の「可哀想」という言葉が、呪いのように耳の奥で反響し続けていた。カメレオンのように器用に生きてきたはずの私の足元が、音を立てて崩れていくのを感じながら。



 それが、私が透明になることを諦めざるを得なくなった、すべての始まりだった。


 第1話 了

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