第2話
朝食のあと。
アルス・ヴァン・ドレッドは、完璧だった。
黒衣は整えられ、銀髪は一糸乱れず、表情は氷のように静か。
ギルド本部の広間、報告を求める視線が集まる。
「北方丘陵戦、敵殲滅完了。被害軽微。問題なし」
低く、簡潔に。
「禁術は使用したのか?」
幹部が問いかける。
「……やむを得ず一度のみ」
空気がざわつく。
「あれを使ったのに平然としているだと⋯⋯?」
《ラグナ・メンティス》。
対象の思考演算を強制停止させる禁術。
そして――術者もまた侵される。
だがアルスの表情は微動だにしない。
「副作用は管理下にあります。今後は極力使用を避けます」
内心では固く誓っていた。
(二度と姉上の前であの姿は見せない)
そのとき。
扉が乱暴に開いた。
「緊急報告! 第七鉱区に多層思考型の魔獣出現!」
ざわめき。
「通常術式無効! 演算速度が異常です!」
幹部の視線が、ゆっくりとアルスへ向く。
嫌な予感しかしない。
「……アルス。お前にしかできない」
静かな断定。
(やはりか)
多層思考型。
術式を瞬時に再構築し続ける相手。
通常魔法では追いつかない。 ――どう考えても。
(ラグナ・メンティスが最適解だ)
アルスは、静かに口を開いた。
「了解しました」
そして付け加える。
「なお、明日は有給を取得します」
「……は?」
「私用です」
空気が止まる。
「問題が?」
「……いや、ない。お前が有給を取ることなど滅多にないから、少し驚いただけだ」
「では、本日中に終わらせます」
黒衣が翻った。
◇
第七鉱区。
岩盤を裂き、地脈を歪ませながら、巨大な影が這い出る。
魔力探知網が警告を連続で鳴らす。数値は常に更新され、安定しない。
――多層思考型。
一つの核ではない。
思考層が幾重にも重なり、破壊すれば即座に再構築される。
術式を読んだ瞬間には、もう次の演算が走っている。
「通常術式、貫通せず!」
雷撃が逸れ、氷刃が弾かれ、結界が逆流する。
味方の魔術師たちの顔から血の気が引いた。
アルスは静かに観察する。
(演算速度、予測値の一・三倍。術式再構築、〇・八秒)
人間の処理速度では追いつかない。
(悔しいが、やはり停止させるしかない)
詠唱する。
「《ラグナ・メンティス》」
魔獣の瞳から光が抜け落ちる。
思考層が、一枚ずつ剥がれるように崩壊した。
動きが止まる。
そして崩壊。
「終わ――」
地面が爆ぜた。
二体目。
先ほどの崩壊を学習している。
思考層の配置が変わっている。
(対応している……?)
一瞬の判断。
「《ラグナ・メンティス》」
二度目。
視界の端がわずかに揺れる。
音が遠い。
だが魔獣は崩れ落ちた。
(まだ保てる)
三体目。
横の岩壁を破壊しながら出現。
味方が後退する。
「数が多すぎる!」
アルスは振り返らない。
「下がっていろ」
三度目。
詠唱の瞬間、脳裏に微かな白濁。
思考の縁が、丸く削られる感覚。
(……輪郭が甘い)
だが粉砕。
四体目。
地中から這い出る巨躯。
魔力波形が秒単位で変質している。
アルスは淡々と呟いた。
「……明日は有給だ」
無表情で、四度目の詠唱。
世界が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
岩肌の亀裂が、なだらかに見えた。
鋭い牙の輪郭が、どこか角の取れた玩具のように感じられる。
(……丸い?)
危険だ。
頬を叩き意識を締め直す。
粉砕。静寂。
――終わった。やっと。
そう判断した瞬間。
背後で空間が裂ける。
最後の一体。
他より明らかに巨大。
思考層が螺旋状に重なり、核が幾つも鼓動している。
味方の魔術師が絶望の声を漏らす。
「無理だ……あれは……」
アルスは、無表情のまま言う。
「問題ない」
五度目。
(これで最後だ)
「《ラグナ・メンティス》」
発動。
世界が水の底に沈んだように歪む。
魔獣の思考層が、一枚、また一枚と崩落していく。
それと同時にアルスの内側も、静かに軋んだ。
思考が滑る。
言葉が、ほどけていく。
(……これは……昨日より……)
視界の端で、夕日に照らされた敵の残骸がまるく光る。
いや。
残骸だけではない。
岩も、瓦礫も、味方の兵士の剣も。
すべてが、まるく光っている。
やわらかく、あたたかい。
(まずい)
理性を掴み直す。
(思考を固定しろ。帰還を優先しろ)
「……後は、任せた」
自分の声が、どこか優しい。
転送陣を展開。
魔法陣の線が、わずかに曲線を描く。
(丸いな……)
いや、違う。
違う。
意識がふわりと浮く。
光が弾け、
アルスの姿が消える。
王都の空に、ほんの一瞬。
丸い魔力の余波が広がった。
彼はまだ知らない。
今日の副作用が、昨日の比ではないことを。




