『静かに暮らしたいけれど、世界は広すぎる』
六歳の夏が、静かに、しかし容赦なく過ぎていった。
屋敷の中も外も、母セシルのいない生活に少しずつ順応しはじめている。
その一方で――ルミエという少女を中心に、世界はますます落ち着かなくなっていった。
きっかけは、あの市場の日と触礼の噂だった。
「ルミエ様にお目通りしたいのですが」
「一目で構いませんので――」
ここ最近、ヴァロワ邸には「偶然を装った来客」が増えている。
遠方の商家が挨拶に来たと思えば、その実、目的の半分はルミエ。
遠縁の貴族が「ヴァロワ家へのご機嫌うかがい」と称して訪れ、
帰り際に『娘君のお姿をほんの少し……』と切り出すのも一度や二度ではない。
フランソワは、最初のうちは丁寧に断っていた。
「娘はまだ幼く、人前に出すには早い」と。
だが、それでも客足は途絶えず、
「ならばせめて廊下ですれ違うだけでも」と懇願され――
また、この世界では、噂が街を一巡するだけで
「一生に一度は見ておきたい存在」になってしまう。
熱のこもった好奇心と、純粋な憧れを、完全に無下にすることは難しかった。
(……無理に客を追い返して、商売に支障が出るのも困る……よねぇ)
結果として、ルミエは半ば『屋敷の中の名所』と化していた。
今日も今日とて、客間の隣の廊下を通るだけで、
「……っ……」
「本当に……噂のままの……」
と息を詰める声が聞こえてくる。
横目で見る限り、客の婦人がハンカチをぎゅっと握りしめていた。
隣の旦那は、なぜか真顔でうなずいている。
「ご令嬢……その、こちらを一度だけお向きいただけますか」
「ええ。ご挨拶できて嬉しいです」
ルミエは、いつも通り完璧な笑みを向ける。
(嬉しくない。全然嬉しくない……!でもお父さまの顔を立てる……!)
そうして一度ほほ笑んだだけで、その夫婦は本気で目を潤ませていた。
「……この目に焼き付けました……」
「今日の日を、きっと忘れません……」
(いや、記念日みたいに言わないで。こっちは毎日なんだけど……)
そんな「名残惜しそうな客」を何組見送ったか、もはや数えたくもない。
※※※
そして――外部との関わりは、「大人」に限らなくなってきていた。
「今日は商会のお得意様のお子様方がいらっしゃいます」
ある日の朝、乳母がそう告げた。
「お取引先でもあるし、これから同年代とも交流を持っておくのは悪くないだろうと旦那様が」
「……お友達?」
「ええ。まだ皆、七つにも満たないお小さい子ばかりですし、きっとすぐに仲良くなれますよ」
「とっても素敵。どんな子たちなのかしら」
まるで咲き誇る花畑を前にしたように胸に手を当て、夢見るようにほほ笑むルミエ。
年相応の笑みを見られて、こっそり感涙を流している乳母を尻目に、想いを馳せる。
(友達……か……)
前世では、一度も縁のなかった存在。
この世界に来てからも、年の近い子どもはちらほら見たが、
「友達」と呼べるほど肩を並べて話した相手はいない。
(……普通に話せるなら、欲しいけど……普通に、が一番難しいんだよなぁ)
その予感は、見事に的中した。
※※※
屋敷の中庭。
そこに今日集まったのは、三家の子どもたちだった。
小さくおしゃれをした商家の男の子二人、
小さな帽子をかぶった有力商人の娘。
年齢はルミエと同じくらいから、少し下くらい。
「本日はお招きにあずかり、誠に――」
付き添いの大人たちが挨拶を交わす一方で、
子どもたちはきょろきょろと辺りを見回していた。
ルミエが姿を現した瞬間――空気が変わる。
「……あ」
一番年下の男の子が、その場で固まった。
目を見開いたまま、まったく動かない。
「き、きれい……」
隣の女の子は言葉を失い、口元を押さえる。
もう一人の男の子は顔を赤くして、目をそらした。
(あ、これダメなやつだ……)
大人の反応は、ある程度パターン化されている。
驚く・固まる・感嘆する・泣く・拝む。
そういった行動なら、何度も見てきた。
だが、子どもは容赦がない。
「う……うああああああん!!」
最年少の男の子が、突然大声で泣き出した。
「え、どうしたの!? どこか痛いの?」
「いたくない……! でも……なんか……胸が……!」
(子どもに説明させるのやめてあげて……!)
付き添いの母親が慌てて抱き寄せる。
「だ、大丈夫?この子、人見知りでして……」
「違う……!きれいすぎて……こわい……っ」
(うん、その感想は刺さるな……)
別の男の子は、兄らしく弟の前に立ちはだかり――
ルミエとは一度も目を合わせないまま、大声で叫んだ。
「ぼ、ぼくが守るからな!!」
(何から!?)
「……ルミエ様が怖いわけではなくて、あの、尊すぎて……」
傍らの父親が必死にフォローを入れるも、
言っていることは結局いつもと同じだった。
一方、少女の方はというと、
「……あ……あの……」
ルミエのドレスの裾を、おずおずとつまむ。
瞳は潤み、頬は赤く染まっている。
「ごきげんよう。来てくれて嬉しいわ」
「…………っ」
少女はそのまま、静かに涙をこぼした。
「だ、だめだと思ったのに……しゃべられた……」
「……?」
「きれいなのに、やさしい……」
(それは別に普通だよ。綺麗と優しいは両立するからね?)
もう綺麗だと評されることにはとっくに慣れていたが、
感情の起伏が激しい子供たちの反応には、さすがのルミエも戸惑った。
むろん、顔には一切出さない。
子どもたちが帰ったあと、付き添いの大人たちも一様に疲れ切った様子だった。
「……うちの子、あれからずっと『また会いたい……でも会うとつらい……』と漏らしておりまして……」
「夢見が悪くならないか心配で……」
(完全に「高嶺の花」じゃなくて「ラスボス」みたいな扱いなんだけど……)
ルミエは、心の中でそっと頭を抱えた。
※※※
それでも、こうした”交流”は何度も繰り返された。
商会の子どもたち。
地方の有力者の子弟たち。
教会に仕える聖職者の息子や娘。
年が近い子どもが相手なら『普通の友達』になれるかもしれないという淡い期待は、
会うたびに、少しずつ崩れていった。
(……みんな、私を“人”として見てくれないんだよなぁ)
姉として弟を抱くと、周囲の大人が勝手に感動する。
立っているだけで、祈る人が出てくる。
笑えば、泣き出す子がいる。
『友達』として肩を並べる前に、
皆、勝手に距離を開けてしまう。
――それは、前世の「空気のような存在」とは真逆の孤独だった。
(目立ちたくないって思ってたはずなんだけどな……)
どちらがマシなのかは、まだわからない。
ただ、どちらも「普通」とは違うのだけは確かだった。
ある日、屋敷で小規模な茶会が催された。
フランソワの古くからの友人である貴族一家が訪れ、
その娘――ルミエより少し年上の令嬢も一緒に招かれた。
「ルミエ様と、ぜひお話を」と。
中庭のテラスで、
小さく整えられたテーブルを挟んで向かい合う二人。
「お招きいただき光栄ですわ、ルミエ様」
「こちらこそ。お越しいただけて嬉しいです」
貴族令嬢は礼儀正しく、友好的だった。
緊張している様子はありながらも、
一生懸命に言葉を選びながら会話をつなごうとしてくれている。
(お、これは……もしかして……)
少しだけ、期待が胸に湧く。
「……ルミエ様は、その……毎日、どのようにお過ごしで?」
「勉強と、弟と遊ぶのと……あとは、お父さまとお話をしたりです」
「まぁ……弟君と。きっと、素敵な時間なのでしょうね……」
会話自体はごく普通だ。
相手も、こちらを見てすぐに涙ぐんだりもしない。
(このままいけば、わりと、普通に――)
と、その時。
「ルミエ様」
「はい?」
令嬢が、そっと身を乗り出した。
双眸が、真っ直ぐルミエを射抜く。
「……あの……不躾を承知で、ひとつお願いがございます」
「ええ、可能な範囲であれば」
「その……どうか、一度だけで構いませんので……」
「……?」
「“友人”と、呼んでいただけないでしょうか」
テラスに、風の音だけが残る。
(……えらくハードルの高いお願いきたな……?)
令嬢の顔は真っ赤だった。
目を逸らしてしまえば、そのまま泣き出しそうなほどに。
「私のような者が、ルミエ様の友などと名乗るのはおこがましいと存じます。ですが……
“友と呼ばれるだけ”で構いません。その、一生の――」
(それ、もはや願掛けの類では……?)
心の中で頭を抱えつつも、
ここで断れば、相手の心を折ってしまうのもわかる。
ルミエは、静かに息を吸った。
「……では。これから、少しずつお互いを知っていきましょう。
すぐにそう言い切っていいのかはわかりませんが――
私も、あなたとたくさんお話しできれば嬉しいです。
そのときに、“友達”と呼び合えたなら……素敵ですね」
「……っ」
令嬢は、両手で口元を覆った。
「い、いま、確かに……“嬉しい”と……」
「言いましたね……」
付き添いの侍女が、そっと目元を拭う。
(ああ、やっぱりこうなるんだよなぁ……)
結局、その茶会のあと――
相手の一家は屋敷を辞する前に何度も頭を下げ、
「本日は一生の宝となるひとときを……」
とまで言い残して帰っていった。
(……どこからどこまでが「普通」なんだろう……)
考えれば考えるほど、答えは遠ざかるだけだった。
※※※
その日の夜。
フランソワが、珍しく一人でルミエの部屋を訪れた。
「少し、いいかな?」
「もちろんです。お父さま」
机の上には、今日の書き取りの練習が並んでいる。
「浄界石」「光性石」「ヴァロワ」
整った文字が、規則正しく並んでいた。
フランソワはそれを見て、微笑む。
「……字も、すっかり大人びてきたね」
「先生のおかげです」
「先生だけではないさ。君が真面目に取り組んでいるからだよ」
その言葉に、ルミエは嬉しそうに微笑んだ。
本当はあいまいな笑みを浮かべたい場面だったが、
『父から褒められた娘として』はにかんだ完璧な笑みが浮かぶ。
(真面目にやっているように“見える”だけなんだけどな……)
椅子を勧めると、父は向かい合うように腰を下ろす。
「……最近、少し、疲れているように見える」
図星だったが、ルミエは「そんなことは」とは言わなかった。
父がそう感じるということは、
こちらの取り繕いでは隠しきれていないのだろう。
「……正直に言ってしまえば、皆様の期待に応えられているか、少し不安です」
「やはり、そうか」
本当は、ただ人疲れして、友達もできなくて、距離ばかりを感じて、
「しばらく引きこもっていたい」というのが本音だ。
けれど口から出てくる言葉は、どうしても
“皆の期待に応えたい”という健気なものに整えられてしまう。
フランソワは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「君はただ、そこにいるだけで周囲を動かしてしまう。
望んだわけでも、選んだわけでもないのにね」
その声音には、責めも哀れみもなかった。
ただ、事実を認める静かな重さがあるだけだ。
「触礼の件もある。
教会や、他家の者は“特別な子”と騒ぎ立てるが……
私は、君を――」
言いかけて、言葉を変えた。
「君を、“私の娘”として見ていたい。
できる限りは、そうでありたいと思っているよ」
「……お父さま」
「だが、世界はそれを許してくれないこともある。
君は、これからもきっと、多くの人から見られ、求められ、持ち上げられるだろう」
それは、慰めではない。
予言に近いものだった。
ルミエもそれはわかっていた。
これまでの六年間で嫌というほど理解した。
「皆さまが私を愛して、大切に想ってくれるのならとても嬉しいですけど、私はこのままでよいのでしょうか?」
フランソワ相手にくらい弱みを見せても良いという”魅了”の判断もあったのか、
そこに少しだけ本音を混ぜた問いを投げかけられた。
「……そうだね」
フランソワは、否定しない。
「でも、君がこの世界にいてくれるのが、私は嬉しい。
君がいてくれることで救われる人間も、きっと多い」
「救うつもりなんて、ないですよ?」
「知っているよ」
父は、少し笑った。
「君が気丈に振る舞っていることも、必死に今の立場に足る者としてあろうとしてくれていることも、
私は全部、誇りに思っている」
――そんなつもりないんだけどな。
内心で小さく肩をすくめながらも、その言葉は、不思議と胸に温かく残った。
「……ルミエ」
「はい」
「世界は広い。
今は、君を“特別なもの”としてしか見ない人ばかりかもしれない。
でも――どこかにはきっと、君を“普通の子”として見てくれる誰かもいるはずだ」
「……そんな人、いるでしょうか」
「いると、私は信じている。
人は皆違うし、君が見ていない場所にも、たくさんの子どもたちがいる。
君と同じように、どこかで息苦しさを抱いている子だって、きっとね」
その言葉は、静かに部屋に落ちた。
(……私を普通の子だなんて、思う人が?)
想像してみようとして、うまくいかなかった。
だが、不思議と――完全には否定できなかった。
「来年には、君も初等教育の場に出る話が出ている。
すべてを決めたわけではないが、
同年代の子どもたちと接する機会は、今より確実に増えるだろう」
「……学校、ですか」
言葉の響きだけで、胸の中にざわざわとした感情が湧く。
期待、恐怖、不安、好奇心。
どれも否定できない。
「私としては、閉じた箱の中に君をずっと隠しておきたい気持ちもある。
だが同時に、君には君の世界を持ってほしいとも思うんだ」
フランソワは立ち上がり、ルミエの頭をそっと撫でた。
「……無理に笑わなくてもいい。
嫌な時は、嫌だと私にだけは見せていい。
それでも――君が、自分で“生きる”と選んでくれるなら」
「……生きる、ですか」
「そうだよ」
それは、転落死した前世を持つルミエにとって、
妙に重く響く言葉だった。
※※※
その夜、ルミエは一人でバルコニーに出た。
光性石の灯りが、庭を柔らかく照らしている。
空には、前世でも見たことのある星と月の微かな光が、不思議と安心感をもたらしていた。
(……静かに暮らしたい、って気持ちは、やっぱり消えないな)
誰にも見られず、誰にも求められず、
ただ一人で本を読んで、ぼんやりしていたい。
そんな願いは、きっとこれからも変わらない。
(でも……)
柵に手を置き、夜風を受けながら、ゆっくりと息を吸う。
(この世界で生きるって、あの時、自分で選んだんだよなぁ)
悪魔との契約。
あの、どうしようもなく酔った夜。
『誰からも愛される、望まれる存在に』という願い。
実際は、その歪んだ叶い方にずっと振り回されているわけだが――
一時の羨望からくる、気の迷いのような願いだったとしても。
それでもあれは、自分の本心の一部だったはずだ。
(ここで全部投げ出すのも、なんか悔しい)
今さらだが、そんな感情が芽生えつつあった。
「静かに暮らしたい」と「投げ出したくない」が、
胸の中で妙な綱引きをしている。
(……この世界のこと、まだ全然知らないし)
市場も、教会も、商会の仕事も。
すべてはまだ「入口」だけを見たにすぎない。
(もしかしたら……お父さまが言うみたいに、
私を“普通”に扱ってくれる変わった人も、どこかにいるのかも)
自分と同じように、
人の視線や期待に押されて苦しんでいる誰か。
あるいは――
自分にまったく興味を示さない、静かな目をした誰か。
(……そんな人に会えたら、楽だろうなぁ)
だが、探すにしても、まずは生きていなければ話にならない。
学校に行くにせよ、家にいるにせよ、日々は続く。
(静かな人生は、どうやら手に入らなさそうだけど……
それでも、生きながら何かを見つけるくらいは、してみてもいいのかも)
そう思えた瞬間――
胸の奥で、何かが少しだけ軽くなった気がした。
「……ねえさま」
小さな声がした。
振り返ると、寝間着姿のレオンが、
目をこすりながら扉のところに立っていた。
「レオン? どうしたの。眠れないの?」
「ねえさま、いないと、さみしい……」
よちよちと近寄ってきて、
ルミエのスカートの端をつまむ。
その様子が可愛くて、ルミエはしゃがみ込み、
レオンの頭をそっと撫でた。
「もう。仕方ないわね。一緒に少しだけ、星を見ましょうか」
「うん……!」
レオンが小さな手を伸ばし、
ルミエの指をぎゅっと握る。
その光景を、廊下の影から覗いていた侍女が
そっと口元を押さえている気配がしたが――
(見なかったことにしよう)
あえて気付かないふりをした。
「ねえさま」
「なぁに?」
「ぼく、ねえさまのこと、いちばんすき」
(……うん、知ってる)
「ありがとう。私も、レオンのことが大好きよ」
そう答えると、レオンは安心したように目を細めた。
光性石の灯りが、二人の影を長く伸ばす。
夜空の星々は、相変わらず遠くて、静かだった。
(……静けさのない人生、か)
まだ六歳の少女にとって、それはあまりに大きな言葉だ。
それでも今なら、ほんの少しだけ――
(まぁ、悪くない時も……あるのかもしれない)
そう思ってみてもいいかもしれない、と
ルミエは、誰にも聞こえない声で小さく笑った。
幼年期は、静かに幕を閉じようとしている。
この先、自分を“普通”に見る誰かに出会うのかどうかなど、
まだ何も知らないまま。
――世界は広い。
その事実だけが、今のルミエの手の中にある唯一の希望だった。




