『問い合わせの形』
クラリス家の屋敷にあるエレーヌの書斎には、朝からいくつもの手紙が運び込まれていた。
白い封蝋、薄青の封蝋、家紋を押した厚手の封書。
どれも形式は整っており紙質も悪くない。差出人の名を見れば、王都の社交界で軽く扱ってよい家が一つもないことも分かる。
エレーヌ・クラリスは、それらを一通ずつ開封していた。
手紙の文面は、どれも丁寧だった。
先日の夜会についての礼。
クラリス家の配慮への称賛。
若い者同士の交流が実りあるものだったという感想。
そして……その中に必ずと言っていいほど、ルミエ・ヴァロワの名があった。
「ルミエ様……」
ヴァロワ嬢のお姿には、たいへん感銘を受けました。
若い方々にとって、あのような方と同じ場に立つことは、何よりよい学びとなりましょう。
また改めて、落ち着いた形でご挨拶の機会をいただければ幸いです。
そんな柔らかい文章がどれにも書いてある。
けれど、同じ方向を向いている。
エレーヌは、読み終えた手紙を机の上へ置いた。すでに読んだものと未読のものを分けて並べる。その手つきに乱れはない。
手紙は、要望ではなかった。
少なくとも、表面上は。
誰も、ルミエ・ヴァロワを呼べとは書いていない。誰も、自家の子息や令嬢と引き合わせろとは言っていない。誰も、クラリス家に場を用意せよと命じてはいない。
ただ、言外に、確かにそこにある。
それを読める者が読む。
それが貴族の社交だった。
「……なるほど」
エレーヌは小さく呟いた。
先日の夜会で、ルミエは確かに目立った。彼女自身が何か大きな演説をしたわけではない。誰かを打ち負かしたわけでもない。だが、そこにいるだけで視線が集まり、言葉を交わせば相手の表情が変わった。
そういう少女を、社交界が放っておくはずがない。
まして彼女は、ヴァロワ家の娘だった。
ヴァロワ家は貴族ではない。けれど、貴族が気軽に手を伸ばせる家でもない。この国の魔石流通の要であり、王家も大貴族も、工房も商会も、その流れを前提に動いている。
不可侵。
中立。
便利な言葉ではある。
だが、その不可侵の家にも娘はいる。しかも、王立ヴァルテール学園の相談室という形で、若い貴族や高位の子女たちと接点を持ち始めている。
ならば、取り入ろうとする者が出るのは当然だった。
エレーヌは、次の手紙を開いた。
文面は、さらに婉曲だった。
若い方々の礼法教育の一環として、音楽と舞踏を交えた交流の場を設けることも有益かと存じます。
先日のような談笑を中心とした会も実に有意義でしたが、より形式の整った場であれば、互いの家格や礼節を学ぶ機会にもなりましょう。
クラリス家のご見識であれば、きっと節度ある良い会となることと存じます。
エレーヌは、しばらくその一文を見つめた。
舞踏。
やはり、そこへ行く。
談笑を中心とした夜会では、ルミエと話すには順番がいる。周囲の目もある。会話の輪に入る形になれば、誰か一人が長く独占することは難しい。あまりに長く話せば不作法になり、かといって短ければ、特別な接点を得たとは言いがたい。
しかし、舞踏は違う。
舞踏とは、衆目の中に作られる、短い密室だった。
誰にも隠れてはいない。
むしろ、誰からも見られている。
だが、曲が始まり、手を取り、互いの歩幅を合わせている間、周囲は割り込めない。会話の内容までは届かない。踊りが終わるまでは、その二人が一つの形として見られる。
それは、誰にも咎められない独占だった。
若い令息がルミエ・ヴァロワと踊れば、その事実は残る。
若い令嬢が彼女と言葉を交わし、並んで見られれば、周囲はその関係を記憶する。
ヴァロワ家に直接踏み込むことはできなくても、ルミエとの友誼という形ならば、手を伸ばせると考える家はあるだろう。
もちろん、ルミエと踊ったからといって、ヴァロワ家の流通が優遇されるわけではない。
エレーヌに今行動を求めている家々はそこまで愚かではない。
だが、恩恵がまったくないとも言えなかった。
ヴァロワ家に悪印象を持たれないこと。今後、正式な挨拶の糸口ができること。自家の子息や令嬢が、ルミエ・ヴァロワと並んで見られたという記憶を社交界に残せること。
それだけでも十分に価値はある。
人は、利益が大きい時だけ動くのではない。
小さな可能性が見えた時にも、丁寧な言葉を選んで動き始める。
エレーヌは手紙を置き、机の端に用意していた白紙を引き寄せた。
断ることはできる。
形式上は、すべて問い合わせでしかない。こちらに開催義務はなく、ルミエにも応じる義務はない。クラリス家が慎重な返答をして、時期尚早として流すことも可能だった。
けれど、そうすればどうなるか。
……別の家が、より雑な場を用意するかもしれない。
「……」
白紙の端を押さえる指に、ほんの少し力が入った。
舞踏の名を借りて、ルミエを中心に置くだけの会が作られるかもしれない。疲労への配慮も、学園での仕事との調整も、ヴァロワ家への確認も曖昧なまま、彼女を華やかな場へ引き出そうとする者が現れるかもしれない。
それは避けたい。
避けなければならない。
少なくとも、自分が見ている前で許してよいことではなかった。
エレーヌは、ルミエが人の多い場を得意としていないことを知っている。
夜会の後、彼女は疲れていた。表情は穏やかで、言葉も乱れず、誰に対しても礼を失わなかった。
それでも、あの方は疲れていた。ルミエ自身がどこまで自覚しているかはともかく、エレーヌには分かった。
それでも、ルミエを見たいという声は消えない。
ならば、見られる場を選ばなければならない。
自分が、エレーヌ・クラリスが作らなければならない。
エレーヌは、羽根ペンを取った。
まず、規模。
大きすぎてはいけない。招待する家を広げれば、収拾がつかなくなる。だが小さすぎれば、今度は閉じた派閥の会に見える。クラリス家がルミエを囲い込んだと受け取られるのは避けるべきだった。
次に、出席者。
若い世代を中心にする。家格だけで選びすぎてはいけない。学園関係者、教育に関わる家、王都の主要家、そして可能であれば留学生側にも一定の席を用意する。魔石の流通や加工の経路に鑑みるに、周辺諸国の子女を完全に外すのは得策ではない。
次に、舞踏の扱い。
ルミエに過度な曲数を求めてはいけない。練習を始めたと先日、ルミエから手紙が来たばかりだった。それを考えれば、正式な舞踏会といっても彼女の負担は限定する必要がある。
最初から多くの相手と踊らせるのは論外だった。
最初の一曲。
エレーヌの手が、そこで一度止まった。
舞踏会で誰と最初に踊るかには意味がある。
ルミエは貴族ではない。だが、ただの商家の娘でもない。ヴァロワ家の娘であり、クラリス家が学園に招いた存在であり、夜会で注目を集めた少女でもある。
最初の相手を軽く扱えば、余計な意味がつく。
高位すぎれば、別の意味がつく。
低すぎても、また別の意味がつく。
王族が出席するなら、なおさらだった。
エレーヌは、第二王子リュシアンの名を紙の端に小さく記したが、すぐに、線を引いて消す。
まだ早い。
王子が出席するかどうかも決まっていない。まして、ルミエと踊るかどうかなど、今ここで書くべきことではない。だが、考慮しないわけにもいかなかった。
ルミエ・ヴァロワと第二王子が踊る。
その光景が生まれた時、社交界がどれほどの意味を勝手に読み込むか。想像するのは難しくない。
だからこそ、扱いは慎重でなければならない。
エレーヌは、次の項目を書いた。
ヴァロワ家への正式確認。
これは絶対に必要だった。ルミエ本人の了承だけで進めてよい話ではない。ヴァロワ家の名を社交の場に置く以上、前回と同様に家としての確認を避けてはならない。
ただし、確認の仕方にも順序がある。
いきなり舞踏会の招待状を送るのでは遅い。先に、可能性として相談する。
形式、規模、出席者、負担軽減策、護衛や付き添いの扱い、休憩室の確保。すべてを示した上で、ヴァロワ家に判断の余地を渡す。
押しつけてはいけない。
だが、断りやすくしすぎてもいけない。
エレーヌは、そのあたりの加減を知っていた。
それは、悪意ではない。
少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
正しい形を作ること。無理をさせないこと。周囲の欲を、礼節の中に押し込めること。ルミエに向かう視線を、少しでも安全なものにすること。
そう考えれば、これは必要な根回しだった。
ただ、心のどこかで、別の声もある。
またルミエに会いたい。
自分が整えた場で、彼女が静かに立つ姿を見たい。
誰かの視線を受けながら、それでも誰にも所有されないように微笑む彼女を、もう一度見たい。
エレーヌは、ペン先をインク壺の縁で静かに整えた。
その声を、表に出してはいけない。
出す必要もない。
私情は、正当な手続きの内側にそっと置けばよい。
それが社交であり、クラリス家のやり方だった。
「返事を、いくつか書きます」
控えていた侍女が、静かに姿勢を正した。
「はい、お嬢様」
「まず、夜会についてのお礼には丁重に返します。舞踏を交えた交流については、教育的意義を認めつつ、まだ未定であると。こちらで慎重に検討する、と」
「承知いたしました」
「それから、学園側へ確認を。ルミエ様の舞踏練習の進捗、相談室業務との兼ね合い、疲労への配慮。礼法教師の見立ても必要です」
「はい」
「ルミエ様宛ての手紙は、正式な依頼ではなく、事前の共有として整え、ルミエ様に無理をさせるつもりはないと、必ず明記してください」
そこまで言って、エレーヌは少しだけ息を吐いた。
無理をさせるつもりはない。
それは本心だった。
けれど、無理をさせないまま、ルミエを社交の場へ立たせることが本当に可能なのか。
その問いには、すぐに答えられなかった。
エレーヌは、机の上の手紙をもう一度見る。
丁寧な言葉の束。
問い合わせという形をした欲。
そのすべてが、ルミエ・ヴァロワという少女へ向いている。
放置すれば、もっと雑な手が伸びる。無遠慮な動きが始まる。
ならば、こちらで先んじるしかない。
そう決めると、迷いは静かに形を変えた。
エレーヌは、新しい便箋を取り出した。
ルミエへ宛てるためのものだった。
親しすぎず、遠すぎず、重くなりすぎず、けれど何も隠さないように。そう考えながら、彼女は最初の一文を書き始めた。
その手紙がルミエのもとへ届いたのは、数日後の夕方だった。
相談室での業務を終え、舞踏の練習で少し重くなった足を抱えながら職員寮へ戻ると、アニエスが封書を持って待っていた。
封蝋には、クラリス家の印がある。
「エレーヌ様からです」
「……そう」
ルミエは椅子に腰を下ろし、封書を受け取った。
嫌な予感がする。
もちろん、嫌というほどではない。むしろ、定例の時候の挨拶はいつものことだ。
エレーヌの手紙は、いつも丁寧で、読むだけなら美しい。だが、美しい手紙ほど、気づけば道が敷かれていることがある。先日の夜会がまさにそうだった。
ルミエは封を切り、便箋を開いた。
文面は、予想通り丁寧だった。
先日の夜会への礼から始まり、学園での様子を気遣う言葉が続く。舞踏練習についても、無理をしていないか、礼法教師やアニエスと相談しながら進めてほしいと書かれている。
そこまでは、よかった。
問題は、その先だった。
『まだ正式な依頼ではありません。
ただ、先日の夜会を経て、若い方々の交流の場として、舞踏を交えた会を望む声がいくつか届いております。
ルミエ様に無理をお願いするつもりはありません。
けれど、もし今後そのような場を整えることになった場合には、形式、規模、出席者、休息の場、曲数などを慎重に定めた上で、改めてご相談いたします』
ルミエは、しばらくその文を見つめた。
正式な依頼ではない。
改めて相談する。
無理をお願いするつもりはない。
どれも丁寧で、配慮の行き届いた正しい言葉だった。
だが、ルミエにも分かる。
これは、かなり進んでいる話だ。
「……舞踏の練習は」
ルミエは便箋から顔を上げた。
「続けた方がよさそうね」
声は、思ったより落ち着いていた。
アニエスは、ルミエの表情を確認するように見た。そこには大きな動揺も、不満もない。少し困ったような、けれど状況を受け止める令嬢らしい静けさがある。
アニエスは渡された手紙に目を通して頷く。
「そのようですね」
ただ、と続けられる言葉。
「エレーヌ様はかなり条件を整えるおつもりのようです。こちらからも、休息時間や曲数、練習の進度について、きちんと返しておいた方がよろしいかと」
「そうね」
ルミエは自然に頷いた。
「書き終わったら、手紙を見てくれる? 私一人では、きっと見落としがあるでしょうから。アニエスがいてくれると、助かるわ」
その言葉は、弱音のようでいて、信頼の形をしていた。
アニエスは一瞬だけ目を伏せる。
この方は、時々こうして当然のように人を頼る。しかも、その頼り方が、断る理由を静かに奪ってくる。
分かっている。
それでも、支える以外の選択肢が薄れていく。
「承知いたしました」
アニエスは静かに礼をした。
「こちらで確認事項をまとめます」
「ありがとう」
ルミエは微笑んだ。
内心では、足を踏まないだけで精一杯なのに、と少し思っていた。
だが、その困惑は表情には出ない。アニエスの前にいるルミエは、少し疲れていても、必要な準備を受け入れる主人の顔をしている。
ルミエは、もう一度エレーヌの手紙へ目を落とした。
舞踏を交えた会。
若い方々の交流。
形式、規模、出席者、休息の場、曲数。
丁寧に並んだ言葉の向こうに、まだ見えない夜の形がある。
たぶん、もう誰かがその夜を望んでいる。
誰かが、自分と踊ることを考えている。
そう思うと、少し不思議だった。
ルミエにとって舞踏は、まだ足を踏まないための練習でしかない。何よりも面倒で、踊る意味もよく分からない。
右足を出して、寄せて、回る。相手の足元を見すぎない。肩や腕の動きを見る。姿勢を崩さない。
それだけでも、十分に忙しい。
けれど、他の人々にとっては、たぶんそれだけではない。
誰と踊るか。
どの順に踊るか。
どれだけ話すか。
その一つひとつに意味がつく。
ルミエは、便箋を静かに畳んだ。
(面倒だ……)
心の中では、正直にそう思った。
けれど、カルヴァーニアの石があり、ヴァロワ家の道があり、クラリス家の手紙があり、学園での練習がある。
自分一人が面倒だと思っても、もう流れは少しずつできているのだろう。
ルミエは小さく息を吐いた。
「次の練習では」
彼女はアニエスへ向き直る。
「足元を見すぎないように、気をつけようかしら」
アニエスは、ほんの少しだけ目を瞬いた。
そして、静かに微笑んだ。
「はい。まずはそこからでよろしいかと」
窓の外では、夕方の光が薄くなり始めていた。
まだ舞踏会は決まっていない。
招待状も出ていない。
誰が踊るのかも、どの曲が流れるのかも、何も決まってはいない。
けれど、どこかで誰かが丁寧な言葉を選び、誰かが行間を読み、誰かが条件を整え始めている。
夜はまだ遠い。
それでも、その形はすでに、静かに作られ始めていた。




