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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
「世界の光と呼ばれた少女の、とても騒がしいはじまり」
4/7

『――光は街へ、影は家へ』

五歳。

大人から見れば、まだ幼い。

けれど、この世界で“ルミエ”という名を持つ少女にとっては、

すでに十分すぎるほど「人を惑わせる存在」になっていた。


※※※


その日、ルミエは産まれて初めて屋敷の外へ出ることになっていた。

本来ならば、フランソワはもっと早くに外の空気に触れさせるつもりだった。

だが、理由がある。

母セシルの容態が、この一年ほどずっと不安定だったからだ。

美しくも愛情深い、フランソワを公私共に支える才女。しかしその代償か、はたまた別の何かか、セシルはもともと体が強くなかった。

ルミエにも惜しみない愛を注いでいたが、5年前にルミエを産み、そして今、また臨月を迎えている。

いつ陣痛が始まってもおかしくない。

そのうえ最近では発熱と倦怠が続き、フランソワは外出どころではなかった。

「……本当に、今日は大丈夫なのか?」

寝台の傍らで、フランソワは何度目か分からない問いを口にした。

訪問していた医師は淡々と頷く。

「本日は体温も安定していますし、差し迫った危険はないでしょう。

 短時間なら、旦那様が屋敷を離れても問題ないかと」

その言葉を聞いても、フランソワの眉間の皺は消えない。

「ですが……」

「ふふ……あなた」

枕元で、セシルがかすかに笑った。

力ない笑みなのに、不思議と温かい。

「ルミエの、初めての外出でしょう?

“今日はやめよう”を、もう何度も繰り返してきたじゃない」

図星を刺され、フランソワは目を伏せる。

もし外出中にセシルに何かあれば。自身もそうだがルミエもきっと心に傷を負うだろうから。

「……あの子が、外を“怖い場所”だと思ってしまわないか、心配でね」

「だからこそ、行かせてあげて。

 外には怖いことばかりじゃない、って。

 あなたが隣にいてあげれば、きっと大丈夫よ」

セシルは、そっと夫の手を握った。

その指先には、まだ微かな力が残っている。

「今日はね、朝から……不思議と楽なの。

 こういう日のために、神様が少しだけ融通してくれたのかも」

「セシル……」

「お願い。ルミエを、外の世界へ連れていってあげて。私には出来ないから。

 私は……ここで待っているわ」

そう言って、セシルは微笑んだ。

その横顔は、どこか夢を見るように穏やかだった。

フランソワはしばらく黙り込んで――

やがて、深く息を吐いた。

「……わかった。必ず、日が傾く前には戻る。

 無理は、絶対にするなよ」

「ええ。……いってらっしゃい」


※※※


「……眩しい」

玄関を出た瞬間、ルミエは思わず目を細めた。

太陽ではない。

長く閉じた世界から急に開けた、街そのもののざわめきが眩しいのだ。

父フランソワと、その周囲を固める護衛や使用人たち。

その中心に、慎ましく立つ黒髪の少女。

それだけのはずなのに――

数歩、石畳を踏みしめただけで、通りの空気が変わった。

「……?」

最初に気づいたのは、露店の女主人だった。

野菜を並べていた手が止まり、思わず顔を上げる。

その視線がルミエに触れる。

次の瞬間、彼女の目が見開かれた。

「……まあ……」

ぽろり、と野菜を落とす。

それを拾おうとした隣の少年も、つられてルミエを見て……固まった。

「な、なに、あの……」

黒い絹糸のような長髪。

子どもらしい丸みを帯びた頬。

だが、その輪郭には“将来の形”を予感させる整い方がある。

まだ『美貌』と呼ぶには幼すぎる。

けれど、誰が見ても理解する。

――この子が成長した時の姿は、想像するのが怖い。

そういう、完成の予感。

そして何より、紫の瞳。

普通の人間にはほとんど存在しない、宝石を溶かし込んだような澄んだ色。

視線が合ったような気がしただけで、心臓が跳ね上がる。

「……目、紫だったか?」

荷車を押していた男が、息を呑む。

その隣で、老職人が杖を握りしめた。

「ヴァロワの娘御か……噂は聞いとるが……こりゃあ……」

言葉は最後まで続かない。

喉の奥が震え、声にならない。

ルミエ本人はというと――

(うわ……視線、痛っ……)

内心でげんなりしながら、外面は完璧な笑顔を作る。厳密にいえば自動的に表情筋が動く。

口元を柔らかく持ち上げ、少しだけ首を傾げる。

ほんのそれだけの動きで、周囲の呼吸が一瞬止まった。

「かわ……」

「……っ」

通りの片隅で洗濯物を干していた若い母親は、

思わず胸に手を当てた。

(やめて……今の、完全に無意識……)

ルミエは泣きたい気持ちで笑っている。


※※※


「ルミエ、疲れていないか?」

隣で歩くフランソワが、そっと問いかける。

「はい。わたしは大丈夫です、お父さま」

涼やかな声でそう答える。

声の高さも抑揚も、相手の耳に一番心地よく届くように“調整された”ような響きになる。

もちろん、本人の意図とはまったく関係ない。

(なんで普通にしゃべるだけで、道行くおじさんが目を潤ませてるの……?)

「……聞いたか? あの発音、声色……」

「まるで王都の宮廷で教育されたみたいだ……」

そんな囁きが飛ぶ。

道端に座っていた老人が、ぼそりと呟いた。

「……天の御子かと思ったわい……」

(……王都ってあるんだ。王様もいるのかなぁ)

一方ルミエは考えることを一時放棄して、ぼんやりと玉座に座っている王をイメージして現実逃避を開始していた。


その後も街行く人々の反応はそれぞれだった。

感情を表に出す者もいれば、沈黙する者もいる。

商会の男は、額に汗を浮かべて駆け寄ってきた。

「ルミエ様でいらっしゃいますね……!

 いや、なんと……なんとお美しい……!」

フランソワの腕を掴みそうになって、慌てて引っ込める。

代わりに、両手を胸の前で組んだ。

「旦那様……ほんの少しだけ、娘君を……お顔を……」

フランソワは苦笑した。

「申し訳ないが、うちの子は見世物ではないのでね」

「そ、それは……! もちろん重々承知の上で……!」

男は言い募ろうとして、ふとルミエと目が合う。

一瞬、息をすっと飲んだ。

そして――何も言わなくなった。

いや、言えなくなった。

目を伏せ、ただ静かに頭を下げる。

「……なるほど。失礼をいたしました。

 ……あの、今日のこと、きっと一生忘れません」

(大袈裟では……?)

そう思うが、口には出さないし出せない。

一方、別の男は違う反応を見せた。

年季の入った服の仕立屋で、目だけが鋭く光っている。

「……あの肩の線を見ろ。まだ子どもだってのに、あれは将来とんでもないことになるぞ」

「衣装でごまかす必要がない体型ですな……」

隣の弟子が感嘆の息を漏らす。

「布を着せるのが勿体ないくらいですよ、親方」

「ばかもん。ああいう存在こそ、布でさらに引き立ててやらにゃあ。

 ……せめて一度、採寸だけでも……」

職人の目は、感傷ではなく純粋な“造形への敬意”で満ちていた。

(そっちはそっちでなんか怖い)

ルミエは内心で距離を取りつつ、表情は崩さない。



「わあ! きれーい!!」

不意に、高い声が飛んだ。

街角から、小さな女の子が駆けてくる。

どう見てもまだ四歳かそこらだ。

護衛たちが一瞬身構えるが、フランソワが手を上げて制した。

子どもは、そのままルミエの前まで走り寄り――

紫の瞳を、真正面から覗き込んだ。

一拍。

二拍。

そして――目に涙を溜め、その場でぽろぽろと泣き出した。

「えっ……な、なに、どうしたの」

慌てる母親が娘を抱きしめる。

「やめなさいって言ったでしょう! ごめんなさいね、ヴァロワ様……!」

「い、いえ……あの……」

ルミエがどう反応すればいいのか迷っていると、

ぐすぐす泣きながら、少女が言った。

「……きれいで……むねがぎゅーって……なって……

 いたくないけど、いたいの……」

母親が一瞬、言葉を失い――

次の瞬間、深々と頭を下げた。

「……本当に、申し訳ありません。そして……ありがとうございます……」

(感謝される要素ある?)

ルミエの困惑は限界に近かった。

フランソワは静かにその様子を見つめ、

娘の小さな手をそっと握る。

(……この子は、本当に。

 産まれただけで、誰かの人生に影響を与えてしまうのだな)

誇らしくもあり、恐ろしくもあった。


※※※


そんな具合に、この初外出はルミエの『街見学』というより人々のルミエ鑑賞会と化していた。

ルミエにとっては、ほとんど針の筵に近い。

「ルミエ、無理はしていないね?」

「ええ。わたしは平気です」

もちろん、実際にはまったく平気ではない。

(しんどい。帰りたい。見ないでほしい)

心の中でいくら呟いても、

唇から零れるのは完璧な淑女の言葉だけだ。

むしろ、周囲が疲れていた。

あまりの尊さに感極まり、

道端で祈り始める老婆。

「ああ、どうかあのお方の行く末に祝福を……」

思わず膝をつきかけ、隣の男に支えられる青年。

黙って頭を垂れ、胸の前で握った拳を震わせている者もいれば、

一歩引いて、ただ静かに見守る者もいる。

「……なるほど。噂以上ですね」

「ええ。少し、怖いくらいに」

そんなささやきが、背後から聞こえた。

ルミエにとっては、すべてが「ただの負荷」だ。

(……これ、外出のたびに続くの? やだなぁ……)

それでも、足を止めることはしない。

父の隣で、毅然と前を向き歩幅を揃えて歩き続ける。

フランソワはそんな娘の横顔を見て、

胸の奥で、そっと呟いた。

(……すまないな、ルミエ。君は、ただ子どもでいていいはずなのに)


予定していた用事を、ようやく一通り終えた頃には、

太陽は傾きかけていた。

「少し、長くなりすぎたか……。すぐ戻ろう」

フランソワがそう言った矢先――

「旦那様!!」

人混みをかき分けて、一人の使用人が駆け寄ってきた。

顔色が、明らかにおかしい。

フランソワは一瞬で察した。

「……セシルか」

「は、はい……! 産気づかれたあと……急変なされた、と……!」

ルミエは、父の表情が変わる瞬間を見た。

胸の奥に、冷たいものがすとんと落ちる。

そのまま、馬車で屋敷へ戻った。


※※※


屋敷に戻った時、

母セシルはすでに、微かな呼吸しかしていなかった。

枕元には乳母と医師。

その腕の中で、小さな泣き声が聞こえる。

産まれたばかりの赤子――ルミエの弟。

「……坊や……レオン……」

セシルは震える指で、赤子の頬をなぞった。

それから、ゆっくりと視線を動かして、ルミエを探す。

紫の瞳と、母の瞳が重なった。

「……ルミエ……」

かすれた声。

けれど、その呼びかけだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。

「あなたは……世界の光……

 そして……この子も……きっと……

 二人で……どうか……」

言葉はそこで途切れた。

ルミエは、無意識に母の手を握ろうとした。

小さな指が、細い手を掴む。

温度は、まだある。

けれど――もう握り返されることはない。

医師が静かに頭を下げた。

乳母が、声を殺して泣き崩れる。

母は、静かに息を引き取った。

ルミエは、涙が出なかった。

胸がひどく痛いのに、

前世の記憶が“死”という現象を淡々と理解させてしまうせいで、

感情がどこかでからまってしまう。

(……お母さま)

この世界で得た、初めての“無条件の愛”。

それを、あっさり奪われた、という事実だけがじんじんと響いた。


※※※


その夜。

乳母が赤子――レオンを抱いて、ルミエの部屋を訪れた。

「ルミエ様……弟君でございます。……とても、可愛らしい子で……」

腕の中の赤子は、母を知らぬまま産まれ、

紫の瞳をじっと見つめて、小さく笑った。

乳母が、また泣く。

今度は先ほどとは違う、少し柔らかい涙だった。

(……なにこれ……“尊い”って感情で泣いてる……?重い……でも、可愛い……)

ルミエはそっと、赤子の頬に指を添えた。

小さな温もりが、冷えた胸の奥にじんわりと染みていく。

前世にも弟はいた。

だが、彼が産まれた瞬間に何を思ったかまでは、もうぼんやりしている。

今、はっきりしているのは――

この小さな存在を守りたい、と素直に思えたこと。

「私にも抱かせてもらえるかね」

戸口から、フランソワの声がした。

「旦那様……ええ、もちろんでございます」

乳母からレオンを受け取る父の背中は、ひどく寂しげだった。

腕の中の命だけが、かろうじて彼を立たせているように見える。

ルミエは、何も言えなかった。

慰めの言葉も、励ましも、今はきっと余計だと分かるから。

フランソワはしばらくレオンを見つめてから、

そっとルミエの肩に手を置いた。

「……ルミエと、この子が……私の光だ。

 どうか……二人で、支え合って生きてくれ」

ルミエは、静かに頷いた。

頷く――それしかできなかった。


一人になった瞬間、ルミエはベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。

母を喪った。

セシルは、良い母だった。

過剰反応する周囲と違い、

穏やかに、静かに見てくれた。

前世では一度も味わった覚えのない、

『全身全霊の愛情』というものを注いでくれた人。

鏡台の前に立ち、自分の顔を覗き込む。

黒い髪。母とは違う。

紫の瞳。これも母とは違う。

それでもそこに、少しだけセシルの面影を探す。

(……こうしてみると、『私』、本当に可愛いんだな)

乾いた感想が、ぽろっと零れた。

(容姿をよくしたい、か。……まあ、願いどおりではあるんだよな)

あの悪魔に告げた願い。

契約の代償は、はた迷惑なほど完璧に果たされている。

目の前の現実は重い。

けれどその重さの中で、

そんな軽い驚きにすがりたくなる自分もいた。

(……静けさのない人生は……まだ始まったばかり、か)

窓の外の夜の闇は、いつになく遠く感じられた。

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