『――光は街へ、影は家へ』
五歳。
大人から見れば、まだ幼い。
けれど、この世界で“ルミエ”という名を持つ少女にとっては、
すでに十分すぎるほど「人を惑わせる存在」になっていた。
※※※
その日、ルミエは産まれて初めて屋敷の外へ出ることになっていた。
本来ならば、フランソワはもっと早くに外の空気に触れさせるつもりだった。
だが、理由がある。
母セシルの容態が、この一年ほどずっと不安定だったからだ。
美しくも愛情深い、フランソワを公私共に支える才女。しかしその代償か、はたまた別の何かか、セシルはもともと体が強くなかった。
ルミエにも惜しみない愛を注いでいたが、5年前にルミエを産み、そして今、また臨月を迎えている。
いつ陣痛が始まってもおかしくない。
そのうえ最近では発熱と倦怠が続き、フランソワは外出どころではなかった。
「……本当に、今日は大丈夫なのか?」
寝台の傍らで、フランソワは何度目か分からない問いを口にした。
訪問していた医師は淡々と頷く。
「本日は体温も安定していますし、差し迫った危険はないでしょう。
短時間なら、旦那様が屋敷を離れても問題ないかと」
その言葉を聞いても、フランソワの眉間の皺は消えない。
「ですが……」
「ふふ……あなた」
枕元で、セシルがかすかに笑った。
力ない笑みなのに、不思議と温かい。
「ルミエの、初めての外出でしょう?
“今日はやめよう”を、もう何度も繰り返してきたじゃない」
図星を刺され、フランソワは目を伏せる。
もし外出中にセシルに何かあれば。自身もそうだがルミエもきっと心に傷を負うだろうから。
「……あの子が、外を“怖い場所”だと思ってしまわないか、心配でね」
「だからこそ、行かせてあげて。
外には怖いことばかりじゃない、って。
あなたが隣にいてあげれば、きっと大丈夫よ」
セシルは、そっと夫の手を握った。
その指先には、まだ微かな力が残っている。
「今日はね、朝から……不思議と楽なの。
こういう日のために、神様が少しだけ融通してくれたのかも」
「セシル……」
「お願い。ルミエを、外の世界へ連れていってあげて。私には出来ないから。
私は……ここで待っているわ」
そう言って、セシルは微笑んだ。
その横顔は、どこか夢を見るように穏やかだった。
フランソワはしばらく黙り込んで――
やがて、深く息を吐いた。
「……わかった。必ず、日が傾く前には戻る。
無理は、絶対にするなよ」
「ええ。……いってらっしゃい」
※※※
「……眩しい」
玄関を出た瞬間、ルミエは思わず目を細めた。
太陽ではない。
長く閉じた世界から急に開けた、街そのもののざわめきが眩しいのだ。
父フランソワと、その周囲を固める護衛や使用人たち。
その中心に、慎ましく立つ黒髪の少女。
それだけのはずなのに――
数歩、石畳を踏みしめただけで、通りの空気が変わった。
「……?」
最初に気づいたのは、露店の女主人だった。
野菜を並べていた手が止まり、思わず顔を上げる。
その視線がルミエに触れる。
次の瞬間、彼女の目が見開かれた。
「……まあ……」
ぽろり、と野菜を落とす。
それを拾おうとした隣の少年も、つられてルミエを見て……固まった。
「な、なに、あの……」
黒い絹糸のような長髪。
子どもらしい丸みを帯びた頬。
だが、その輪郭には“将来の形”を予感させる整い方がある。
まだ『美貌』と呼ぶには幼すぎる。
けれど、誰が見ても理解する。
――この子が成長した時の姿は、想像するのが怖い。
そういう、完成の予感。
そして何より、紫の瞳。
普通の人間にはほとんど存在しない、宝石を溶かし込んだような澄んだ色。
視線が合ったような気がしただけで、心臓が跳ね上がる。
「……目、紫だったか?」
荷車を押していた男が、息を呑む。
その隣で、老職人が杖を握りしめた。
「ヴァロワの娘御か……噂は聞いとるが……こりゃあ……」
言葉は最後まで続かない。
喉の奥が震え、声にならない。
ルミエ本人はというと――
(うわ……視線、痛っ……)
内心でげんなりしながら、外面は完璧な笑顔を作る。厳密にいえば自動的に表情筋が動く。
口元を柔らかく持ち上げ、少しだけ首を傾げる。
ほんのそれだけの動きで、周囲の呼吸が一瞬止まった。
「かわ……」
「……っ」
通りの片隅で洗濯物を干していた若い母親は、
思わず胸に手を当てた。
(やめて……今の、完全に無意識……)
ルミエは泣きたい気持ちで笑っている。
※※※
「ルミエ、疲れていないか?」
隣で歩くフランソワが、そっと問いかける。
「はい。わたしは大丈夫です、お父さま」
涼やかな声でそう答える。
声の高さも抑揚も、相手の耳に一番心地よく届くように“調整された”ような響きになる。
もちろん、本人の意図とはまったく関係ない。
(なんで普通にしゃべるだけで、道行くおじさんが目を潤ませてるの……?)
「……聞いたか? あの発音、声色……」
「まるで王都の宮廷で教育されたみたいだ……」
そんな囁きが飛ぶ。
道端に座っていた老人が、ぼそりと呟いた。
「……天の御子かと思ったわい……」
(……王都ってあるんだ。王様もいるのかなぁ)
一方ルミエは考えることを一時放棄して、ぼんやりと玉座に座っている王をイメージして現実逃避を開始していた。
その後も街行く人々の反応はそれぞれだった。
感情を表に出す者もいれば、沈黙する者もいる。
商会の男は、額に汗を浮かべて駆け寄ってきた。
「ルミエ様でいらっしゃいますね……!
いや、なんと……なんとお美しい……!」
フランソワの腕を掴みそうになって、慌てて引っ込める。
代わりに、両手を胸の前で組んだ。
「旦那様……ほんの少しだけ、娘君を……お顔を……」
フランソワは苦笑した。
「申し訳ないが、うちの子は見世物ではないのでね」
「そ、それは……! もちろん重々承知の上で……!」
男は言い募ろうとして、ふとルミエと目が合う。
一瞬、息をすっと飲んだ。
そして――何も言わなくなった。
いや、言えなくなった。
目を伏せ、ただ静かに頭を下げる。
「……なるほど。失礼をいたしました。
……あの、今日のこと、きっと一生忘れません」
(大袈裟では……?)
そう思うが、口には出さないし出せない。
一方、別の男は違う反応を見せた。
年季の入った服の仕立屋で、目だけが鋭く光っている。
「……あの肩の線を見ろ。まだ子どもだってのに、あれは将来とんでもないことになるぞ」
「衣装でごまかす必要がない体型ですな……」
隣の弟子が感嘆の息を漏らす。
「布を着せるのが勿体ないくらいですよ、親方」
「ばかもん。ああいう存在こそ、布でさらに引き立ててやらにゃあ。
……せめて一度、採寸だけでも……」
職人の目は、感傷ではなく純粋な“造形への敬意”で満ちていた。
(そっちはそっちでなんか怖い)
ルミエは内心で距離を取りつつ、表情は崩さない。
「わあ! きれーい!!」
不意に、高い声が飛んだ。
街角から、小さな女の子が駆けてくる。
どう見てもまだ四歳かそこらだ。
護衛たちが一瞬身構えるが、フランソワが手を上げて制した。
子どもは、そのままルミエの前まで走り寄り――
紫の瞳を、真正面から覗き込んだ。
一拍。
二拍。
そして――目に涙を溜め、その場でぽろぽろと泣き出した。
「えっ……な、なに、どうしたの」
慌てる母親が娘を抱きしめる。
「やめなさいって言ったでしょう! ごめんなさいね、ヴァロワ様……!」
「い、いえ……あの……」
ルミエがどう反応すればいいのか迷っていると、
ぐすぐす泣きながら、少女が言った。
「……きれいで……むねがぎゅーって……なって……
いたくないけど、いたいの……」
母親が一瞬、言葉を失い――
次の瞬間、深々と頭を下げた。
「……本当に、申し訳ありません。そして……ありがとうございます……」
(感謝される要素ある?)
ルミエの困惑は限界に近かった。
フランソワは静かにその様子を見つめ、
娘の小さな手をそっと握る。
(……この子は、本当に。
産まれただけで、誰かの人生に影響を与えてしまうのだな)
誇らしくもあり、恐ろしくもあった。
※※※
そんな具合に、この初外出はルミエの『街見学』というより人々のルミエ鑑賞会と化していた。
ルミエにとっては、ほとんど針の筵に近い。
「ルミエ、無理はしていないね?」
「ええ。わたしは平気です」
もちろん、実際にはまったく平気ではない。
(しんどい。帰りたい。見ないでほしい)
心の中でいくら呟いても、
唇から零れるのは完璧な淑女の言葉だけだ。
むしろ、周囲が疲れていた。
あまりの尊さに感極まり、
道端で祈り始める老婆。
「ああ、どうかあのお方の行く末に祝福を……」
思わず膝をつきかけ、隣の男に支えられる青年。
黙って頭を垂れ、胸の前で握った拳を震わせている者もいれば、
一歩引いて、ただ静かに見守る者もいる。
「……なるほど。噂以上ですね」
「ええ。少し、怖いくらいに」
そんなささやきが、背後から聞こえた。
ルミエにとっては、すべてが「ただの負荷」だ。
(……これ、外出のたびに続くの? やだなぁ……)
それでも、足を止めることはしない。
父の隣で、毅然と前を向き歩幅を揃えて歩き続ける。
フランソワはそんな娘の横顔を見て、
胸の奥で、そっと呟いた。
(……すまないな、ルミエ。君は、ただ子どもでいていいはずなのに)
予定していた用事を、ようやく一通り終えた頃には、
太陽は傾きかけていた。
「少し、長くなりすぎたか……。すぐ戻ろう」
フランソワがそう言った矢先――
「旦那様!!」
人混みをかき分けて、一人の使用人が駆け寄ってきた。
顔色が、明らかにおかしい。
フランソワは一瞬で察した。
「……セシルか」
「は、はい……! 産気づかれたあと……急変なされた、と……!」
ルミエは、父の表情が変わる瞬間を見た。
胸の奥に、冷たいものがすとんと落ちる。
そのまま、馬車で屋敷へ戻った。
※※※
屋敷に戻った時、
母セシルはすでに、微かな呼吸しかしていなかった。
枕元には乳母と医師。
その腕の中で、小さな泣き声が聞こえる。
産まれたばかりの赤子――ルミエの弟。
「……坊や……レオン……」
セシルは震える指で、赤子の頬をなぞった。
それから、ゆっくりと視線を動かして、ルミエを探す。
紫の瞳と、母の瞳が重なった。
「……ルミエ……」
かすれた声。
けれど、その呼びかけだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。
「あなたは……世界の光……
そして……この子も……きっと……
二人で……どうか……」
言葉はそこで途切れた。
ルミエは、無意識に母の手を握ろうとした。
小さな指が、細い手を掴む。
温度は、まだある。
けれど――もう握り返されることはない。
医師が静かに頭を下げた。
乳母が、声を殺して泣き崩れる。
母は、静かに息を引き取った。
ルミエは、涙が出なかった。
胸がひどく痛いのに、
前世の記憶が“死”という現象を淡々と理解させてしまうせいで、
感情がどこかでからまってしまう。
(……お母さま)
この世界で得た、初めての“無条件の愛”。
それを、あっさり奪われた、という事実だけがじんじんと響いた。
※※※
その夜。
乳母が赤子――レオンを抱いて、ルミエの部屋を訪れた。
「ルミエ様……弟君でございます。……とても、可愛らしい子で……」
腕の中の赤子は、母を知らぬまま産まれ、
紫の瞳をじっと見つめて、小さく笑った。
乳母が、また泣く。
今度は先ほどとは違う、少し柔らかい涙だった。
(……なにこれ……“尊い”って感情で泣いてる……?重い……でも、可愛い……)
ルミエはそっと、赤子の頬に指を添えた。
小さな温もりが、冷えた胸の奥にじんわりと染みていく。
前世にも弟はいた。
だが、彼が産まれた瞬間に何を思ったかまでは、もうぼんやりしている。
今、はっきりしているのは――
この小さな存在を守りたい、と素直に思えたこと。
「私にも抱かせてもらえるかね」
戸口から、フランソワの声がした。
「旦那様……ええ、もちろんでございます」
乳母からレオンを受け取る父の背中は、ひどく寂しげだった。
腕の中の命だけが、かろうじて彼を立たせているように見える。
ルミエは、何も言えなかった。
慰めの言葉も、励ましも、今はきっと余計だと分かるから。
フランソワはしばらくレオンを見つめてから、
そっとルミエの肩に手を置いた。
「……ルミエと、この子が……私の光だ。
どうか……二人で、支え合って生きてくれ」
ルミエは、静かに頷いた。
頷く――それしかできなかった。
一人になった瞬間、ルミエはベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
母を喪った。
セシルは、良い母だった。
過剰反応する周囲と違い、
穏やかに、静かに見てくれた。
前世では一度も味わった覚えのない、
『全身全霊の愛情』というものを注いでくれた人。
鏡台の前に立ち、自分の顔を覗き込む。
黒い髪。母とは違う。
紫の瞳。これも母とは違う。
それでもそこに、少しだけセシルの面影を探す。
(……こうしてみると、『私』、本当に可愛いんだな)
乾いた感想が、ぽろっと零れた。
(容姿をよくしたい、か。……まあ、願いどおりではあるんだよな)
あの悪魔に告げた願い。
契約の代償は、はた迷惑なほど完璧に果たされている。
目の前の現実は重い。
けれどその重さの中で、
そんな軽い驚きにすがりたくなる自分もいた。
(……静けさのない人生は……まだ始まったばかり、か)
窓の外の夜の闇は、いつになく遠く感じられた。




