『判断を留保するという選択』
王都にある教会の本部――
大教会の奥まった場所に設けられた討議室は、いつもどおり重苦しい空気に満ちていた。
円卓を囲むのは、老いも若きも敬虔で、規律を重んじる聖職者たち。
彼らの議論は、合理的な解決や多数決を目的としたものではない。
教会として“正しい認識”と“正しい扱い”が定まるまで、時間を惜しまず言葉を積み重ねる――それが、この場の在り方だった。
本日の最初の議題も、結論が出ないまま次回へ持ち越された。
進行役が静かに咳払いをし、用紙を持ち替える。
「では、次の議題に移ります」
淡々とした声が、室内に響いた。
「5年前、教会が“認定”を行った、ルミエ・ヴァロワについて」
その名が出た瞬間、数名の聖職者がわずかに視線を動かした。
記憶に新しい名ではない。むしろ、話し合いをしては次に送り、また話をしては、次に送り。
それをひたすら繰り返してきた案件だ。
地方教会から提出された報告書が、順に読み上げられていく。
商談への同席。
地域学校での臨時講話。
市井における相談事の増加。
そして、人々が彼女の名を“判断の基準”として口にし始めているという事実。
「……なるほど」
一人の老司祭が、低く声を漏らした。
「民の間に、静かな影響が出始めていると見てよいだろうな」
「地方教会でも“調整役”として役立てているとか」
別の者が続ける。
「我らは世俗と相容れぬ部分も多い。
結果として摩擦を減らしているのであれば、実利はあると言えるが――」
そこで言葉が途切れた。
「無論、その言い方は、正確ではないな」
別の聖職者が、静かに指摘する。
「役に立つかどうかは、我らの定義には関係がない」
場が、再び静まる。
進行役が、確認するように言った。
「まず、整理しましょう。
ルミエ・ヴァロワは“聖女”に該当するか?」
即答だった。
「否」
「敬虔な信仰を示していない」
「奇跡の発現もない」
「神意を媒介した形跡も認められない」
異論は出なかった。
聖女ではない――この点は、全員が一致していた。
「では、“魔なる者”の可能性は?」
今度は、少しだけ間が空いた。
「……害意をもって人心を惑わせてはいない」
「結果として混乱や破壊をもたらしていない」
「何より、浄界石が反応していない」
浄界石――穢れを浄化する浄化装置にして、曰く魔性に対してのみ反応するという神聖な媒介。
5年前の“認定”においても、触れられたそれは沈黙を保っていた。
「よって、これも否だ」
誰かが、結論づける。
聖女でもない。
魔なる者でもない。
それ自体は、ただの分類にすぎない。
問題は、その先だった。
「……では、何が問題なのか」
誰ともなく、そう問いが落ちる。
しばらく沈黙が続いた後、最年長の司教が、ゆっくりと口を開いた。
「彼女が問題なのではない」
全員の視線が、そこに集まる。
「問題なのは、周囲の人々の在り方だ」
静かな声だった。
「彼女は、正しさを語っていない。答えを示したわけでもない。
教義を説いてもいない。
それでも人々は、判断を彼女に委ね始めている」
「……易きに流れている、ということか」
「そうだ。考えることを放棄しているわけではない。
だが、“考えなくても済む形”に慣れつつある」
誰も反論しなかった。
「信仰ではない」
司教は、はっきりと言った。
「だが、影響力はある」
進行役が、最終確認を取る。
「では、結論をまとめます」
用紙に視線を落とし、淡々と読み上げる。
「ルミエ・ヴァロワは、聖女に非ず。
同時に、魔なる存在にも該当しない」
一呼吸。
「ただし、彼女を中心とした風潮――
人々が判断や安心を委ね始めている現状については、警戒と注視が必要とする」
「今後も地方教会は動向を記録し、定期的に報告を行うこと。
処遇については、引き続き保留とともに、討議案件とする」
それは非難でも、警告でもなかった。
ただの、正式な手続きとしての結論だった。
討議室に、椅子の軋む音が響く。
誰かが、ぽつりと呟いた。
「……問題は、彼女が何者かではないのだな」
誰も否定しなかった。
この時点で、ルミエ・ヴァロワはまだ、何もしていない。
ただ、そこにいただけだ。
そう、穏やかに微笑みながら。
その日も、ルミエは学校での“お話”を終えた。
一度、授業もどきをしたのをきっかけに、生徒たちだけでなく、その話を聞いた保護者や教師たちからの評判も良く、今では定期的に招かれるようになっている。
訪れるたびに、色々な話をしてきた。
疲れを感じさせず、むしろ
『子供たちと話せて元気をもらえた』
そんな穏やかな顔で退室しようとするルミエ。
――だが、内心は違う。
(つ、疲れた……早く帰ろう……)
三つの教室を回り、廊下では生徒たちに声をかけられ、教師たちから歓迎され、授業では何度も質問を受けた。
疲弊要素のオンパレードだった。
可能であれば、机に突っ伏してしまいたいところだ。
しかし、この体でそんなことが出来るはずもない。
独りにならない限り、自由意思による行動はほとんど不可能なのだから。
「ルミエ先生!」
「はい、なんですか?」
内心はどうあれ、表面上はいつも通りだ。
“お話大歓迎”という笑顔を浮かべ、自然に応じる。
「あのね、お話、聞いてほしくて」
「はい、私でよければぜひ。どうしたの?」
「あのね、友だちと、ちょっと喧嘩しちゃって」
そう言って、子供は俯いた。
内容は、取るに足らないものだった。順番、言い方、ちょっとした勘違いとすれ違い。
ルミエは、すぐに答えを出さなかった。
ただ、膝を折って目線を合わせる。
「あなたは、どうしたかったの?」
「……嫌だった。でも、言えなかった」
「じゃあ、その気持ちは大事ですね」
胸の中の気持ち、それを握るように自らの胸に当てていた手をきゅっと握り、それだけを言って、少し考えるような時間を置く。
「すぐに仲直りしなくてもいいと思います。
でも、“嫌だった”って思ったことは、忘れなくていい」
子供は、少し考えてから頷いた。
「それは、あなたが確かに感じた、あなたの気持ちだから」
「……うん。……やっぱり、その子にあとで、直接言ってみよう、かな」
「ええ。できそうなら」
それで終わりだった。
解決でも、指示でもない。
遠くで見ていた教師が、ほっと息を吐く。
“うまくいった”と、誰もが思った。
声をかけた時よりはるかに明るい顔になった子供が元気よく駆けだしていく。ルミエは優しく手を振ってその様子を見送ってから、そのまま廊下を歩き出す。
(……ああ、帰ったら、何も考えずにベッドに飛び込みたい)
その願いが叶うかどうかは、分からなかった。
その晩。
食堂では、レオンの楽しげな声が響いていた。
「ねえ姉さま、今日はどんなお話をしたの?」
「今日はね……難しい質問が多かったわ」
「でもちゃんと答えられたんでしょ? 姉さまってすごいね!」
「ふふ、どうかしら?」
そう言って微笑むルミエの声は、穏やかだった。疲れを見せることもなく、いつもどおりに。
フランソワは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
(問題は、起きていない)
学校も、商人も、貴族も、教会も。
以前よりは軋轢が減った感覚は確かにある。目だった何かがあったわけでもない。そして、『失敗をさせない』という結果に陰でそっと助力をしているのはルミエであることは明らかだ。
そう、うまく回っている。
それが、ここ最近ずっと続いている。
(……続きすぎている)
ルミエは、今日も笑っている。
レオンの話に耳を傾け、頷き、応える。それは、良い光景だ。
ルミエが弱音を吐いたことはあったか?
――数えるほどだ。
他者の役に立っている実感がある限り、あの子は自分を省みない。
――だからこそ。
「ルミエ」
名を呼ぶと、娘はすぐに振り向いた。
「はい、どうされましたか?」
完璧な反応だった。娘として父親に向ける愛情と信頼の籠った瞳、安心しきった笑顔。
それを見て、やはり父親として今、決断を下した。
「少し、休もうか」
一瞬の間。だが、ルミエの表情は崩れない。いや、崩れないように見えてわずかに逸らされた視線が、フランソワにルミエの内面を伝えてくれているかのようだ。
「……はい。ですが……」
了承と同時に心配が勝っていた。
(そうだ)
ルミエは幼いころからそういう子だった。他者の幸せが、きっと、自分の一番の喜びなのだろうから。
フランソワは、それを見て確信する。
(このままでは、“慣れ”が彼女を消耗させる)
今だからこそ。皆が慣れ、制度が落ち着き、代わりも立てられる今だからこそ。
止めるのは、父の役目だ。
「姉さま! お休みするの!?」
レオンが無邪気にルミエに笑いかける。姉と一緒の時間が増えることの純粋な喜び。
「ええ、そうよ。少しお休みすることにしたの」
ルミエは、それに応える。
フランソワが決して失えない大切な二つの宝。
何も問題はない。”今は”。
だからこそ、決断は静かだった。




