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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『光を仰ぐ人々 』
22/23

『それぞれの理由』

最初に気づいたのは、商人だった。

取引の席で声を荒げる必要がなくなった。

条件を詰める場で、誰かが意固地になることが減った。

以前なら、必ずどこかで躓いていた話が、最後まで静かに進む。

理由は、はっきりしている。


「ヴァロワのお嬢さんが同席していたからでしょう」


そう言われて、誰も否定しなかった。

彼女が何か特別な提案をしたわけではない。

値を下げたわけでも、譲歩したわけでもない。

ただ、そこにいて、相槌を打ち、時折言葉を添えただけだ。

それなのに、場は丸く収まった。


「不思議な子だよ」

「いや、商人向きなんだ」

「いやいや、あれは才能だ」


評価は分かれているようで、結論だけは一致していた。

――いてくれると、助かる。




別の場所では、教会関係者がそう語った。

王都ほどではない、小さな教会。

聖職者としては中堅に差しかかる年齢の男が、記録をまとめながら言う。


「特別に敬虔というわけではありません」

「奇跡を起こすわけでもない」

「ただ……信徒が落ち着くのです」


彼女が来た日。

話を聞いてもらった信徒たちは、帰り際に深く頭を下げていた。

祈りの言葉が増えたわけではない。

告白が劇的に変わったわけでもない。

それでも、


「話を聞いてもらえた」

「分かってもらえた気がする」


そう言って、穏やかな顔で帰っていった。


「扱いやすい子ですよ」

「こちらの話を、きちんと聞いてくれる」


それは、聖女に向ける言葉ではない。

だが、教会にとっては十分すぎる評価だった。




貴族の間でも、噂は広がっていた。

下位から中位。

王都に顔は出すが、常に中央に立つわけではない家々。


「商人の娘だそうだ」

「だが、礼を失しない」

「分を弁えている」


何より評価されたのは、そこだった。

出しゃばらない。

立場を理解している。

それでいて、場を冷やさない。


「調整が楽だ」

「同席していると話が進む」

「角が立たない」


誰かが言い、別の誰かが頷く。

貴族社会において、それは称賛に等しかった。




子供たちの間では、もっと単純だった。


「優しかった」

「話を聞いてくれた」

「一緒にいると楽しい」


理由はそれだけだ。

けれど、その言葉は親を通じて、家を通じて、自然と広がっていく。


「また会いたいそうで」

「随分気に入ったようです」


それを聞いて、大人たちは笑う。


「子供は正直だからな」


――その正直さが、何を生んでいるのかを考える者はいなかった。





フランソワは、執務室で書類の整理をしながら傍らに立つ執事に声をかけた。


「最近のあの子をどう思う?」


セシルと結婚する以前から、随分と長くフランソワに仕えてきた彼は、その言葉が誰を指すかはすぐにわかる。そして何を聞かれているかも


「ええ。以前よりも笑顔が増えたように思います」

「お前から見てもそう思うか」


その言葉はヴァロワ家の家長ではなく、父親としての穏やかなものだった。


「子供のころ、といっても今も子供だが。昔のあの子はしっかりしていたが、しっかりしすぎていた」

「ええ。今では年相応、という言葉がよく似合いますな」


執事はそう答えながら、書類の位置を静かに整えた。

動作はいつも通り正確で、感情を乗せすぎない――それでも、声の端には確かな安堵があった。


「私も、そう感じている」


フランソワはペンを置き、椅子に深く腰掛ける。


「昔はな……あの子は、こちらが何も言わずとも察して動いた。手がかからない子だった。商人の娘としては、理想的すぎるほどに」

「はい」

「だが、正直に言おうあれは……父親としては、少し、寂しかった」


言葉を選びながら、フランソワは続ける。


「泣き言も、わがままも、ほとんど言わなかった。こちらが頼る前に、先回りして答えを出す。まるで、大人のようだった」


執事は、ゆっくりとうなずいた。


「奥様も、よくそのことを案じておられましたな」


「……ああ。セシルは、よく言っていた。

 “あの子は優しすぎる”と。そのセシルが逝ってしまってからは特に、な」


それは責める言葉ではなかった。

寂しさと苦みと懐かしさ。複雑な感情の声に執事は穏やかに頷くだけだ。


「最近はどうだ?」



フランソワは、ふと視線を上げる。


「よく笑うようになった。冗談も言う。レオンと戯れる姿も、ずいぶん自然になった」

「ええ。お茶の時間なども、楽しそうにしておられます。

 以前は、どこか“役目”を果たしているようでしたが……今は、そうではありませんな」

「そうだな」


フランソワは、小さく息を吐いた。


「……やっと、子供らしくなってきた、いや、子供らしくしても良いと気が付けたのだろう」


その言葉には、疑いも迷いもなかった。


「成長、というやつだ。

 学び、外の世界を知り、人と関わることで、少しずつ心が柔らいできた。そういうものだろう?」

「はい。ごく自然なことかと」


執事はそう答え、ほんのわずかに口元を緩めた。


「この家も我々も、お嬢様に多くを求めてきました。

 それでも、折れずに育ってくれた。……いえ、育っている」

「……ああ」


フランソワは、机の上の書類から視線を外し、窓の外を見る。

夜の気配が、静かに屋敷を包んでいる。


「私も、少し肩の力を抜くべきなのかもしれんな」

「旦那様?」

「父親として、だ」


自嘲気味に笑ってから、フランソワは言った。


「つい、先のことを考えてしまう。

 だが……今は、あの子が穏やかに笑っている。それだけで、十分なのだろう」


執事は、深く頭を下げた。


「はい。きっと、奥様もそうお考えでしょう」


フランソワは何も言わなかった。

ただ、その言葉を否定しなかった。

執務室には、穏やかな沈黙が落ちる。

不安はない。違和感もない。

そこにあるのは、確信に近い安堵だけだった。



それらの噂は、やがて一つの形を取る。

商人。

聖職者。

貴族。

子供。

立場も年齢も違う者たちが、

それぞれの理由で、同じ名を挙げる。

ルミエ・ヴァロワ。

評価は統一されていない。

像も一致していない。

それでも、共通する言葉があった。

「いなくなると、困る」




王都。

静かな応接室で、上級貴族の男が書簡を置いた。

商会からの報告。

教会関係者からの雑談。

下位貴族からの世間話。

どれも取るに足らない。

どれも些細な話だ。

だが、繰り返される名に、男は小さく息を吐いた。


「なるほど……」


商人の家。

魔石のヴァロワ。

そして、その娘。


「ルミエ・ヴァロワ、か」


特別な功績はない。

派手な話題もない。

それなのに、

どこへ行っても、名が出る。

あの厳格で厳正な判断を下すクラリス家もヴァロワを評した、とも聞いている。


「それほどならば――」


男は立ち上がる。魔石のヴァロワが不可侵であるのはあくまで暗黙。それに、攻撃をしてはいけないという意味で、今回に関しては決して悪い話ではないのだから。


「直接、噂を確かめねばなるまいな」


その判断が、

どれほど自然で、

どれほど取り返しのつかないものかを、

この時、誰も知らなかった。

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